そうして始まる新たな180日間
あっという間の半年間だった。明日、ジャネットは王宮を後にする。
目の前の皿に盛られた可愛らしい色合いのマカロンの山を見つめながら、ジャネットは初めてここに来た日のことを思い返していた。
突然、シルティ王女からのお茶会のお誘いが自宅に届き、飛び上がるほど驚いた。王宮に着いたら着いたで、規格外のオネエに強引に行儀見習いにさせられた。そして毎日口うるさく言われ、最悪だと思った。全身が筋肉痛になるし、嫌いなダンスを無理やりさせられるし。
けれど、そんなことも今ではいい思い出だ。
シルティ王女ときついレッスンを乗り越えて笑い合ったことも、お忍びで町へ出たことも、お茶会で楽しくお喋りしたことも、全てが楽しい記憶へと塗り替わっていた。
「ジャネット様、本当に帰ってしまうのですか?」
正面に座るシルティ王女が寂しそうに呟き、目を伏せた。ジャネットはその様子を見つめ、困ったように眉尻を下げた。
「はい。当初の期間も終わりましたし、いつまでもお世話になっているわけにはいきませんから」
「気にしなくていいのに。わたくし、ジャネット様がいらして、本当のお姉様が出来たみたいでとても楽しかったの。アマンディーヌは……ほら、お姉様とは少し違うでしょう?」
シルティ王女が紅茶のカップを手に、小さく呟く。それを聞き、ジャネットも目を伏せた。
ひとりっ子のジャネットにとっても、この半年間はとても楽しかった。恐れ多くも王女殿下であるシルティ王女を、妹のように可愛らしいと思っていた。
「そう言えば、ダグラス様の件はもう大丈夫なのですか?」
「ええ、父がきっぱりとウェスタン子爵に伝えましたから。それに、国王陛下からの婚約解消の承認書類もありますから、大丈夫ですわ」
シルティ王女に心配そうに聞かれ、ジャネットは心配をかけないように笑って答えた。
あれほどジャネットをないがしろにして、婚約は不本意だったとあらゆる場で豪語していたダグラスは、いざ婚約解消となったら今度は納得できないとごね始めた。
てっきり大喜びすると思っていたジャネットは、ダグラスのこの反応に驚いた。
しかし、父やアランは最初からこうなることを予想していたようだった。
ジャネットは侯爵家の一人娘であり、結婚すればもれなく高位の爵位が付いてくる。今のところバツもなければ体も健康、男と浮名を流したこともなく、貞淑である。元々の見た目も美女とは言えなくとも決して悪くはないし、実家に借金があるわけでもない。
普通に考えたらまたとない好条件なのだ。
そこで父であるピカデリー侯爵は最終手段として、今まで密かに集めてきたダグラスの不貞の証拠を家にダグラスと共に押しかけてきたウェスタン子爵の前に並べ立てた。ジャネットは、父が密かにこんなものを集めていたとは全く知らなかった。
こちらが慰謝料を請求して婚約破棄できるほどの証拠の数々に、流石のウェスタン子爵やダグラスも青ざめた。あれだけ派手に遊び回っていたので証拠の数も膨大だ。
そんなこんなで、紆余曲折を経てジャネットとダグラスの婚約は全面的にダグラス側に非があるとして解消された。せっかく双方合意の円満婚約解消にしようとしたのに、そのチャンスをダグラス自らがつぶしたのだ。
このことは狭い貴族の世界に格好の話のネタとしてスキャンダラスに流れたので、ダグラスはもちろん、お相手のご令嬢達も今後良縁に恵まれることは難しいだろう。誰も有力侯爵家から睨まれたくはないのだ。
「アンタ、次は変な男に引っ掛かるんじゃないわよ」
諭すような声に顔を上げると、アマンディーヌが憐れむような目をしてジャネットを見つめていた。
「……気を付けますわ」
ジャネットは少しだけ笑ってみせる。
ジャネットが好きな人は、目の前にいる。
とっても強引で、容赦なく厳しくて、近衛騎士なのに女装しているへんてこで……──誰よりも優しくジャネットを見守ってくれていた、素敵な人だ。
──けれど、この気持ちには蓋をしてここを去ろう。
ジャネットはそう思っていた。アマンディーヌ、もとい、アランはジャネットのことを嫌ってはいないだろうが、恋愛感情を持って好きではないはずだ。婚約解消して一週間も経っていないのにまた振られたらさすがに立ち上がれない。
元気のないジャネットの様子を見つめていたアマンディーヌは、ぐっと眉を寄せた。
「ねえ、やっぱりもう少しここにいたら? わたし、気付いたの。ジャネット嬢はわたしにとって、かけがえのない人なのよ」
ジャネットはその言葉を聞き、目を見開いた。
「アマンディーヌ様、それって……」
ジャネットは信じられない思いで、アマンディーヌを見つめた。いつの間にか芽生えたこの想いは秘めたまま、ここを去るつもりだった。けれど、もしかして、彼も自分と同じ感情を抱いてくれていたのだろうか。そんな淡い期待が脳裏をよぎった。
「アマンディーヌ様……」
ジャネットの瞳にじんわりと涙が浮かぶ。ぽろりとこぼれ落ちそうになったところで、アマンディーヌはジャネットの手を握りしめた。
「わかっているわ。ジャネット嬢も同じ気持ちだってこと」
アマンディーヌはジャネットを見つめ、しっかりと頷いた。ジャネットとアマンディーヌは手を握り合い、お互いを見つめ合った。
「大丈夫。わたしとジャネット嬢のコンビなら、社交界一の花も夢じゃないわ!」
「……は?」
「だから、これまでの倍の厳しい訓練を受ければ、ジャネット嬢は社交界一の花になれるわ! わたしとやりましょう? 世の人々を虜にするのよ!」
興奮したように捲し立てたと思ったら、今度は歯を見せて爽やかに笑うアマンディーヌを見上げ、ジャネットは顔から表情を消した。
「……。──これまでの倍の厳しい訓練?」
「そうよ。ジャネット嬢は打てば響くから、あと半年あればできるわ!」
ジャネットはふるふると握った手を震わせた。
もちろん、怒りで。
これまでの特訓もかなり厳しかった。その倍厳しい訓練をあと半年?
はっきり言おう。死んでしまう。
「誰がやるかぁぁー!」
「ええ! そんな殺生なっ」
それを聞いたアマンディーヌは酷くショックを受けたように、悲劇のヒロイン風に床に倒れた。両手を床につけ、チラリとジャネットを見上げてオヨオヨと泣き真似をしている。
「そんな演技したって──」
──ダメなんだから!
と、そこまで言いかけて、ジャネットは気付いてしまった。
もしかして、これは絶好のチャンスなのではなかろうか?
このチャンスを逃したら、もう次はないかもしれない。
コホンと咳払いして、ジャネットは少し屈むとアマンディーヌに向き直った。
「アマンディーヌ様? 先ほど、世の人々を虜にすると仰いましたわね?」
断られてしゅんとしていたアマンディーヌは、ジャネットが興味を示したことに目を輝かせ、勢いよく頷いた。
「ええ、言ったわ!」
「男性も?」
「もちろん」
「それは、(しょっちゅう女装しているオネエが入った、相当な変わり者も含めた)どんな男性も?」
「ええ、そうよ」
「本当に? 半年で?」
「わたしに任せなさい! 事前に言ってくれれば、どんなタイプの男にも対応して虜にできるレディに仕上げてみせるわ。わたしが保証する!」
アマンディーヌは胸に片手を当てて断言した。ジャネットはそれを聞き、満足げに頷いた。
「わたくし、やりますわ。ちょうど、気になる方がいるのです。相手は全く気付いていませんけれど」
「え!? そうなの? ちっとも知らなかったわ……」
アマンディーヌは目を見開き、呆然とした様子でジャネットを見つめ返す。しかし、口元に手を当てて少し考えるような仕草をするとにこりと微笑んだ。
「──確かに、失恋の痛みを忘れるには新しい恋が一番よね。うん、そうよ。ジャネット嬢のためにもなるわ。協力するわよ。どんな人なの?」
「わたくしの周りの貴族令嬢にキャーキャー言われている、名門貴族出身の近衛騎士様です。でも、浮いた話がなにもなくて、色恋沙汰に鈍感で、とにかく手強いですわ」
「……そんな人いたかしら?」
アマンディーヌは思い当たる人物がいないようで、宙を見つめたまま考え込む。
「いますわよ。とっても変わり者で普段は意地悪ですけれど、本当は優しくて素敵な人です」
それを聞いたシルティ王女はなにかにピンときたようで、二人の顔を見比べながらニヤーっと笑った。
「ふーん。でも、それは落としがいがあるわね。頑張りましょう、ジャネット嬢! アマンディーヌの名に懸けて、全力でサポートするわ」
「約束ですわよ?」
「もちろんよ。半年後にはその男はジャネット嬢に愛を請うこと間違いないわ」
「では、交渉成立ですわね」
二人は固い握手を交わす。
「で、誰なの? その男は?」
アマンディーヌは相手が誰なのかが気になって仕方がないようだ。普段はエスパーみたいにジャネットの考えることを読んでくるくせに、こういうことには鈍い。
ジャネットは何度も繰り返し練習した自分が一番美しく見える妖艶な微笑みを浮かべ、アマンディーヌを見上げた。
「必ず虜にして見せますわ、アラン様。覚悟してくださいませ」
アマンディーヌの目が驚きで大きく見開かれる。
ジャネットのオネエを落とすための新たな180日間が、今ここに開幕した。




