ジャネット、舞踏会へ行く
ルロワンヌ王国の社交シーズンは秋の終わりから始まり、翌年の初夏まで続く。
じつに一年の三分の二が社交シーズンにあたり、とても長いのだ。そのため、トップシーズンである真冬から春先だけ参加して、その時期を過ぎると義理は果たしたとして、領地へと戻り始める貴族も多いし、そうしても特に咎められることもない。
庭園を散歩すれば赤や黄色の花が咲き乱れ、ミツバチ達がせっせと花粉を集める景色がそこかしこでみられるようになった今日この頃。お茶会の場所も暖かい室内から、新芽の香るそよ風がなでるテラスへと様変わりする。そんな頃、ルロワンヌ王国ではトップシーズンの終わりを告げる王室主催の大規模な舞踏会が開催される。いつもならあと一月ほどは遅いのだが、今年はレイモンド王太子、エリック王子、シルティ王女の三人が三人とも外遊の予定が入っているため、早めに開催されるのだ。
「なにを着ようかしら?」
「○○様は××様のエスコートをされるんですって」
「まあ、羨ましいわ」
「△△様はエスコートの申し込みが三件も来たらしいわ。誰にするのかしら?」
「最後くらい、彼とダンスを踊りたいわ」
この時期、社交界ではそんな会話があちこちで聞こえてくる。
王室主催ともなると、国内の貴族はほぼ全員が参加する。社交シーズンも中でもトップシーズン始めと終わりの年二回しか開催されないその舞踏会は、数ある舞踏会のなかでも特別なものなのだ。
春の訪れは心華やぐ。ジャネットはそんな中、昨年の王室主催のパーティーを思い浮かべていた。ダグラスに連れられて訪れた舞踏会で、涙をこぼして身の上を嘆いていたころが、嘘のように遠い過去に感じる。
「シルティ様はどなたのエスコートでご参加を?」
ジャネットは上品な所作で紅茶を口に含むシルティ王女に、今回のエスコート役を誰にするのかを訊ねた。シルティ王女は持っていたティーカップを僅かな音も立てることなくソーサーに戻すと、顔を上げてにこりと微笑んだ。
「わたくしは今回はエリックお兄様にお願いする予定よ。エリックお兄様もそろそろ婚約者を決めなければならない時期ですし、これで最後かもしれないわ」
「ああ、そうですわね」
ジャネットは相づちをうつ。エリック殿下は現在十九歳、もうすぐ二十歳になる。王位は継げないため臣籍へと下るが、結婚はシルティ王女同様に国の益になるいずこかと縁を結ぶことを求められるだろう。これまで浮いた噂は殆どなかったが、二十歳ともなるとそろそろ本腰を入れて婚約者探しを始めなければならない年頃に差し掛かっていた。
「ジャネット様は、アランお兄様が?」
「え?」
ジャネットはシルティ王女にそう訊き返されて、目をぱちくりとさせた。
言われてみれば、シルティ王女のエスコートはアランかエリック殿下のどちらかが毎回行っている。今回エリック殿下が引き受けるならば、アランは空いているはずなのだ。
──エスコート、して欲しいな。
アランにエスコートしてもらえたら、どんなに嬉しいか。きっと、天にも昇る心地だろう。そこで頑張って練習しているダンスを踊って、優しく見つめられ、愛を囁かれたら……
そこまで考えて、ジャネットははたと思い留まった。今日もダンスレッスンのとき、出来が悪いと言われてこってりと絞られた。アランと人前でダンス? もしかしたら、彼に恥をかかせてしまうかもしれない。やっぱり無理だろう。
「わたくし、エスコートはお父様にしていただきますわ」
ジャネットは少し寂しいと思いつつも、笑ってその場をやり過ごした。
***
舞踏会当日、ジャネットは一旦実家であるピカデリー侯爵家のタウンハウスに戻った。
特別なこの日に身に着けるのは先日新調したばかりの水色のドレス。上半身は淡い水色、下半身も一見すると水色に見えるが、実際は濃い青に白いレースが重ねられている。胸元には手持ちのダイヤのネックレスを合わせ、髪にはこれまた新調したばかりの髪飾りを添えた。いくつかの石が散りばめられており、控えめに白い羽が付いている。
会場に着くと、夫婦揃っていい年のジャネットをエスコートしたピカデリー侯爵夫妻に、周りは注目したが、構わない。ジャネットは未婚であり、婚約者がいないのだから何も恥ずべきことなどない。エスコートしてくれる兄弟もいないし、従兄弟は皆結婚していた。父親に頼めば誰かしらに打診してくれただろうが、侯爵家にお願いされて仕方なく引き受けたと思われるのも嫌だった。
舞踏会の大広間に入ったジャネットはほうっと息を吐く。
毎日のようにダンスを練習している王宮の大広間は、この日ばかりは特別なものに見える。ジャネットは眩しそうに目を細めてあたりを見渡した。既に宮廷お抱えの交響楽団が歓迎の音楽を奏でている。普段は昼間しかここに来ないが、シャンデリアに明かりが灯された大広間は一面に光が溢れている。
しばらくするとホストであるロイヤルファミリーが現れる。最初に現れたのはシルティ王女とエリック殿下。シルティ王女は広い会場を見渡し、ジャネットの顔を見つけると表情を綻ばせた。ジャネットも少しだけお辞儀をして微笑んで見せる。次にレイモンド殿下と王太子妃、国王と王妃と続く。
舞踏会は最初にホストの国王夫妻が踊る。途中からレイモンド殿下と王太子妃、シルティ王女とエリック殿下も加わり、三組の男女が優雅に踊る様をジャネットは眺めた。昨年、今頃にはもうダグラスはいなくなっていた。だから、ジャネットはずっと壁の花でいた。
「ジャネット、踊ろうか」
「はい。お父様」
ロイヤルファミリーの後の母との一曲を終えた父に手を差し出され、ジャネットはコクリと頷く。ゆっくりとした曲調のダンスなら、以前とは比べ物にならないくらい上手く踊れるようになった。父と踊るダンスはいつ以来だろう。足がスイスイと動き、自然と笑顔が零れた。
その一曲を終えていつものように端に寄ろうとジャネットが動き出した時、「ジャネット嬢」と呼びかける声がしてジャネットは振り向いた。
「よろしかったら、ダンスのお相手をして頂けませんか?」
目の前の男性にそう声を掛けられて、ジャネットは目をパチクリとさせた。少しくせのある茶色の髪を後ろに撫でつけ、少したれ目の茶色い瞳の柔らかい雰囲気の若い男性がこちらを見つめている。
「まあ、アキュール様! ええ、是非。わたくしでよければ喜んで」
声を掛けてくれたのは数理学の講師をしてくれているアキュールだった。ジャネットは表情を綻ばせて頷く。いつも壁際に寄ってしょんぼりしていたジャネットが声を掛けられたのを見て、両親も嬉しそうに微笑む。
ジャネットとアキュールはお互いにダンスカードを開くと、相手の名前を書き込んだ。ダンスカードの横には演奏される曲名が記されている。ジャネットは少し考えて、一番簡単なワルツのときにお相手してもらえるようにアキュールにお願いした。
その後も次々と父の知人のご子息方から声を掛けられて、ダンスカードが埋まってゆく。こんなことは今までなかったので、ジャネットは戸惑った。両親にエスコートしてもらったことで、侯爵家の跡取り娘に特定の相手がいないと多くの男性に認識されたせいかもしれない。
何人かと踊り、再び壁際に戻ってきたと思ったら、すぐにまた「ジャネット」と声を掛けられ、ジャネットは振り返る。そこにいる人物をみてジャネットは驚いた。
「──ダグラス様」
そこには、元婚約者のダグラスがいた。




