レッスン14 公共の場で取り乱さない
ジャネットは広い舞踏会会場の端で、壁の花となっていた。
今日はフェラール侯爵家主催の舞踏会が開かれており、ジャネットはシルティ王女のお付きの者としてその場に参加していた。アマンディーヌがジャネットの隣に立ち、今日もレッスンをする。
「あそこにいるノーラ夫人を見て。もう六十歳近いはずだけど、相変わらず洗練されているわ」
ジャネットはアマンディーヌが視線で指す方向に目を向ける。
件のノーラ夫人はダンスホールの奥で夫である子爵にエスコートされて佇んでいた。落ち着いた山葵色のドレスは舞踏会には地味な色合いだが、年を重ねて落ち着いた印象のノーラ夫人にはよく似合っていた。形もスカートの膨らみが少なく、ノーラ夫人は見事に着こなしていた。
「素敵ですわね。よく似合っています。裾のスカラップ模様は最近の流行りですわね」
「そうよ。よく知っているじゃない?」
「シルティ王女の衣装係の方に教えてもらいました」
ジャネットは少し得意気にフフっと笑う。
ノーラ夫人のスカートの裾にはホタテの貝殻を並べたようなスカラップ模様と呼ばれる裾飾りが施されていた。このスカラップ模様をドレスに取り入れるのは最近の流行りだと、ジャネットは衣装係の手伝いをしている時に教えてもらったのだ。
若い人だと袖などの視界に入りやすい高い位置に取り入れることも多いが、ノーラ夫人は足元の裾部分にのみ取り入れている。その縫い糸の色もドレスよりほんの少し濃いだけなのでフェミニンになり過ぎず、年を重ねたノーラ夫人にとてもよく似合っていた。
「彼女は『自身に似合うものを良く知る』ということのお手本ですわね? そして、さりげなく流行を取り入れてお洒落に手抜きをしていない」
「そのとおりよ」
隣を見上げると、アマンディーヌは満足げに微笑んだ。
「あそこにいるのはマリエンヌ嬢だったかしら? あの子もとてもよく似合っているわ」
次にアマンディーヌが視線で指差したのはまだ若い少女だった。ジャネットもその姿に見覚えがある。たしか、トーラス伯爵令嬢で、歳はジャネットの一つ下の十七歳だったはず。
「そうですか?」
「そうよ。あの大きなリボンを飾ったドレスは彼女の可愛らしい雰囲気と若さあってこそよ? 上手く着こなしているわ」
ジャネットは、アマンディーヌが彼女を誉めたことがなんとなく面白くなく感じた。このモヤモヤは何なのだろう? 本当はその理由に気付き始めているけれど、すぐに気付かない振りをして気持ちに蓋をした。ジャネットはダグラスと婚約しており、あと半年もすれば彼と結婚するのだ。そのために今まで頑張ってきた。
行き交う人々をぼんやりとながめていたジャネットはその時、会場の端に見覚えのある人を見つけ、目を凝らした。自身の黒髪によく似合う黒いジャケットを、ピシッと着こなしている。ジャネットの場所から少しだけ見える、甘いマスク。その人影がテラスの方へ移動してゆく。
「アマンディーヌ様。わたくし、少しだけ外します」
「何? トイレ?」
「レディに変なこと聞かないで下さいませ!」
ジャネットはアマンディーヌをキッと睨むと、アマンディーヌは両手を上に向けて肩を竦めて見せた。
ジャネットはその人影を追ってテラスへと向かった。そっと外に出ると、ベンチに先ほどの二人が座って寄り添っていたので、息を殺して近づいた。そこでは若い男女が愛を囁きあっていた。男は女の腰に手を回し、少女も男の背中に手を回している。
「──本当に戻ってくるんですの? いつ??」
「手紙では、来月と」
「では、来月の公爵様主催の舞踏会のエスコートは……」
そこまで言うと、少女はすすり泣くような嗚咽を漏らす。
ジャネットはその光景を見ながら、なんとまあ白々しいのかと、気持ちが急激に冷え込んでいくのを感じた。さすがのこの男──ダグラスも、まさかこの大根役者並みの泣き落としには応じないだろう。そう思っていたのに、ダグラスの口から出てきたのは信じがたい台詞だった。
「泣かないでおくれ、僕の天使。ジャネット嬢には都合がつかないと返事しておくから」
「でも……」
「大丈夫さ。彼女は僕に惚れこんでいるからなんとでもなる。それに、僕はこの婚約は乗り気じゃないんだ。君も見たことがあるだろう? あの陰気な女を。君とは大違いだ。僕の心は君のものだよ」
わが耳を疑った。
どの口が言うのかと、思わず手持ちの扇で頭を叩きたい衝動に駆られる。恋人が四人も居ながら──まあ、この話を聞いたのは五ヶ月も前のことだから、今も四人かどうかは知らないが。もしかするとジャネットが行儀見習いに出て羽が生え、六人ぐらいに増えている可能性は否定できない──こんな台詞を吐くなんて、タラシもいいところだ。
それに、乗り気じゃないなら父であるピカデリー侯爵に一言『婚約解消したい』と言えばいいだけだ。父はなんの異議も申し立てずに納得するだろう。むしろ、これ幸いと喜ぶはずだ。
ジャネットは深呼吸して飛び出したい衝動に堪えた。淑女たるもの、公共の場では決して取り乱してはならない。アマンディーヌはいつもジャネットにそう言って、すぐに人前で悲鳴を上げたり声を荒げるジャネットを注意してきた。耐えろ、耐えるのよ。ジャネットは何回も自分にそう言い聞かせる。
植栽の繁みの合間から見える二人の陰が重なるのを、まるで歌劇のワンシーンを眺めるようにぼんやりと見つめた。婚約者のラブシーンを見るのはもう何回目だろう。もはや、一滴の涙すら出てこなかった。
「ちょっと、トイレにしては長すぎよっ!」
舞踏会会場に戻るとアマンディーヌがおかんむりだった。いつまでも戻ってこないので心配して探し回っていたようだ。ジャネットはアマンディーヌを見つめ、「ごめんなさい」と小さく謝罪する。その様子を見つめていたアマンディーヌの眉が訝しげにひそめられた。
「ねぇ。アンタ、体調悪いんじゃない?」
「いえ。そんなことはございません」
ジャネットは小さく笑って否定する。そのままおずおずと先ほどのようにアマンディーヌの横に立った。少しの沈黙の後、ジャネットは隣に立つアマンディーヌを見上げた。
「アマンディーヌ様。来月のヘーベル公爵家の舞踏会、もしもわたくしにエスコート役がいなかったら、相手を引き受けて下さいませんか?」
アマンディーヌの眉間に訝し気に皺が寄る。
「え? だって、アンタ、ダグラス殿に手紙を出したって──」
そこまで言いかけて、アマンディーヌは何かに気付いたようでハッとした。
「ああ、もう!」
アマンディーヌが苛立った様子でジャネットの腕をぐいっと掴むと舞踏会会場の物陰に連れ込む。ジャネットは壁際の柱の角に立たされ、目の前にアマンディーヌが立ち塞がった。広い背中が視界を覆う。
「泣いても平気よ。お化粧なら直してあげるし」
「淑女は公共の場で取り乱したり、泣いてはならないのでは?」
「わたしが壁になってるからほぼ密室だわ。体のでかさは折り紙つきよ。それに、わたしが目立つから、後ろの人まで誰も見ないわ」
「まぁ──」
いくらアマンディーヌの体が大きいとは言え、密室とは言い過ぎだ。けれど、華やかな舞踏会会場では確かに誰もただの付添人のジャネットの事など気にもかけないだろう。その優しさに触れたとき、ジャネットの瞳から初めて涙が零れ落ちた。
この零れ落ちる涙はなんなのだろうと、ジャネットは思った。
──相変わらずの婚約者の不貞を見たから?
──それとも……
目の前を塞ぐ広い背中にコツンとおでこを付けると、アマンディーヌが気遣うように片手を後ろに回したのが目に入った。アマンディーヌの腰の後ろ辺りにあるその手を握ると、励ますように少しだけ握り返される。その温もりが今は有り難くて、ジャネットの目からはまた涙が零れ落ちた。
数日後、ジャネットの元にダグラスから届いた手紙には『ずいぶん前からの先約があり、申し訳ないがエスコートは出来ない』と書かれていた。