ジャネット、デートに誘う
淹れたての熱い紅茶にポトンと角砂糖を落とすと、底に沈んだ砂糖の固まりは徐々に形を崩してゆく。ティースプーンでカランとかき混ぜると、渦と共に跡形もなく消え去った。
同じティーカップでも、砂糖の溶ける量は紅茶の温度が高いほど増えると先日、シルティ王女とご一緒した理数学の講義で習った。とても面白い。ジャネットはその溶けるさまを注意深く見守った。
「この間の晩、フランツ様と歌劇の鑑賞に行ったの」
「フランツ様と歌劇?」
ジャネットは、友人のマチルダに話しかけられてティーカップから顔を上げた。
先日、マチルダのお茶会に参加したことをジャネットから聞いたシルティ王女は、そのことをたいそう羨ましがった。そのため、ジャネットはマチルダをシルティ王女のお茶会に誘った。そこでマチルダは近衛騎士のフランツと知り合ったわけだ。
そして、いつのまにやらいい関係になっているようだ。まだ知り合って一ヶ月も経っていないはずなのに、本当にいつの間に!
「ええ。今、ロペラ座で一番人気の『百合姫とボワンヌ伯爵』よ」
「百合姫とボワンヌ伯爵……」
「わたくし、それ知っているわ! 開演初日に見に行ったわ」
横で聞いていたシルティ王女が得意げに声を上げた。
『百合姫とボワンヌ伯爵』とは、ルロワンヌ王国では有名な恋愛小説だ。原作はジャネットも読んだことがある。百合姫と呼ばれる美しき姫とボワンヌ伯爵の燃え上がる恋を描いたラブロマンスだ。それを昨年、国一番の歌劇団であるロペラ歌劇団が歌劇にアレンジして上演したところ、連日満員御礼の大盛況となっているという。
「歌劇もとっても素敵だったのだけど、そのあとフランツ様が香水店に連れていって下さったの。そこでね、香水を買ってくれて、渡し際に──」
マチルダはその日の夜のことを思い出したようで、頬を赤らめると「きゃあ!」っと小さく悲鳴を上げた。ジャネットはその様子を見て思った。
──う、羨ましいわ!
そんなところで話を切られると、いったい渡し際になんと言われたのか、気になるじゃないか。
『きみを僕の選んだ香りで包みたい』
『僕がいないときもこの香りで僕を思い出して』
ジャネットの乏しい想像力で思い付くのはこの辺りだろうか?
なんせ、ジャネットは元・婚約者のダグラスから徹底して放置されていた。デートしたことも一度もないし、香水を贈られたことももちろん一度もない。全て想像、いや、妄想の世界だ。
「なんて言われたんですの?」
え? それ、聞いちゃうの?
ジャネットの心の声など素知らぬ様子で、シルティ王女はぐいぐいとそこに食い込んでゆく。マチルダは恥ずかしそうに手で顔を隠した。
「きみのことは──」
「「きみのことは?」」
シルティ王女とジャネットはゴクリと唾を飲んだ。この後に、いったいどんな甘い台詞が!? いやがおうでも期待が高まる。
「きゃあ! やっぱり言えないわ!」
マチルダはそこで両手で顔を覆うと、嫌々と首を左右に振った。
え? ここまで勿体付けておいて、そこで言うのやめちゃうの!?
「いいなぁ」
ジャネットは思わず、そう漏らした。
アランにエスコートされて歌劇に行けたら、そして、香水をプレゼントなんかしてくれた暁には、どんなに嬉しいだろう。ありもしないことを夢想しながら、うっとりとしてしまう。
そんなジャネットの様子を見て、マチルダは眉をひそめた。
「ジャネット。アラン様とはその後、進展はなし?」
「ないわ!」
これだけははっきりと断言できる。一ミリどころか一ミクロンたりとも進展などない。進展ってなんですか? 多分、アラン=ヘーベルという男は地中深くの基盤面に強固な鉄杭で固定されているに違いない。どんな強風や大地震がきても動かない気がする。
「うーん、アラン様をお出かけに誘うことは出来るの? 何回かここのお茶会に誘って頂いたけど、アラン様っていつもいらっしゃらないでしょ?」
「え? ええ、まぁ。わたくしはたまに会うことはあるから、誘うことは出来るけど……」
誘うことは出来る。たまにどころか、ほぼ毎日顔を合わせている。オネエ姿の方には。
ただ、誘ったところでアランが来てくれるかどうかは別問題だ。
「じゃあ、歌劇にご一緒したいって誘ってみたら?」
「アランお兄様を歌劇に? まあ、それは素敵!」
シルティ王女まで名案だとばかりに目を輝かせる。
「うーん。来てくださるかしら?」
ジャネットとて乙女の端くれ。好きな人をお出かけデートに誘って断られたら、地味に傷つく。ましてや、それが人生初めてのデートのお誘いなのだ。乗り気でないジャネットを後押しするようにシルティ王女が身を乗り出した。
「ロペラ座だったら、王室のためにシートが確保されているはずよ。わたくし、エリックお兄様にチケットを用意できないかお願いしてみるわ。チケットが無駄になるからといえば、アランお兄様も頷くのではないかしら? 駄目だったら、わたくしが一緒に行ってあげる」
「でも、いいのですか?」
「もちろんよ! すぐにチケットを手配するわ」
シルティ王女は任せろとばかりに胸に手を当てる。
「よかったわねえ、ジャネット!」
マチルダも自分のことのように嬉しそうに笑う。
周りがここまでお膳立てしてくれているのに誘わないなんて選択肢はない。ここで怖じけづいたら一生片想いのまま終ってしまうかもしれない。
「わかったわ! わたくし、アラン様を誘います!」
ジャネットは声高々に宣言する。
「その調子よ、ジャネット!」
「素敵ですわ、ジャネット様!」
王宮の一角で、盛大な拍手が鳴り響いた。
***
「はい。じゃあ、今日のレッスンはおしまいよ。各自来週までに課題を済ませて置くようにね」
国ごとの美人の違いを踏まえたメイクレッスンの講義を終えたアマンディーヌは、広がっているメイク道具をいそいそと片付け始めた。ジャネットは話しかけるタイミングを探ろうと、じっとその様子を見守る。
「ジャネット嬢、質問かしら? なにかいいたげね」
「! えっと、あの……」
「さっきからじっとこっち見てるじゃない? どうかしたの?」
静かに待っているつもりが、誘うタイミングを探るばかりに凝視しすぎてしまったようだ。アマンディーヌに首を傾げられ、ジャネットはうろたえた。まだ心の準備が!
「あの、アマンディーヌ様」
「なに?」
「か、か、か」
「カカカ?」
アマンディーヌが訝しげに眉をひそめる。メイクパレットをとじるカチャンという音がやけに大きく聞こえた。
助けを求めようと視線をさ迷わせると、両手に拳を握り締めたシルティ王女と目があった。シルティ王女は真剣な顔でコクコクと頷く。ジャネットはぐっと手を握り、勇気を振り絞った。
「あの、かげ……」
「あの影? メイクの陰影のこと?」
メイクブラシをしまいながら、アマンディーヌが聞き返す。
ダメだ。緊張で心が潰れそうだ。
もうダメですとチラリとシルティ王女の方を見ると、ぶんぶんと左右に首をふり、なぜかファイティングポーズを取っている。このままいけと言うことらしい。ジャネットはぐっとお腹に力をいれた。
「あの! 歌劇に行きませんこと?」
ジャネットはなけなしの勇気を振り絞って叫んだ。
言った。言ってやった!
「歌劇?」
アマンディーヌが怪訝な表情で小さく呟く。
「あの、シルティ王女とご一緒しようと思ったのですが、シルティ様は一度ご覧になったことがあるそうでして。お時間を取らせるのもなんですから、よかったらアマンディーヌ様はいかがかと。『百合姫とボワンヌ伯爵』って演目ですわ。四日後なんですけど、チケットが余ってますの。わたくし一人で行くもの何でしょう? でもチケットが!」
さっきまでの緊張が嘘のように饒舌になる。
そうです、チケットが余ってるんです! チケットが! と、とにかく強調する。本当は貴方と行きたくて裏で手を回してチケットを入手しましたとはさすがに恥ずかし過ぎて言えない。
ジャネットの必死の様子を眺めていたアマンディーヌは少し首を傾げて考える仕草を見せると、ニコッと笑った。
「いいわよ。一緒に行きましょう」
「え? 本当に?」
てっきり『行くわけないだろ、課題やれ!』とデコピンを食らわされると思っていた。想定外の反応にジャネットは驚いて、アマンディーヌの顔を凝視した。
「どうしたの? だって、チケットが余っているのでしょう?」
「はい!」
「じゃあ、行きましょう」
「はい!!」
ジャネットはぱぁっと表情を明るくした。アランとの歌劇鑑賞デート!
こうしてジャネットの生まれて初めての、『好きな人をデートに誘おう』ミッションは成功したのだった。




