ジャネット、ダンスを踊る
久しぶりに見る元婚約者は少しやつれたように見えた。アランと同じ黒い髪を後ろでまとめ、アランより少しだけ濃い緑の瞳。相変わらずの甘いマスクは健在だが、目の下に薄っすらとくまが出来ている。「どうしてここに?」と言いかけて、ジャネットは口を噤んだ。今日は王室主催の舞踏会なのだから、国内の殆どの貴族が招待されているはずだ。ダグラスがいたところで何ら不思議はない。
「お久しぶりでございます、ダグラス様」
「久しぶりだね、ジャネット」
ダグラスはジャネットが普通に挨拶したことにホッとしたような表情を浮かべた。どこか疲れたような様子が窺える。
「ダグラス様、顔色が悪いですわ。具合が悪いのですか?」
「……。ああ、ちょっと最近悩み事があってね。よく寝れていない」
「まあ、それは大変だわ」
ジャネットは眉をひそめた。
「わたくし、また葱を取り寄せましょうか?」
「え゛? いや、葱はもういいよ。それより、二人で話せないかな? その、休めるところで」
葱はもういいのか、とジャネットはちょっぴりがっかりした。せっかくいい治療法を紹介したのに、あまりお気に召して貰えなかったようで残念だ。
「じゃあ、あちらのベンチに行きますか?」
ジャネットは会場の端に置かれた休憩用のベンチを指差した。ダグラスはちらりとそちらを見ると、ゆるりと首を振る。
「休憩室はどうかな?」
「休憩室?」
ジャネットは眉をひそめた。休憩室は会場の傍に用意された、言葉通り休憩するための部屋だ。通常、ベッドと椅子などが置かれており、そのまま泊まることも可能だ。
ジャネットが眉をひそめたのには理由がある。休憩室は休憩する目的と同じくらい、いや、それ以上に燃え上がった男女の戯れに使われることが多いのだ。さすがのジャネットもそれくらい知っていた。目の前にいるのはダグラスであり、相手であるジャネットは舞踏会でさんざん放置されるほどダグラスの好みから外れている女である。自分が男女の戯れに誘われるとは到底思えない。そこまで考えて、ジャネットはハッとした。
「ダグラス様、もしや立っていられないほどの体調不良?」
「は? あ、ああ。そうなんだ。だから静かなところに……」
言葉を濁すダグラスを見てジャネットは頷いた。
先日、ダグラスからは大病に侵されて体調が悪いと手紙を受け取ったばかりだ。葱の効果で元気がよくなったとは言え、まだ本調子ではないのだろう。いくら決別した元婚約者とは言え、体調不良の人間が目の前にいるのにそれを放置して舞踏会を楽しむほど、ジャネットは非情な人間ではない。
「分かりました。行きましょう」
「じゃあ、あっちに──」
「ちょっと、待ちなさい!」
休憩室へと向かって歩き始めたそのとき、ドスの利いた呼び声がしてジャネットとダグラスは足を止めた。
「え? ……アマンディーヌ様?」
振り向いたジャネットは呆気に取られた。そこには怖い顔をしたアマンディーヌがいた。顔は無表情なのだが、目が怒っていた。アマンディーヌに散々怒られたことがあるジャネットには分かる。これは本気で怒っている時の顔だ。
「ダグラス様。私、とても良い眠りに誘える技術がありますのよ。それなのに、私を差し置いて、この子を誘うだなんてどういうことですの?」
「は? なんだオマエ」
「とにかく、ダグラス様は私と! 最高の眠りをご提供しますわ」
「ちょっと、待て……」
ダグラスが突然現れたオネエに引きずられて休憩室に消えていく。ジャネットはその様子を、呆然と見送った。
──何だあれ? 何だあれ?? どういうことだ!?
ジャネットの頭は混乱し、思考はぐるぐると目まぐるしく回転する。
舞踏会会場にアマンディーヌがいることにはさほど驚かない。しかし、今のアマンディーヌはなぜか明らかに不機嫌顔で、極めて心外だと言わんばかりにダグラスに詰め寄って休憩室に引きずって行ったのだ。突然現れたアマンディーヌがまるで痴話喧嘩をするかの如くダグラスに詰め寄り、首根っこを掴んで休憩室へと連行していった。いったいどういうことなのかさっぱりわからない。
「もしかして……」
しばらく呆然と立ち尽くしていたジャネットは、ここにきて、とある可能性に行きついた。もしもこの予想が正解であれば、これまでのことも納得いくのだ。しかし、そうだとしたら、間違いなく自分はアランにとんでもない迷惑をかけていただろう。
ジャネットはショックのあまり顔面蒼白になってふるふると震えた。
どれくらい経っただろう。数分かもしれないし、数十分だったかもしれない。茫然自失のまま立ち尽くしていると、すまし顔のアマンディーヌが戻ってきた。
「アマンディーヌ様、ダグラス様は?」
「伸びてる──、じゃなかった。寝ているわ。宣言通り、深い眠りについていただいたわ。たぶん、明日の朝まで起きないわね」
「お傍に付いていなくていいのですか?」
そういいながら、じわりと視界が滲む。アマンディーヌは怪訝な表情でジャネットを見返した。
「なんで私がダグラス殿の傍についている必要があるのよ。頼まれても御免だわ」
「だって、お好きなんでしょう?」
「……は?」
「わたくし、アマンディーヌ様のお好みが男性だったとは、これまで全く考えが至りませんでした」
そう、これこそがジャネットの出した結論だった。
それならば、どんなにジャネットが頑張ってもちっとも傾かないのも頷ける。なぜなら、アランもとい、アマンディーヌは男色だったのだ! 好みの男性がジャネットのようなパッとしない女と休憩室に行こうとしているところを目撃して、怒り心頭に発したに違いない。
目にたっぷりと涙を浮かべたジャネットがそう言うと、アマンディーヌはポカンとした顔をした。そして数秒の後に絶叫した。
「んなわけねーだろ!!」
「え? 違うの?」
「違うわ!」
では、なぜダグラスと二人で休憩室に消えていったのか。深まる謎に眉をひそめるジャネットを見下ろし、アマンディーヌははあっと深いため息をついた。
「アンタって、ほんと考えが斜め上だわ」
「そうですか?」
「そうよ」
そう言いながら、アマンディーヌは視線を落とし、ジャネットがドレスにぶら下げたダンスカードを手に取った。無言でそれを開くと、中を確認する。
「簡単なワルツしか埋まってないじゃない。せっかく練習したのに」
「まだ上手く踊れる自信がなくて……。お相手の方に迷惑をかけてしまうかと」
自信なさげにそう言うジャネットを、アマンディーヌは少し困ったような表情で見下ろした。そして、ダンスカードから視線を外すと時計を確認した。
「今はまだ舞踏会の中盤よね。ペンを貸して」
「ペン? どうぞ」
ジャネットがダンスカードへの書き込み用に持っていた手持ちのペンを手渡すと、アマンディーヌはそれでダンスカードにさらさらと何かを書き込んだ。
「わたしは少し外すから、会場に戻りなさい。休憩室には絶対に近づいちゃダメよ」
そう言い残すと、アマンディーヌは舞踏会会場を後にする。アマンディーヌの後ろ姿が角で消えたのを確認してからジャネットはドレスにぶら下がったダンスカードを開き、目をみはった。そこには、『アラン=へーベル』の名前があった。
舞踏会も終わりかけの時間にパートナーも連れずに現れた氷の貴公子、アラン=へーベルの姿にその場にいた多くのご令嬢はざわついた。今はもう終わりかけに近い時間。皆、ダンスカードを必死になって全部埋めた後だった。
誰もが悔しがってハンカチを咥える中、金糸の装飾が施された豪華なフロックコートを身につけたアランはまっすぐにジャネットの元に訪れた。
「アラン様、何で……」
「アランが相手だったら、蝶のように軽やかに踊れるって大口を叩いていたのは誰だ?」
そう言われて、ジャネットは眉尻を下げた。確かに言ったのはジャネットだが、本気で言ったわけではなかった。
「ほらっ、いくぞ」
動こうとしないジャネットの手を、アランが少し強引に引く。ホールの中央に立ったジャネットは緊張の面持ちでアランと向き合う。これまでにない距離の近さにジャネットの胸は早鐘を打った。
「エスコート役がいないなら、なんで言わないんだよ」
「え?」
不貞腐れたように呟くアランに、ジャネットは咄嗟に聞き返す。しかし、アランは「なんでもない」とぶっきらぼうに言うと、ジャネットの耳元に口を寄せた。
「以前言っていた、『イメージトレーニング』とやらの成果を見せてくれ」
そう囁かれたと思った次の瞬間、オーケストラによる曲の演奏が始まった。毎日毎日、何時間も繰り返し練習しているので、条件反射で勝手に体が動き出す。早いステップに足がもつれそうになると、それに気付いたアランが体をぐいっと持ち上げて転ばないようにしてくれる。
──楽しいわ。
ジャネットはそう思った。ダンスは苦手だからレッスンは怒られてばかり。はっきり言って辛いことが多い。けれど、広い舞踏会会場の真ん中でアランと踊るダンスは楽しかった。自然と表情を綻ばせると、目が合ったアランの新緑の瞳が柔らかく細まる。クルリ、クルリと回る景色とふわふわとした感覚が、まるで夢の中のようだ。
「お見事。上手だったよ」
曲が終わった時、アランはジャネットにそう言って微笑んだ。けれど、『上手』と言うのはお世辞だろう。なぜなら、ジャネットは何回か足をもつれさせそうになってアランに支えられたのだから。それでも、難しい曲を一曲踊りきったことはジャネットの中で大きな自信に繋がった。
──アラン様と、踊れたわ。
ダンスが終わった後に愛の告白はなかったけれど、ジャネットにとって、アランと踊ったことはこの日の舞踏会で一番の思い出になった。
ちなみに二番の思い出は怖い顔をしたアマンディーヌとダグラスが二人で休憩室に消えていったことだが、その理由は今も謎のままである。




