ジャネット、ピアノを弾く
シュタイザ王国への出発が一ヶ月を切ったこの日、ジャネットはシルティ王女と肩を並べて、ライラック男爵の講義を受けていた。近々訪問予定のシュタイザ王国について学んでおり、いつもならあくびを噛み潰しているシルティ王女もいつになく真面目に取り組んでいた。パラリと本のページを捲る音が静かな部屋に響く。
「──以前から申し上げているとおり、シュタイザ王国は音楽と芸術を愛する国であります。国王を始めとして全ての王侯貴族は芸術を愛し、国中に美しいものが溢れています。町に一歩出れば至るところに大きなオブジェがありますし、ちょっとしたカップの絵付けまでありとあらゆる場所に芸術が見え隠れしているのです。そして、国民はこよなく音楽を愛しており、楽器を奏でることを好みます」
ライラック男爵は本を片手に部屋のなかをゆっくりと歩きまわり、説明を続ける。
「特に、音楽については幼い頃から英才教育を施すことが殆どです。楽器は様々ですが、音楽の才能に恵まれていることは良縁に恵まれる重要なポイントになります。男女共に異性の奏でる美しい音楽に心惹かれるものなのです」
ジャネットはなるほどな、と思った。程度の差はあれども、人は美しいものに惹かれるものだ。美しい音色で異性の心を掴む。なんとも音楽を愛する国らしい発想だ。
暫く講義は続き、時間になるとライラック男爵はパタンと本を閉じた。
「では、今日はここまでです」
「「ありがとうございました」」
全ての本や資料を鞄に詰めたライラック男爵は、お辞儀をして部屋を退室する。その様子を眺めていたジャネットは、隣のシルティ王女が妙にそわそわしていることに気付いた。
「シルティ様、どうかされました?」
「あのね、聞いてくれる? わたくし、楽器の練習をしているの」
「楽器?」
ジャネットはきょとんとした顔でシルティ王女を見つめた。シルティ王女はぽぽぽっと頬を赤らめる。
「今度、シュタイザ王国に行くでしょう? そのときに──」
シルティ王女は頬を紅潮させたまま、ごにょごにょと言葉尻を濁した。ジャネットは目をぱちくりとさせて数秒間沈黙したあと、ピンときた。シルティ王女のこの様子といい、ライラック男爵の先程の講義内容といい……
「もしかして、クレイン王子に音楽でアピールをしようと?」
「アピールというか、機会があったら披露できたらいいな、なんて……」
シルティ王女はますます頬を赤らめる。ジャネットはぱあっと目を輝かせた。確かにそれは名案だ。
「それはいい考えだと思いますわ。楽器は何を?」
「ピアノよ。小さい頃から毎日レッスンしているもの」
「まあ、ピアノ! いいですわね」
たしかに、シルティ王女がピアノを弾くのをジャネットは何回か目にしたことがある。いつも、シルティ王女らしいテンポの良い可愛らしい音色を奏でていた。次の講義はアマンディーヌによる淑女のためのレッスンだが、それまでには少し時間がある。大いに盛り上がった二人は、この合間を使ってさっそく練習を始めることにした。
~♪ ~♪ ~♪
ジャネットは椅子に座り、シルティ王女の奏でる音色に聞き入った。
奏でる曲は、ルロワンヌ王国で有名な恋のソナタだ。作曲家が若い娘の恋心を描いたというこの曲は、突然の恋心の自覚からはじまり、男女の初々しいやりとり、最後に両想いになるまでが三楽章になっている。若い令嬢の間では間接的に相手への想いを伝えるときに弾く秘めた告白の曲で、今のシルティ王女にぴったりの曲だと思った。
曲が終わり、シルティ王女が顔を上げる。ジャネットは手を胸より少し高く上げ、大きく手を叩き拍手を贈った。幼い頃から毎日練習しているというだけあり、お世辞抜きにとても素晴らしかった。きっと、シュタイザ王国外遊が決まってから、必死に練習したのだろう。
「とても素晴らしかったですわ!」
「本当? ありがとう。音楽の先生にも大分よくなったって褒められたの」
シルティ王女は嬉しそうにはにかむ。そして、椅子から立ち上がるとジャネットの方を見た。
「よかったら、ジャネット様も弾いてみない?」
「わたくしも?」
ジャネットは戸惑ったように聞き返した。
実はジャネット、侯爵家の一人娘だけあって三歳の頃から著名な音楽家を家庭教師につけて音楽のレッスンを続けてきた。シュタイザ王国程ではないにしても、ルロワンヌ王国でも音楽は貴族令嬢の大切な教養の一つだ。そんな中でも、真面目でコツコツタイプのジャネットのピアノの腕は、友人のご令嬢達の中でも折り紙つきだった。
しかし、侯爵家にいた頃は毎日触れていたピアノも、行儀見習いになってからは合間を縫って王宮の音楽室で週に一度触れるだけだ。しかも、この恋のソナタは弾いたことがない。
ジャネットはおずおずとピアノに向かった。置かれた楽譜を眺め、家庭教師の先生と毎回やってきたように、譜面を目で追ってゆく。正直、初見で弾くにはかなり難しい。
指を立てるように沿わせ、鍵盤を叩いた。
~♪ ~♪゛~♪゛
王宮の一室にたどたどしいメロディーが流れる。自分でも弾きながら、だいぶ滑らかさに欠けると思った。必死に一曲終えると、シルティ王女が目を輝かせてパチパチと手を叩いた。
「お聞き苦しいものを、失礼いたしました」
ペコリと頭を下げるとシルティ王女は目をぱちくりとさせて、ジャネットを見る。
「聞き苦しいですって? ジャネット様は今日初めてお弾きになったのでしょう? 上手だと思うわ」
「そうでしょうか?」
ジャネットは小さく首を傾げた。一応はピアノをずっと嗜んできた身だ。とても上手とは言いがたかったと、自分でも分かった。
「ええ。初見でこれってすごいと思うわ。ねえ、ジャネット様もう一度弾いてみて。一緒に練習しましょ?」
ジャネットは促されてもう一度ピアノに向かった。
~♪ ~♪ ~♪゛
さっきよりは随分と指が滑らかに動く。何回か弾くと思い通りのメロディーを奏でられるようになってきて、弾いているのがとても楽しくなってきた。この曲を作曲した作曲家は、いったいどんな娘をモデルにしたのだろうと、想像が膨らむ。
弾きながら、自然とアランの顔が脳裏に浮かんだ。
あのルイーザ侯爵邸での優しく微笑む黒髪の男の子との運命的な出会い(アランって分かってなかったけど)。
王宮の舞踏会での女装姿をした彼との劇的な再会(これもアランって分かってなかったけど)。
二人三脚、いや、三人四脚で歩む日々、そしてこれからの甘々の生活(これに関しては、完全なる妄想だけどね!)……。
自然と指も滑らかに動き出すというものだ。弾いていて、とても楽しかった。これまでの経過を考えると、これを聞かせてもアランを傾かせることは難しいだろう。だから、披露するつもりもない。けれど、いつかこの曲の少女のように、素敵な未来がくればいいなと思った。
その日以降、ジャネットとシルティ王女がお互いにアドバイスしつつ、楽しげにピアノの練習に励む姿が毎日のように目撃されるようになった。
***
訓練所で剣の打ち合いをしていたフランツは、ピアノの音色が流れてきたのに気付き、手を止めた。
「また聴こえてきた。最近、よく弾いてるよな」
声を掛けられたアランも剣を下ろすと、耳を済ました。このしっとりとした曲調は、おそらくシルティ王女の演奏だろう。
「最近よくこの曲を弾いてるけど、二人とも凄く上手だよな」
「ああ、そうだな」
アランは頷いた。
初めてジャネットとおぼしき人物が弾いた演奏を聞いたとき、アランはあまりの酷さに思わず「へったくそだな……」と呟いてしまったほどだ。一応メロディーにはなっているのだが、なんというか、音がゴロゴロしてて滑らかさがない。強弱のつけかたも弱いし、挙げ句の果てに時々間違えている。
これは、今度から音楽のレッスンも追加しなければならないかもしれないと、アランは頭を抱えた。魅力的な淑女とは、何かしらの楽器を優雅に弾きこなすものなのだ。シルティ王女はピアノが得意なので、音楽は気にしていなかった。
なんて手の掛かる奴なんだと内心舌打ちしそうになったアランだが、続けて聞こえてきた二度目の演奏を聞きハッとした。シルティ王女の足元にも及ばないが、先ほどと比べて随分と上手かったのだ。それは三回目、四回目と繰り返すたびにどんどん上達してゆく。
「あ、今度はジャネット嬢かな。同じ曲なのに、大分雰囲気が違う。面白いよな」
フランツが呟いたのでアランも耳を澄ました。確かに、この明るく軽快な曲調は、ジャネットの弾きかただ。ジャネットは通りかかった侍女達も思わず足を止めるほどの、楽しげな音色を奏でる。最初のたどたどしさは全くなく、もしかしたらシルティ王女より上手いかもしれないと思った。
「凄く楽しそうだけど、いつも何を想像しているんだろ?」
「──さあ、なんだろうな」
アランはフッと笑うと、メロディーの聞こえる部屋の窓を見上げて目を細めた。




