ジャネット、異国の地を踏む
後悔先に立たず。
覆水盆に返らず。
死んでからの医者話……
とにかく、ジャネットは猛烈に後悔していた。
──ああ、なんでこんなことに。
ずいっと間近に迫ってきたその妖艶な美女──名前は知らない──に、ジャネットは思わず後ずさった。
「ねえ、悔しいでしょ!?」
何だろう、このシチュエーション。物凄いデジャヴなんですけど。
「その騎士様とやらに目にもの見せてやるのよ。いいこと。自分に想いを寄せていたけど袖にした女性が物凄い美女に化ける。そして、世の男を魅了するところをみせつけてやるの。後悔させてやるのよ!」
目の前の美女は声高々に宣言すると、びしっとジャネットの鼻先に人差し指を突き付けた。
「はぁ……」
「はぁ、じゃない!」
「はい?」
「よし。では、今夜の舞踏会に向けて行くわよっ!」
有無を言わせぬ迫力で美女が鼻息荒くジャネットの腕を掴む。
──ああ、なんでこんなことに。
ジャネットは庭園のベンチで一人過ごし、見知らぬ人物につらつらと身の上話をしてしまった自らの迂闊さを、深く後悔したのだった。
***
時は前日に遡る。
ルロワンヌ王国を出立してからちょうど十日後、ジャネットは人生で初めての異国の地を踏んでいた。
到着したこの日、到着したばかりのジャネット達一行は、外務官らに案内されて王宮の貴賓用客室のエリアへと案内された。
シュタイザ王国の宮殿は、贅を尽くした豪華絢爛な造りをしていた。壁や天井には精緻な飾りが施され、惜しげなく金箔が張られている。合間には美しい絵が描かれている。その絵は男神と女神と天使だったり、ダンスを踊る少女であったり、どこかの風景──もしかしたら想像の世界かもしれない──だったりした。廊下には至るところに芸術品が置かれ、一切の隙がない。
滞在するエリアに辿り着くと、廊下には数十メートル置きにシュタイザ王国の騎士が一人立ち、警備にあたっている。
「こちらが王女殿下のお部屋、こちらが王子殿下のお部屋です。侍女の方々は少し離れたあちらにお部屋をご用意しました。近衛騎士の方々もあちらへ」
外務官に説明され、ジャネットは廊下の向こうを眺めた。長く続く廊下には等間隔で扉が並んでいるが、向こうの方がその間隔が短い。きっと、部屋の造りが違うのだろう。
シルティ王女の部屋から少し離れた場所にジャネットや他の侍女達の部屋があり、反対隣の一部屋がエリック殿下の部屋、さらにその奥の少し離れた場所にアラン達近衛騎士の部屋を用意したと言う。
自分の荷物を部屋の入り口に置くとジャネットはすぐにシルティ王女の部屋を訪ねた。まずはシルティ王女の荷ほどきをしようと思ったのだ。そして、その部屋を訪れたジャネットは思わず感嘆の息を漏らした。
「さすがは芸術の国ね。すごいわ」
やはり部屋の作りも内装もジャネットの部屋とは少し違っていた。
統一感ある纏められた調度品は華美になりすぎない程度の程よい装飾が施され、一部には金箔が貼られた豪華なものだ。壁にはどこかの湖だろうか、宮廷画家達が描いたであろう風景画が飾られている。そして、窓際のテーブルには美しい絵付けが施された花瓶が置かれ、その花瓶にはまだ瑞々しさを保ったままの花が美しく生けられていた。さらには、部屋の至るところに彫刻が置かれ、バスタブ一つとっても見事な曲線はそれ自体が芸術品であることを窺わせた。
「着替えたら、シュタイザ王国の王室の方々にご挨拶に行くわ」
シルティ王女にそう言われ、ジャネットはすぐに頷いた。いつまででも眺めていたい美しさだが、そうもしていられない。
「はい。すぐにご用意しますわ」
ジャネットはそう言うと、ぽんと合図に手を叩いた。
「さて、始めましょう」
ジャネットの掛け声で今回の外遊に同行した侍女達も一斉に作業を始める。ジャネットはトランクから衣装や小物を取り出すのを手伝った。
詰み重なったトランクはかなりの量だ。ドレスが潰れないようにあまりぎゅうぎゅうと押し込むことが出来ず、何箱にもなっていた。早くクローゼットにかけないと、シワになっては大変だ。
豪華なドレスをクローゼットにしまい終え、次にトランクの中から出てきたのは少し大きめの箱だった。開けてみると、中から出てきたのはクリスタルが飾られた豪奢な靴だった。
「素敵な靴ですわね」
「ええ。アマンディーヌ様と相談して新調したの」
シルティ王女は嬉しそうにはにかむ。少し高めのヒールはシルティ王女のクレイン王子に少しでも大人っぽく、そして華やかに見せたいという意思の現れに見えた。
たんたんと作業をしていると、ドアをノックする音がしてジャネットは部屋のドアを開けた。そこには白い近衛騎士姿のアランがいた。
「手伝おうか?」
「大丈夫ですわ。荷物は全て整理し終えました」
部屋の中が見渡せるようにジャネットは少し体をずらした。中の様子をざっと見たアランは小さく頷く。
「ならよかった。エリック殿下の部屋も終わったみたいだ」
「では、シルティ様のご準備が終わり次第お声がけします」
「分かった。頼んだよ」
そう言うとアランは少し口の端を持ち上げ、その場を辞した。
ジャネットは侍女達と共にシルティ王女を美しく着飾った。
とは言っても、挨拶に行くのにあまりごてごてさせるのもどうかと思ったので、持参したドレスの中では比較的落ち着いた雰囲気のものを選び、シルティ王女にも相談してそれに決めた。金の艶やかな髪は全ての髪を結い上げて、控えめな羽の飾りが付いた髪飾りを添える、ルロワンヌ王国で流行となっているスタイルだ。
最後に、化粧はアマンディーヌと散々練習したことを思い出しながら、ナチュラルメイクに少しアイライナーを強めに入れて大人っぽさを作り出した。
「いかがでしょうか?」
「いいと思うわ。素敵ね、ありがとう」
鏡の前でシルティ王女が右に左に体を捻り、出来栄えを確認する。満足いく仕上がりだったようで、その表情は明るかった。
「では、わたくしがアラン様にお声がけして参ります」
「ええ、ありがとう」
廊下へ出ると、アランはすぐ隣のエリック殿下の部屋のドアとの中間地点に、壁に背を向けて立っていた。ジャネットはアランに呼びかけてエリック殿下に準備が終わったことを告げてもらった。
暫くすると、正装姿に着替えたエリック殿下がシルティ王女の部屋を訪ねてきた。正装姿と言ってもごてごてした仰々しいものではなく、飾りの少ない宮廷服だ。
「じゃあ、わたくし達は少し外すから、一時間くらいは楽にしてて」
笑顔でそう言うと、シルティ王女とエリック殿下はシュタイザ王国の外交官に案内されて謁見へと向かった。
シュタイザ王国の王太子の誕生日パーティには本当に沢山の来賓が呼ばれているようだった。
シルティ王女を見送ったジャネットは、廊下の向かいから見慣れない服装の一行が近づいてくるのに気付いた。先ほどの外交官と同じ衣装を身に着けた人物が先導しているので、今到着したどこかの来賓なのだろう。
護衛騎士の腰に下げた剣が、まっすぐではなくて弧を描いているのが印象的だ。そして、騎士たちの中心には豪華なドレスに身を包んだ女性がいた。まっすぐに前を向き、堂々たる佇まいだ。頭には布を折って細いリボン状にした、ルロワンヌ王国では見かけない髪飾りをしている。
ジャネットはその場に立ち止まって頭を下げると、その一行が通りすぎるのを見送った。アランも頭を下げていたが、顔を上げると暫くその一行の後ろ姿を見つめていた。そして、振り返ると自分を見下ろしてきた。
「どうかされましたか?」
ジャネットは首を傾げる。
「うん。ジャネット嬢がよければ、ちょっと庭園に散策に行かないか?」
ジャネットは目をぱちくりとさせた。
庭園? 散策?
思考を停止させること数秒、ジャネットはハッと我に返った。
──デートだわ! デートに誘われたわ!!
「もちろん行きますわ!」
「じゃあ、メモ帳とペンを用意しておいて。すぐに部屋に迎えに行く」
「はい!」
返事をしながら、なんでデートにメモ帳とペンが必要なのだろうと、ちょっと疑問には思った。けれど、それ以上にデートのお誘いが嬉しすぎる。
──デート! デート!! デートォォォォ!!!!
ジャネットはすぐにコクコクと頷くと、スキップしながら部屋に戻ったのだった。




