レッスン13 成功体験で自信をつける①
王宮に設えられた簡素ながら清潔感のある部屋の一室。窓際の椅子に腰掛けていたジャネットは、手元の手紙を見つめていた。意を決して白い上質紙の封筒に蜜蝋を垂らしてドンッと手持ちの印を押すと、そこにはジャネットの実家であるあるピカデリー侯爵家の家紋が刻印された。赤い蝋に浮かんだ凹凸の窪みに僅かな陰が落ちる。
そろそろジャネットが行儀見習いになってから五ヶ月が経つ。つまり、当初アマンディーヌと約束した行儀見習い期間がもうすぐ終わりを迎えるのだ。そこで、ジャネットは婚約者ダグラスに手紙をしたためた。そこには、そろそろ行儀見習いを終えること、行儀見習いが終われば実家に戻ること、そして、来月開催される予定のヘーベル公爵家主催の舞踏会には一緒に参加したいということを書いた。
ジャネットはしばらくその手紙を無言で見つめた。
婚約者であるダグラスとは、約五ヶ月前に不貞の現場を見せつけられた舞踏会以来一度も会っていない。彼はこの手紙を受け取ったらどう思うだろうか。そして、一ヶ月後に再会したら、どんな反応を示すだろうか。
いつものようにこちらをほとんど見もせずに表情一つ変えない? それとも、再会を少しは喜んでくれる? もしかしたら、自分にも熱っぽい視線を向けてくれる?
この五ヶ月間、ジャネットは自分なりに頑張ってきたつもりだ。最初は嫌々で、口煩くて強引なオネエに付きまとわれて最悪だとすら思っていた。けれど最近はシルティ王女と切磋琢磨するのは楽しいし、完璧にできたときなどにアマンディーヌが『よくできています。美しいわね』と褒めてくれるのがとても嬉しい。
「大丈夫。きっとダグラス様はわたくしを見て下さる」
ジャネットは手紙を見つめ、自分を勇気づけるように小さく呟く。
──けれど、もしこれだけ頑張っても彼が振り向いてくれなかったら?
その時は、こんな意に沿わない婚約などもう解消して、彼を解放してあげよう。元々、この婚約は初恋の彼に憧れたジャネットが父親に言って実現させたものだ。時が流れ、初恋の彼と今の彼は別人のようになっていたという、それだけのこと。それで、どこぞの未亡人のところに行くなり、美少女と名高いご令嬢のところに行くなり、ダグラスの好きにすればいい。ジャネットはそう決めていた。
それに最近、自分が分からないのだ。
ダグラスと会わなくなりもうすぐ五ヶ月が経とうとするのに、ちっとも寂しくない自分に戸惑いを覚えずにはいられない。むしろ、ジャネットはこの行儀見習い期間が楽しくてたまらない。
自分は『初恋の彼』と結婚する物語のヒロインになりたかっただけなのでは? 最近は、そんな風にすら思えてきた。
もしそうだとすれば、ダグラスからすれば迷惑な話だろう。なぜなら、ダグラスにとって、ジャネットは初恋の相手でも何でもないのだから。偶然子供時代に一度だけ出会った記憶にもない少女。勝手に想いを寄せてきて、婚約を打診してきた高爵位持ちの地味な女。それがダグラスにとってのジャネットなのだ。
この先、自分はどんな結婚生活を送るのだろう? と、ジャネットはふと考えた。やっぱり両親のように、仲睦まじい夫婦になりたいと思った。縁あって共に歩むことを決めた二人なのだから、上手くやっていきたい。始まりがどうであれ、その努力をしたい。
ジャネットはもう一度封筒を見つめると、目を瞑り深呼吸をする。ぱちんと両手で頬を叩き気合いを入れ、それを配達係のところに出しに行った。
***
その日はアマンディーヌが来ない日だった。
ライラック男爵による『諸外国との輸出入品目の推移と政権の関係』について講義を受けたシルティ王女は、ライラック男爵がお辞儀をして部屋を退出するや否やいつものようにテーブルに突っ伏した。
「いつも難しいけど、今日のは特に酷かったわ。何を言っているのかさっぱりよ。私、居眠りしなかっただけ上出来だと思うわ」
頭から転がり落ちた布袋を弄びながら、シルティ王女がぷうっと頬を膨らませる。ジャネットはその様子を見ながらクスクスと笑った。
「確かに今日の授業は難しかったですわね」
「難しいどころか、意味不明よ!」
シルティ王女が悲鳴に近い声を上げる。
「だって、年代ごとに主要品目と数量、総額を覚えろって言ってたわよ? 無理よ。無理だわ!」
頭をがしがしとかきむしるせいで、シルティ王女の美しい金色の髪の毛はぐちゃぐちゃになってしまっていた。確かに今日の授業では、ライラック男爵が暗記しろと言った部分がいつもより多かった。シルティ王女の気持ちも分からなくもない。そのまましばらく死んだようにピタリとも動かなかったシルティ王女は、突如ガバリと起き上がった。突っ伏していたせいでおでこが少しピンク色になっている。
「いいこと思い付いたわ!」
「あっ、騎士団の訓練場に行かれるのですね?」
「そ、そうよ」
言おうと思っていたことを先にジャネットに当てられ、シルティ王女はちょっとばつが悪そうに頬を赤らめる。
「ジャネット様も行きましょうよ」
「はい。ご一緒させて頂きますわ」
シルティ王女はいつもより少しだけぶっきらぼうに言う。その様子がなんとも可愛らしくて、ジャネットは一人頬を緩めた。
訓練場に行くと、今日もシルティ王女の来訪に最初に気付いたアランが近寄ってきた。そして、ぐちゃぐちゃになったシルティ王女の髪を見て、僅かに眉をひそめた。
「シルティ王女殿下。今日も護身術レッスンでよろしいですか?」
「ええ、そうよ」
「承知致しました。その前に、あちらに行って髪を整えましょう。ジャネット嬢、一人で準備体操はできる?」
「出来ますわ」
アランから尋ねられ、ジャネットは力強く頷いた。この訓練場に来るのも、もう両手で足りないほどになる。シルティ王女のように襲いかかる役をする近衛騎士を上手く撃退することは未だに出来ないけれど、準備体操くらいは完璧に出来るようになった。
「では、先に始めてくれ」
アランはジャネットの顔を見て少しだけ微笑むと、シルティ王女を連れて奥の部屋へと消えて行った。
ジャネットはいつものように体を順番に解してゆく。膝に手を置いてゆっくりしっかり伸ばすように屈伸をする。膝を曲げないように足元の床に手を伸ばす前屈は、始めは全く床に手が届かなかったのに、今ではぺったりと手のひらがつくようになった。訓練場の地面は土に砂が撒かれており、触るとざらりとした感触がした。
次に行った後屈では、見える上下反転の景色が広がり、すぐ近くの地面までよく見えた。その後は関節を回し、身体中の筋肉を伸ばしてゆく。最後に柔軟をして準備体操を終えた。
ジャネットは先ほどアランとシルティ王女が消えた部屋の方向に目をやった。二人はまだ戻ってこない。ジャネットはぐるりと訓練場を見渡した。奥で剣の打ち合いをしている騎士が数名と、剣の素振りの練習をしている騎士が何人かいる。そのうちの一人と目が合うと、目が合った騎士はニコリと微笑んで近づいてきた。
「お手伝いしましょうか、レディ?」
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