ジャネット、初デートに挑む②
ロペラ座には馬車で揺られること二十分ほどで到着した。大通りから見かけたことは何回もあるが、鑑賞したことは実は一度もない。大きな白亜の建物は石造りで、屋根の角からはグリフォンが見下ろしているのが見えた。
「ジャネット嬢。手を」
先に降りたアランに手を差し出され、ジャネットはどぎまぎしながらもそこに手を重ねた。ふと顔をあげると視線が絡み合い、ジャネットはパッと目を逸らす。元婚約者のダグラスはジャネットのエスコートをしても、殆ど顔を見ることもなかったから、どういう態度を示せばいいのかわからなかったのだ。
けれど、以前アマンディーヌに『柔らかい態度は相手に与える印象をよくする』と教えられたことをふと思い出して、おずおずともう一度顔を上げた。もう一度視線が絡んだので口の端を持ち上げて微笑むと、グリーンの瞳が柔らかく細まった。
優しい眼差しを向けられると、胸がきゅんと疼いた。
ロイヤルボックスシートからはロペラ座の全景が見渡せた。王室とその関係者専用というだけあり、舞台を真正面に見た少し高い場所に位置している。
「なにか頼もうか。お酒は飲めるよな?」
「嗜む程度であれば」
アランは手を挙げて会場内を歩く係を呼ぶと、小声で一言二言何かを伝えていた。暫くすると、トレーを持った給仕がやってきて、ジャネットとアランの間に置かれたテーブルに二つのグラスとフルーツの砂糖漬が置かれる。一口口に含むと、フルーティーな香りとしゅわしゅわとした炭酸特有の味わいがした。
「最近の婦人方の流行がここからだとよくわかるな」
アランの呟きを聞き、ジャネットはグラスを置いて正面を向いた。会場内を歩いていたり、端で歓談しているご婦人方の姿がここからだとよく見える。帽子は羽をつけるのが流行だとついこの間教えられたが、髪飾りも羽付きが流行っているようだ。
「羽付きの髪飾りが多いですわね」
「そうだな。あとは、ドレスにレース重ねのデザインが多い。下地の色は色々だが、濃い色の布地に透けたレースを重ねているだろう?」
「あら、本当だわ。たしか、シルティ様の衣装係の方も今シーズンから来シーズンの流行になるだろうと言ってましたわ」
ジャネットは相槌を打った。ロペラ座歌劇団はルロワンヌ王国一の歌劇団だ。歴史も格式も高く、観客は皆、とても綺麗に着飾っている。ぱっと見は、昨シーズンから流行しているスカラップ模様のデザインを着たご婦人が多い。ジャネットのドレスもスカラップ模様が取り入れられている。
それと同時に、会場内には衣装の一部に濃い布地と薄いレースを重ねたデザインを着ている人もチラホラと見えた。まださほど多くはないが、きっとこれから増えてきて、来シーズンには沢山のご婦人がこぞって身を包むようになるのだろう。
「アラン様と来るとよい勉強になります」
「そう? それはよかった」
ジャネットの呟きに、アランはくすりと笑った。
肝心の歌劇の方は、知っている内容と高をくくっていたが大間違いだった。原作が執筆された百年前を忠実に再現させた風刺は興味深い。ドレスのデザインなども今と違うし、ダンスに誘う際もダンスカードなどは無いようだった。ダンスカードの予約が虫食い状態になることの恐怖に怯える友人達の気苦労を思えば、羨ましいシステムだ。
「この時間だと開いている店も限られるけど、中心街に出てどこか寄って行く?」
「あ、はい。ご一緒します」
歌劇が終演後、アランにそう言われたジャネットは一も二もなく頷いた。休憩時間に食事も済ませたし、終わったら帰るだけだと思っていたのだ。思いがけずアランの方から誘われてジャネットは表情をほころばせる。
季節はずいぶんと春めいてきたが、まだまだ夜は肌寒い。冷たい風にぶるりと体を震わせると、それに気付いたアランが肩にかかっていたケープを締め直してくれた。アマンディーヌにはよくこういうことをしてもらっているのに、アランの姿でされると妙に胸がこそばゆく、ドキドキはおさまらなかった。
カタ、カタ、カタ、カタ……
馬車に乗ると、単調な振動がジャネットを揺らし始めた。ジャネットは前日の睡眠不足から、急激な睡魔に襲われていた。ロペラ座で飲んだお酒も思った以上に回っている。これから町の中心街に行くのだから起きていないと、と思うのに、瞼が堪えがたいほど重い。
「ジャネット嬢?」
「……はい」
「何か見たいお店はある?」
「ふぁい」
「ファイ? ジャネット嬢?」
「う…ん……」
「疲れてるなら帰ろうか?」
「や」
「ジャネット嬢?」
「……」
まだ帰りたくない。『香水を選んで欲しいです』と言ってみたいけれど、恋人でもないのだからそれは駄目だろう。どこがいいかしら、お菓子屋さんなら平気だろうか、などと思っているうちにどんどんと意識が薄れていった。
──なにかしら。ふわふわするわ。
とても温かいし、気持ちがいい。ジャネットはその温もりに擦り寄ると、心地よい揺れにそのまま身を任せた。
「ジャネット嬢、着いたぞ」
王宮に馬車が到着したとき、自身の肩にもたれ掛かってすやすやと眠るジャネットを見てアランは困惑した。声を掛けて肩をゆらしても、起きる気配がない。仕方がないので部屋まで運んでやってベッドに置くと、置かれたはずみでジャネットの目が一瞬パチリと開き、またトロンとした。
「アラン様?」
「なんだ?」
「今日はありがとうございます」
「ああ」
「アラン様」
「なんだ?」
「ふふっ、好きです」
ジャネットは嬉しそうに笑って、またすやすやと寝息を立て始めた。
「……知ってる。おやすみ」
アランはジャネットの体にそっと布団をかけると、その場を後にした。
***
なんということだ!
翌朝、自室で目覚めたジャネットは頭を抱えた。
初デート(?)で寝落ちなど有り得ない。これまで友人達の色んなデートの話を指をくわえて聞いてきたが、こんな失態は聞いたことがなかった。
「あの、アマンディーヌ様……。昨日は──」
翌朝、アマンディーヌと廊下で顔を合わせたジャネットはびくびくしながらその顔色を窺った。ファンデーションをしっかり塗っているせいで実際の顔色は全くわからないが。
「あら、ジャネット嬢。昨日はありがとう。楽しかったわ。色々と忘れられない夜だったし。じゃあまた後でね」
アマンディーヌはひらひらと片手を振って去ってゆく。ジャネットはその後ろ姿を呆然と見送った。
「わ、忘れられない夜!?」
ジャネットはうろたえた。今朝起きたとき、ジャネットは昨晩のドレスを着たままだった。だから、一線は越えていないと勝手に安心しきっていたけれど、実はそういうコトがあったのだろうか……
「アマンディーヌ様!」
ジャネットは思わずアマンディーヌを呼び止めた。アマンディーヌはくるりと振り返って首を傾げる。
「昨晩、いったい何が……?」
「昨晩? 聞きたい?」
「はい」
好きな人との初めての夜が記憶なしなどあり得ない。ゴクリと唾を飲んだジャネットを見下ろし、アマンディーヌは意味ありげに片眉をあげる。
「アホ面でぐーすか爆睡してたわ」
「うそ!」
「ほんと。おかげでこっちは結構な距離をアンタを抱えて運ぶ羽目になって、大変だったわ。流石にあんなことは初めてよ」
「やだぁ! ごめんなさい!!」
ジャネットは口を覆って青ざめた。確かに馬車の中で意識をなくしたのだから、部屋までは誰かが運んでくれたはずなのだ。アランがいくら現役近衛騎士だとはいえ、人一人を長距離運ぶのは相当重かったはずだ。
「あと、寝言も言っていたわ」
「……ち、ちなみになんて?」
「さあね? なかなか記憶に残る映像だったわ」
「えぇ!? いやぁああ!」
頭を抱えたジャネットの悲鳴が響き渡る。何を言ったのか覚えていないほど恐ろしいことはない。もしかしたら、ものすごい恥ずかしいことを口走った可能性だってある。
──なんてこと! 最初で最後かもしれないデートだったのに!
幻滅されてしまったかもしれない。なぜあそこで寝てしまったのか、自分が恨めしい。そして、とあることに気付いてしまった。
──もしかして、アラン様のお姫様抱っこ!
アマンディーヌは先ほど、『抱えて運ぶ羽目になった』と言っていた。
なんということだ。大失態を演じて迷惑をかけた上に、棚ぼたで実現したかもしれない乙女の夢の記憶がないなんて!
「……わたくし、しばらく立ち直れないわ」
ジャネットは一生の不覚として、がっくりと項垂れたのだった。




