いざ決戦
ジャネットがヘーベル公爵家を訪れるのはこれが初めてだ。舞踏会の招待状を受け取ったことはあるけれど、なにかと都合が悪くこれまで訪れる機会がなかったのだ。
王宮の近くの一等地に広大な敷地を誇る屋敷は、大きな三階建てだった。ジャネットの実家であるピカデリー侯爵家も有力貴族なだけあってとても大きな屋敷だが、ヘーベル公爵家はその規模を遥かに超えている。
白い煉瓦の外観は、まるで昔絵本で見たメルヘンな世界のお城のようだ。敷地内に入ったらすぐにある庭園も、これだけの広さがありながら細部までしっかりと手入れが行き届いている。
──さすがは王家と縁続きね。凄いわ……。
ジャネットはその屋敷を眺めながら、へーベル公爵家の力の強さを感じた。
そして、今日の舞台となるダンスホールはその屋敷の一階の中央部にあるようだ。
アランはさすがに実家だけあり、勝手知ったる様子で裏口へ馬車を乗り付けた。馬車が停まると御者が扉を開けるのを待つことなく先に降り、中に残るジャネットに片手を差し出した。ジャネットはその手に自分の手を重ね、馬車を降りる。
靴底が石畳の地面にあたり、カツンと軽快な音をならした。顔をあげると目の前には水色に塗られた、とても裏口とは思えないほど立派なドアがある。
「俺はホスト側に当たるから、裏口から入らないとなんだ。正面からエスコートできなくて悪い」
「ええ、わかっていますわ」
ジャネットはせっかくの豪華な濃紺のドレスが汚れないように裾を持ち上げた。ダンスホールの入口は二つ。ひとつは正面玄関の方面の廊下と繋がり、ゲスト達が入場する来賓用の入口。もうひとつはこの屋敷の居住スペース側と繋がる、ホスト側入口だ。
ダンスホールのドアの前に立ったとき、ジャネットは心臓が飛び上がりそうなほど緊張していた。豪華な彫刻の施されたドアの向こうから人々の話し声や足音、ゲストの歓迎のためのゆっくりとした音楽が演奏されているのが聞こえる。
もうかなり人が集まり始めているのだろう。
「ジャネット嬢」
久しぶりの招待客としての舞踏会参加に緊張から表情を強張らせているジャネットに、アランが声をかけた。ジャネットは無言でアランを見上げる。
「もう行くわよ? ボケっとしないで」
聞き慣れた裏声がして、アランが意地悪く片眉をあげる。
「なっ! ボケっとなどしておりません!」
咄嗟にジャネットが頬を膨らませて言い返すと、アランはくくっと笑った。そして、新緑の双眸を柔らかく細める。
「大丈夫、きみはとても綺麗だ。ほら、前を向いて。笑って。いくよ」
強く腰を抱き寄せられ、ドアが開かれたとき、ジャネットは咄嗟の条件反射でいつものように背筋を伸ばした。
布袋を落とさないように、糸で頭を吊られたように、この半年間、常に意識し続けた姿勢。顔には毎日のように鏡の前で練習した穏やかな微笑みを浮かべて。
ホールで歓談していた人々が一斉にこちらを向く。ジャネットはスカートの端をつまみ上げお辞儀をし、ゆっくりと顔をあげた。口角をしっかりと上げて、魅力的に見えるように微笑んで。
「あれ、アラン様じゃない?」
「本当だわ。女性をエスコートしているわ」
いつもシルティ王女しかエスコートしないヘーベル公爵家の次男、アラン=ヘーベルが別の女性をエスコートしていたことに、会場ではどよめきが起きた。好奇の視線が一斉にジャネットに降り注ぐ。ジャネットはそれを笑顔のままかわした。
舞踏会が始まると最初にホストであるヘーベル公爵夫妻と主賓のエリック王子とシルティ王女のペアがダンスを披露する。ジャネットはその様子を緊張の面持ちで見守った。隣に立つアランがジャネットの耳元に口を寄せる。
「次は一番簡単なワルツを演奏するように頼んだから、いこう」
「大丈夫かしら?」
ジャネットは相変わらずダンスが下手だった。これはもう、先天的な向き不向きによるものではないかとジャネットは思った。おかしなダンスを披露してはパートナーまで恥をかく。
「アマンディーヌが教えたんだ。大丈夫に決まっているだろう? 間違いない」
不安げに見上げたジャネットをアランは微笑んで勇気づけた。
広い会場の中央にアランと向き合って立つと、多くのご令嬢が注目するのがわかった。そのせいで、ただでさえ緊張しているのに、ますます緊張して足が震える。
ダンスはやっぱり苦手だ。不格好だとまわりの人に笑われないかと、そのせいでペアを組んでくれた人に迷惑をかけるのではないかと、不安でたまらなくなる。
「あっ」
──しまった!
そう思ったときには、体がよろけかけていた。けれど、倒れることはない。
足が縺れそうになったところで、アランがふわっとジャネットを持ち上げる。ジャネットの気持ちを察したように、ダンスホールの中央に立ったアランはジャネットを見下ろしてニヤリと笑う。
「ほら。ワン、ツー、スリー、ここでターン」
裏声で小さく囁かれ、ジャネットは目をぱちくりとした。目の前のアランの見た目とアマンディーヌの声のちぐはぐさに、思わず吹き出した。
「そう、笑って。俺だけを見ていて。絶対に転ばせたりしないから。大丈夫。きみは上手に踊れている」
新緑の双眸が優しくこちらを見つめている。
アランにそう言われると、なんだか本当に大丈夫な気がした。
重かった足元が軽くなり、自然に笑みがこぼれる。
背中に羽が生えたように、軽やかに体が動いた。
──楽しいわ。
見上げたアランの顔の後ろに見える天井から吊り下げられたシャンデリアが煌めいてまるで星のように見えた。ふわりふわりと舞うような、不思議な感覚。
舞踏会のダンスホール中央で踊るダンスが楽しいと思ったのは、生まれて初めてだ。今までは、壁の花がジャネットの役目だったのだから。
オーケストラの演奏が終わり、ダンスが終わったとき、ジャネットは一抹の寂しさを感じた。ダンスを終えてダンスホールの端に寄ると、アランはジャネットを見下ろして微笑んだ。
「とても上手だったよ」
「転びかけてアラン様に助けていただきましたわ」
「そう? 気が付かなかったけど?」
絶対に気づいていたはずなのに、とぼけた態度をとる優しさが心にしみる。アラン=ヘーベルという人は、ときに厳しく、ときに意地悪で、そして──誰よりも優しくジャネットを支えてくれる。
ジャネットはアランを見上げた。
「わたくし、ダグラス様を探してきますわ」
今日の舞踏会にダグラスが来ていることは、アランが招待客リストを事前に確認してくれたのでわかっている。ジャネットがざっとあたりを見渡した限りでは見かけなかったが、どこかにはいるはずだ。
「わかった。納得いくように話し合ってくるといい」
「はい。ありがとうございます」
ジャネットは笑顔で頷くと、会場の人の波に身を投じた。




