訓練場にて②
「誕生日パーティーは二ヶ月後でしたかしら?」
ジャネットは頭の中で、シルティ王女の予定表を思い浮かべた。ちょうど外遊期間がジャネットの行儀見習い期間中に当たるので、ジャネットもお付きのものの一人として同伴するようにと申し付けられたのだ。
「ああ、そうだよ。ただ、シルティ殿下の初めての外遊だから、体に負担が少ないよう、ゆっくりとした行程が組まれる予定なんだ。片道十日間かける予定」
「そんなに?」
ジャネットは驚いて、横にいるフランツを見上げた。
ジャネットの知識では、シュタイザ王国の王都と我がルロワンヌ王国の王都はそこまでは離れてはいない。実際に往復したことはないが、地図で見た限りでは片道一週間あれば到着する距離に思えた。きっと、シルティ王女が慣れない旅で体調を崩したりしないよう、細心の注意が払われているのだろう。滞在は三日程度だから、移動の方がずっと長いことになる。
「ジャネット嬢は同伴の予定?」
「はい。ありがたいことにご指名いただけました」
「そう。実は、僕も随行者に指名された。今回のシルティ王女の護衛に当たる近衛騎士隊は隊長にアランが当たる予定」
「ああ、そうでしたわね」
訓練場の中央付近で、アランとシルティ王女は早速準備体操を始めていた。柔軟体操しているシルティ王女の背中をアランが押している。シルティ王女は体が柔らかいので、ぺったりと胸が地面についていた。
「さて、じゃあ僕らもそろそろレッスンしようか」
「お付き合いいただけますか?」
「もちろん。実際、近衛騎士は男ばかりだから護衛対象のシルティ王女から離れなければならないことも多い。そんなとき、シルティ王女の身の回りに護身術に長けた人間がいることはとても心強いんだ」
フランツは屈託なく笑う。そう聞いて、ジャネットはなるほどと頷いた。
騎士は男しかなれないという決まりはないが、実際には男しかいない。ルロワンヌ王国唯一の女性近衛騎士は現在王妃さま付きとなっており、シルティ王女付きの女性騎士は一人もいなかった。着替えや湯浴みのときなど、どうしても目を離さざるを得ないのだ。フランツはジャネットにそのときの護衛としての役割を期待しているのだろう。
「早速始めようか」
「はい!」
ジャネットは以前に比べると、だいぶ護身術に長けてきた。相手が緩慢な動きであれば難なく押し倒すことが可能だし、以前に比べて相手から手が伸びてきた際の反応もよくなったと思う。流石に現役近衛騎士から本気を出されれば一溜まりもないが、手加減してくれるので問題ない。特に、ジャネットは足払いで相手の足元をふらつかせるのが得意だった。
「だいぶ上手になったね。」
「そうですか? うふふっ。では、シルティ様のサービスシーンはわたくしが命にかけてお守りしますわ!」
拳をぐっと握りこむジャネットを見て、フランツはきょとんとした顔をする。そして、すぐに笑いだした。
「これは頼もしいな。でも、ジャネット嬢はあくまでもか弱い女性なんだから、無理せずに助けを呼ぶんだ。わかる?」
「……は、はい」
カーっと耳が赤くなるのを感じる。『上手になった』と言われても、元が完全なる素人なのだから大したことないのだ。それなのに、ついつい嬉しくて調子に乗ってしまった。
「ジャネット様! 楽しそうですわね。なんのお話を?」
ジャネット達の楽しげな様子に気付いたシルティ王女が目を輝かせてこちらにやって来た。後ろからアランもついてきている。
漆黒の髪を靡かせて、涼しげな目元に新緑のような瞳。深い緑色の瞳と視線が絡み、ジャネットの胸がドクンと跳ねた。
「今度の外遊で、シルティ様の身はわたくしが守りますって話を……」
ジャネットは別の理由で赤くなった顔をごまかそうと、口元を手で覆い、ほほほっと笑った。
「ジャネット嬢が? 近衛騎士がつくだろう」
アランの眉間に皺が寄る。ジャネットは慌てて両手を胸の前で振って見せた。近衛騎士のことを信用していないわけではないのだ。
「もちろん、近衛騎士の方々のことはとても頼りにしております。けれど、さすがに入浴中や着替え中はお側を離れるでしょう?」
「ああ、なるほど……」
アランが小さく呟く。そして、真摯な眼差しをジャネットに向けた。
「王女殿下を守ると忠義に燃えるのはいいことだが、無理は禁物だ。ジャネット嬢は騎士ではないのだから」
「そうですわ。わたくし、ジャネット様と同じくらい強いですわ」
シルティ王女も頬を膨らませる。
ジャネットは恥じらいから居心地の悪さを感じながら二人を見返した。
「はい、わかっております。先ほどフランツ様にも同じことを言われましたわ。自分の力量くらい、弁えております」
ジャネットはあくまで素人が少し齧っただけのレベルであり、近衛騎士達の足元にも及ばない。それくらいはわかっていた。アランの形のよい眉間にぐっと皺がよる。
「そういう意味じゃないんだ」
「? アラン様?」
見つめ返すジャネットに答えることなくアランはフイッと目を反らす。そして、シルティ王女に視線を向けた。
「ところでシルティ殿下。今日は数学の講義だったと記憶していますが、いかがでしたか?」
突然話を振られたシルティ王女はきょとんとした表情をしてから、おほほっと口元をひきつらせた。
「とても興味深いお話でしたわ。ねえ、ジャネット様?」
後は任せたとばかりにすぐさま会話のキャッチボールをジャネットに託す。ジャネットは先ほど習ったことを思いだし、表情を綻ばせた。
「はい。今日は、複雑な図形の面積の求め方を習いました。とても面白いんですのよ。例えばこういう図形があったら、こことここの長さを測れば簡単に面積が求まりますの」
ジャネットはその場にしゃがみこむと土の地面に図形を描き、補助線を引いた。
「お二人は国立学院で学んでらっしゃるからご存知でしょうが、わたくしははじめて知りました。多分、殆どの人は知らないはずです。わたくし、こういうことは領地に戻ったらもっと領民に積極的に教えてあげるべきだと思うのです。だって、正確な作付面積がわかれば収入の予測に繋がるし、人手がどれくらいかかるかや、肥料がどれくらい必要かなんかもわかるでしょう? それに、数学ってとても大事です。計算がちゃんとできれば日常の買い物はもちろん、領主に多くの作物を搾取されているのではと領民が疑心暗鬼になることもなくなりますし、領主の不正も減ります。素晴らしいでしょう? わたくし、いつか領地に領民が通える高等教育機関を作りたいです」
そこまで夢中で話し、ジャネットはハッとした。気づけば、フランツとシルティ王女が呆気にとられた顔で自分を眺めている。ジャネットは急激に気恥ずかしさを感じて顔を俯かせた。
「申し訳ありません、夢中で喋りすぎました」
多分、自分は貴族令嬢としては変わり者なのだろう。こんな話題を夢中になって話す貴族令嬢など、まわりで聞いたことがない。俯いたままでいると、頭上からフッと笑うような気配がした。おずおずと顔をあげると、新緑の瞳が優しくこちらを見つめている。
「相変わらず、ジャネット嬢らしいな」
平静を取り戻していたはずの胸が再びドクンと跳ねる。アマンディーヌであるアランには、こんなことに興味を示すなんて女らしくないと怒られるかと思っていた。それなのに、この反応は反則だ。なんだか、目の前の人が自分を素から理解してくれているような錯覚に陥りそうになる。そう言えば、初めて会った日もぐちゃぐちゃのジャネットの髪を笑わずに直してくれて、可愛いといってくれた。
──アラン様、やっぱり好きだな……
白い近衛騎士の制服を羽織る後ろ姿を眺めながら、ジャネットは胸の前でぎゅっと手を握りしめた。一方通行のこの気持ちが、いつか報われる日がきますように。




