レッスン10 頑張っても無理しすぎない
──なんだろう? 頭がぼーっとする。
ジャネットがそんな風に感じたのは、いつものようにヨガレッスンを受けている時のことだった。地面がふわふわするような、逆上せたような、変な感じ。見上げた先にある天使達のいる楽園が描かれた天井が落ちてくるような、嫌な感覚……
「はい、次はこれよー」
アマンディーヌの元気よい掛け声が耳に反響して頭の中をぐわんぐわんと駆け巡る。思わず耳を塞ぎたくなるような耳鳴りがした。上から空が落ちてくる。微笑みを浮かべた天使がこちらに向いて、口が弧を描く。
「はい。吸ってー、吐いてー」
息が苦しい。なんだか今日は部屋が寒い。それに地面までぐらぐらしてる。なぜ誰もなにも言わないのだろう。何かがおかしい。
「ポーズを変えるわよ」
アマンディーヌの掛け声を合図に立ち上がったタイミングで目が合った天使は、すぐ近くまで羽ばたいてきた。美しい顔を寄せ、にっこりと笑ってジャネットに手を伸ばす。
頭がぼーっとする。この手を伸ばしたら、少しは楽になるだろうか? ジャネットはふとそんなことを考えた。足元がぐらぐらするから、誰かに支えて欲しかったのだ。
だから導かれるままに手を伸ばしたかけたところで、視界の端に怖い顔をしたアマンディーヌが走り寄って来るのが見えた。
──まぁ、なぜそんな怖いお顔を?
そう聞こうと思ったのに言葉は出てこず、アマンディーヌの体が斜めになる。
「ジャネット嬢!」
ああ、違う、とジャネットはすぐに気付く。体が斜めになったのは、ジャネットの方だ。
焦っているのか、聞こえたアマンディーヌの叫び声はいつもの裏声ではなくて、低い男性の声だった。どこかで聞いたことがある気がするけれど、どこだったろう? あれは確か……
そんなことを考えている間に、意識は深い闇にのまれた。
***
目覚めたときに最初に目に入ったのは真っ白な天井。ジャネットのためにあてがわれた部屋よりも少し天井が高く、消毒液のような独特なにおいがする。天井をボーッと眺めたまま二三度まばたきして、ジャネットは飛び起きた。
「あら。お目覚めですか?」
声の方に顔を向けると、盥でタオルを濡らしていた女性がベッドで半身を起こしたジャネットを見て微笑んでいた。真っ白な衣装に真っ白な帽子。その格好から、ジャネットは彼女が看護師であることをすぐに悟った。
「あの……。わたくし、ヨガをしていて……」
状況を確認しようと絞り出した声は掠れていて、最後まではっきりと喋ることが出来なかった。
「はい。ジャネット様はヨガレッスン中に倒れられたようですわ。でも、どこも床にぶつけてなくて本当によかったです。頭を打つと大変ですから。ここは医務室ですから、お加減がよくなるまでゆっくりされて下さい」
看護師の女性がにこりと微笑む。
ジャネットは無意識に自分の体を擦った。触れた肌はどこも痛くはなかったが、相変わらず頭はがんがんと痛み、寒気がする。まだ熱があるのかもしれない。
「今すぐに飲み物と軽食をご用意しますね。ひどい高熱で、昨日からずっと眠っていらっしゃいましたから」
看護師がそう言い残し、部屋を退室する。
それを聞き、ジャネットは自分があのあと一晩中寝ていたことを知った。
言われてみれば、喉はカラカラだった。外を見ると、雨だったはずの外は爽やかに晴れており、青空がのぞいている。暫くして戻ってきた看護師からコップを受け取ると、ジャネットはそれを一気に飲み干した。渇いた喉に水分が染み渡る。しかし同時に、ごくりと喉をならすたび、刺すような不快な痛みが走る。
サイドテーブルに置かれたお粥は食べる気がしなかったので食べなかった。暫くすると、ジャネットはうとうとし始め、再び眠りの世界へと誘われた。
どれくらい経ったのだろう。ジャネットは僅かな物音に目を覚ました。ずいぶんと寝てしまったようで辺りは少し薄暗い。カツンと足音がして、ジャネットは身を強張らせた。目もとまですっぽりと被っていた毛布を少しずらすと、長身の人物が近づいてベッドの横に立つのが見えた。見上げると、黒髪が見えた。
「ダグラス様?」
薄暗い中でも一際暗い黒髪は婚約者ダグラスと同じだ。
「……ジャネット嬢、加減は?」
暫くの沈黙の後に聞こえた低い声は、聞き覚えがある。ジャネットは人影を見上げた。見覚えのある人だ。
ああ、そうだったんだ、とジャネットの中に妙な納得感が広がった。色々なことが腑に落ちたとでも言うべきだろうか。
「だいぶよくなりました。ありがとうございます。本当にご迷惑をお掛けしました」
「いや、それはいい。こちらもきちんと気付いてやれなくてすまなかった」
そう言うと、目の前の人物──アラン=ヘーベルはベッドサイドの椅子に腰を掛け、ジャネットを見つめた。
「ジャネット嬢。頑張ることは、とてもよいことだ。しかし、何事も度を過ぎると悪影響となる。体がつらいときは我慢せずに言うんだ。頑張ることと自分の状況を考えず無理することは違う」
「……申し訳ありません」
ジャネットはぐっと唇を噛んだ。実は昨日のヨガの前から少し肌寒さと頭痛を感じていた。きっと、雨に打たれたのがまずかったのだろう。
「とにかく。今はしっかり療養するんだ。レッスンはそれからだな」
そう言って立ち上がろうとしたアランは、ふと動きを止めた。眉を潜めてサイドテーブルを見つめている。ジャネットは怪訝に思い、その視線の先を追った。サイドテーブルには新しく置かれたお粥があり、『少量でもいいので、少しはお食べ下さい』と看護師直筆のメモが残っていた。
「食事、きちんととってないのか?」
「食欲がありませんの」
「食べろ。体力がないと治るものも治らなくなる」
眉を寄せたアランがお粥の入った皿を差し出したのを見て、ジャネットはそのお皿とアランの顔を交互に見比べてからプッと吹き出した。
「アラン様はその格好でもやっぱりわたくしに沢山食べさせようとしますのね」
「ジャネット嬢の食があまりにも細いからだ。──なんなら食べさせてやろうか?」
「食べさせる? まあ、殿方にそのようなことは──」
そこまで言うと、ジャネットはケホケホッとせき込んだ。
「以前は俺の前で堂々と裸になろうとしたくせに」
アランが意地悪い目でこちらを見つめる。
ジャネットはカーっと頬が熱くなるのを感じた。あれはアマンディーヌはいかなる時も乙女なのだと思っていたからだ。ところ変わればこんな男性的な、しかも公爵家出身の近衛騎士様だったなんて微塵も知らなかった。
アランもジャネットの言いたいことを悟ったのか、少しバツが悪そうな表情をして持っていた皿をいったんテーブルに置いた。
「まあ、それはいい。今のは冗談だ。だが、少しでも食べろよ」
ジャネットの肩をぽんと軽く叩く仕草はアマンディーヌと全く同じだ。けれど、見た目と雰囲気が違うせいでどうも勝手が違う。
「分かりましたわ」
「よし、いい子だ。今はゆっくり休むといい」
アランは少し微笑むと、今度こそ本当に部屋を後にした。部屋が静寂に包まれる。ジャネットはサイドテーブルのお粥を手に取って一口だけ口にすると、またテーブルに戻した。やはり食欲がない。
しばらくすると、トントンっとドアをノックする音がした。
「どうぞ」
「失礼しますわ。お加減はいかがですか?」
ドアの隙間から顔を出した看護師がにこりと微笑む。
「アマンディーヌ様より差し入れです」
「アマンディーヌ様から?」
ジャネットが眺めている間に看護師が何かが乗ったトレーを運び込む。サイドテーブルのお粥を少しずらして置かれたのはハーブティーセットだった。よく見ると、小さなメモが付けられている。
『タイムとエルダーフラワーのブレンドよ。喉の保護と風邪に効果があるから、ちゃんと飲むのよ。体が冷えないように、少しだけシナモンが入っているわ。お大事に。 アマンディーヌより』
ティーカップを口元に寄せるとシナモンの香りが立ち、全く食欲がなかったはずのお腹がグーと鳴る。少しだけ口に含んだそれは、今まで飲んだどのハーブティーより優しい味がした。