レッスン9 気遣い美人を目指しましょう
行儀見習いに来て早三ヶ月。初めてここを訪れた時はまだ気だるい暑さの残る陽気だったのに、いつの間にかすっかり涼しい日が続くようになっていた。涼しいならまだよいが、最近では寒いといった方が正しい。暑い季節の日中にけたたましく鳴り響く虫の声も気付けば聞こえなくなり、代わりに夕方から歌うような鳴き声が聞こえる。
そんな中、ジャネットとシルティ王女と共にお茶会開催のレッスンを受けていた。目の前でアマンディーヌが優雅にハーブティーをいれてゆく。砂時計で測られた時間、ティーポットでしっかりと蒸らしたそれは美しく紅に染まっていた。ティーカップに注がれると、透き通った紅の液体から白い湯気が立ち上る。
「ジャネット嬢。お茶会の主宰をしたことは?」
「親しいお友達を誘ってなら、何回かありますわ」
アマンディーヌはそれを聞き、小さく頷いた。
「お茶会の主宰は、貴族令嬢にとって、重要なミッションよ。独身時代は仲のよいお友達をお誘いすればよいだけだけど、結婚して女主人となってからはそうはいかないわ」
「と言うと?」
ジャネットはアマンディーヌに尋ねた。
「女主人のお茶会は招待客からその家がどの家と親交が深いのかを他に知らしめることになる。そして、優雅で参加したいと多くの方に思わせるようなお茶会を開くことや、多くのお茶会に招待されることはある意味でその家のステータスになるのよ」
「確かにそうですわね」
貴族のご夫人にとってお茶会がステータスになるというのはジャネットも聞いたことがある。特に、高位貴族のファッションリーダー的な夫人が開くお洒落なお茶会に招待されることは多くの貴族女性の憧れでもある。また、お茶会が人気であればあるほど、その一挙手一投足が皆に一目置かれる存在になる。
「多くの方に来たいと思わせるような魅力的なお茶会を開くためには、気遣い美人である必要があるわ」
「気遣い美人?」
「まぁ、一体どういうことかしら?」
ジャネットとシルティ王女は顔を見合わせた。アマンディーヌはゴホンと咳をする。
「では、二人に聞くわ。例えば、同じメニューを用意した二つのお茶会があったとするわ。どちらも会場はテラスよ」
アマンディーヌはそう言いながら、部屋をゆっくりと歩き窓際に寄ると扇をパシンと開き、口元を覆う。
「一方では体を冷やさないように貸し出しショールが用意されていて、一方はなかった。どちらにまた行きたい?」
「貸し出し用ショールがある方ですわね」
ジャネットが即座に答える。
「同じ飲み物でも一方では温かい飲み物と冷たい飲み物が両方用意されていて、一方はなかった。どちらにまた行きたい?」
「両方ある方ですわ」
今度はシルティ王女が答える。
「一方では妊娠している来賓のためにクッションと妊婦によいとされるハーブティーが用意されていて、一方はなんの配慮もされていなかった。または、一方はちょっとした領地の手土産を持たされたのに、もう一方ではなにもなかったら? どちらにまた行きたい??」
「もちろん、前者ですわね」
「私もそう思うわ」
今度はジャネットとシルティ王女の両方が答えた。アマンディーヌはその答えに満足げに口の端を持ち上げる。
「そのとおりです。多くの方はシルティ王女殿下とジャネット嬢と同じ感覚を持ちます。相手の状態や心情を先読みして気遣えることは相手に好印象を与えることが出来ます。これが気遣い美人です。そして、気遣い美人が開くお茶会は、同じような趣向を凝らした他のお茶会と比べて必ず人気になるわ」
ジャネットはそれを聞いてなるほどな、と思った。
お茶会など、皆やることはほぼ同じだ。会場のセッティングもお出しする軽食やお菓子もだいたい似たようなもの。だからこそ、どこでまた来たいと相手に思わせるかが、重要になってくるのだろう。
アマンディーヌが言ったことの他にも、例えば足の悪いご婦人がいらっしゃるときは屋敷の一階でお茶会を開催するだとか、馬が合わないと噂を聞く方は同時にご招待はしないだとか、ちょっとした工夫は沢山あるように感じた。
「ハーブティーも色々効能があるから、お客様に合わせてお出しするといいわよ。例えば、今日のローズヒップティーには美肌効果があるわ」
ジャネットは目の前のティーカップにはいった紅の液体を見つめた。一口だけ口に含むと、口の中に独特の爽やかな酸味が広がった。
「リラックスした雰囲気にしたいならカモミール、暑い日ならスッキリとミントティー、優雅な気分になりたいならローズの香り付けをした紅茶……工夫のしかたは色々あるわ」
アマンディーヌは優雅な所作でティーカップを口元に寄せると微笑んだ。
***
「うーん。タイミング悪いわ」
ジャネットはどんよりとした空を恨めしげに見上げた。先程まで爽やかに晴れていたはずの空は真っ黒な雲が覆っており、いつの間にか霧状の小雨があたりに舞っていた。
ジャネットは行儀見習いという立場だが、レッスンが無いときは侍女達の手伝いをしていた。この日も少し時間が空いたので、シルティ王女の衣装係のお手伝いをしていた。ジャネットは衣装係のお手伝いが好きだ。なぜなら、最先端の流行ファッションについて色々と話を聞けるから。
アマンディーヌから色々とレッスンを受けるにつれ、洋服に個性を持たせることと流行に無頓着であることは別物であるとジャネットは理解した。アマンディーヌと一緒にシルティ王女の付き添いで行った舞踏会で見たマチルエンダ子爵夫人も、鮮やかな赤という個性的な衣装の中にさりげなく流行を取り入れていた。ジャネットは自分なりのスタイルを確立するために、流行の情報や技術を彼女たちから習得したいと考えたのだ。
そんなこんなで衣装係のお手伝いをしていたジャネットは、洗い上げられた衣装がそろそろ仕上がっているはずだと聞き、とりに行く役目を買ってでた。そして、いざ籠を持って戻ろうとしたらこの天気だ。これではせっかく綺麗になって太陽の匂いがする衣装が、湿ってしまう。
「この天気ですし、わたくしがのちほどお部屋までお持ちしますわ」
ジャネットに衣装を手渡した洗濯係の女性が雨に気付き、出入口まで様子を見に来ると、空を眺めながら困ったように頬に手を当てた。ジャネットはその言葉に甘えるべきかと思案した。
ジャネットが取りに来たのはシルティ王女のドレスとヨガや護身術レッスン用の衣装だ。このドレスはシルティ王女のお気に入りで、特に好まれて着ていることが多い。今日も午後にヨガレッスンがあるし、そのあとはこのドレスが着たいと言い出しそうな気がした。
「どうしようかしら。──雨避けの防水カバーはある?」
「あるにはありますが、ジャネット様がびしょびしょになってしまいますわ」
衣装籠は大きいので両手で持つ必要がある。それを持って帰るとなると、両手が塞がったジャネットは傘がさせないのでびしょびしょになることは免れない。心配して眉根を寄せる洗濯係の女性に向かって、ジャネットは小さく首を振って見せた。
「わたくしは大丈夫よ。ほんの小雨だし。それに、びしょ濡れになってしまうのはあなたも同じでしょう? 心配してくれてありがとう」
笑ってそう言うと、渋る洗濯係の女性から雨よけカバーを受け取る。王宮までの屋根の無い部分はざっと五百メートル程度。ジャネットはぐっと籠を握り、意を決して霧雨の中に飛び出した。
小走りするうちに霧状だった雨が小雨へと変わり、あっという間に本降りになった。着ている簡易ドレスが水を吸って重い。けれど、籠に入った衣装を濡らすわけにはいかないとジャネットはますますしっかりと籠を守るように握りしめた。冷え込みが強くなってきたこの季節、雨粒は驚くほどに冷たかった。




