ことの起こり②
「えー、そうかなぁ」
ジャネットはへらリと笑ってやり過ごす。内心では泣きそうだった。せっかく侍女が時間をかけて結ってくれたのに、台なしだ。お気に入りのお花の髪飾りも取れてしまった。
「ねえ、さっきの続きをしようよ」
「そうだね。あ、ジャネットはもう捕まったから次からね」
「え?……う、うん」
子どもたちは切り替えが早く、ばらばらに散りだした。ジャネットはその様子を呆然と見送る。手にはお気に入りの花の髪飾りを握ったままだ。
──どうしよう。自分じゃ直せないわ……
髪飾りを持っていない方の手でそっと髪に触れた。モフモフの手触りがして、ぐちゃぐちゃになっていることは間違いないようだ。
ジャネットは誰か侍女に助けを求めようと、辺りを見渡した。その時、すぐ近くに立つ男の子と目が合った。黒い髪に緑色の瞳の綺麗な男の子だ。ジャネットより、少しだけ背が高い。もう子どもは全員遊びに行ってしまったと思ったジャネットは、その男の子がまだいたことに驚いた。
「……何をしているの?」
男の子は無言で首を傾げてから、こう言った。
「なんとなく。髪、直してあげようか?」
髪の毛を触られるのはなんともむず痒い。
男の子は宣言通り、ジャネットの髪を直し始めた。最初のように複雑な結い上げは流石に無理だというが、三つ編みにして纏めるぐらいならできるという。後ろで髪をいじる気配を感じながら、ジャネットは男の子に声を掛けた。
「あなたは、なんで人の髪の毛を結えるの?」
「母上のやるのをよく見てるから。好きなんだ」
「好き?」
ジャネットは目をパチクリとさせた。
髪を結う男の子は、格好から判断するに恐らく貴族のご子息だ。そのご子息が髪を結うのが好き? 普通に考えたら、女々しいと笑われてしまうだろう。けれど、この子は自分を『ライオン』と笑わずに助けてくれた。ここで笑うことが失礼なことぐらい、子どものジャネットにも分かった。
「できたよ。こっち向いて」
男の子に促されて、ジャネットは後ろを振り向いた。
深い緑色の瞳が真剣にジャネットの顔を見つめている。手が伸びて右の頭頂部を撫でつけられた。きっと、自分の結った髪がおかしくないかをチェックしているのだろう。
「素敵な趣味ね」
「え?」
「こういうの。悪くないと思うわ」
「うん。ありがと」
ジャネットの言葉を聞いた男の子が嬉しそうにはにかんだ。
男の子は最後にジャネットの髪に髪飾りを飾ってくれ、「ほら、可愛くなったよ」と微笑んだ。
とても綺麗で、優しい笑顔だった。
家に帰ってから名前を聞き忘れていた事に気付いたジャネットは、父親にその男の子の事を尋ねた。黒い髪に緑色の瞳でジャネットより少し年上。
「今日はたくさん招待客が来ていたからなぁ。ウェスタン子爵家のご子息がそんな特徴だった気がする。確か名前は……ダグラスだ」
「ダグラスさま……」
ジャネットはその時から、ずっとダグラスを想っていた。優しく髪に触れて結い上げてくれた小さな手。真剣に見つめる深い瞳。
年頃になったのでそろそろ婚約者を、と言う話が出たとき、ジャネットは迷わずダグラスの名前を挙げた。駄目で元々、もう一度あの男の子に会いたかったのだ。
後日、ウェスタン子爵に付き添われてジャネットの実家であるピカデリー侯爵家を訪ねてきたダグラスは、美男子と言う言葉がぴったりの若者だった。
遠い記憶と同じ黒い髪に緑の瞳。そして薄い唇、すっきりと通った鼻筋、少し釣った目元はやや冷たい印象を受けたが、とてもハンサムだ。
この九年で随分と立派に育って、印象も変わったものだとジャネットは大層感激した。
「こんにちは。ジャネット嬢。以後よろしく」
慣れた様子でジャネットの手を取り、甲にキスをしたダクラスの所作にジャネットは惚れ惚れした。
「ダグラス様は九年前にルイーザ侯爵邸で開催されたガーデンパーティーには来てらした?」
「さあ? そんな昔のこと、覚えてませんね」
「そう……」
「それより、二人で散歩にでも行きましょうか。お花が綺麗ですよ」
ダグラスは初めて婚約者として引き合わされた時、二人で庭を散歩していたジャネットに咲いていた花をプレゼントした。こんなことは初めてだったジャネットは、とても感激してすっかりと舞い上がった。この女性の扱いに手馴れた様子に、もっと疑問を持つべきだったのだ。
二人の大事な出会いの記憶を忘れていても、この人となら幸せな未来が築ける。ジャネットはそう信じて疑っていなかった。
***
こぼれ落ちる涙を必死に拭っていると、カツカツと足音が聞こえてきてジャネットはハッとした。誰かが来たのだ。慌てて隠れようとしたところで、足元の大理石の床に黒い影が重なった。
「ちょっとあなた。大丈夫?」
ジャネットは慌てて顔を上げた。目の前にいたのは大柄の男、いや、女だ。隙のない化粧を施した顔は文句なしに美しく、彼女の大きな身体に合わせて作られた特注仕様のドレスは豪華絢爛。ただ、どう見ても男の身体なのがいただけない。
たまたま通りかかったであろうその目の前の女──アマンディーヌはジャネットの顔を見るなりジロジロと全身を舐めるように観察し、眉間に皺を寄せた。
「……これは酷いわね」
ジャネットは羞恥でカッと身体が熱くなるのを感じた。自分がたいして美人でないことも、貧相な体つきなことも知っている。
相手は王室お抱えの当代随一の美容アドバイザーだ。さぞかし自分のことなど酷い醜女に見える事だろう。
羞恥からその場から身を翻して逃げ出そうとしたジャネットは上腕をガシッと掴まれた。男のように力強く──いや、事実、彼女の性別は生物学的には男なのだが──全く逃れることが出来ない。
「待ちなさい。あなたその格好でどこに行くの? 人に見せられたもんじゃないわ」
「離してください! どうせわたくしは何をやってもブスで貧相でどうしようもないんです! 婚約者にも相手にされないような女なのよ!」
ジャネットを見下ろすアマンディーヌの眉間に深い皺が寄る。
「何ですって??」
「ひっ!」
猛獣のように低い唸り声がした。ジャネットは自分があまりにも酷いのでアマンディーヌの気を害したのだと思い、震え上がった。
「ごめんなさいっ! すぐに立ち去りますので……」
「駄目よ! 聞き捨てならないわ。私の中に『何をやってもブス』なんて女は存在しないのよ。撤回してちょうだい」
「は……?」
アマンディーヌは野太い声で、もう一度吼えた。
「何をやってもブスで貧相でどうしようもない女なんて、この世に存在しないのよ。撤回して! 女の子は誰だって可愛くなるのよ! 一体どういうことなのか、説明しなさい!」
ジャネットはポカンと口を開けたまま、大真面目な顔で叫ぶ迫力満点の美女(サイズ規格外)を見上げたのだった。