レッスン8 ストレスは美容の大敵
ジャネットは行儀見習いになってから受けたレッスンにおいて、大抵のことでシルティ王女より劣っていた。頭の布袋はシルティ王女の倍近く落とすし、ヨガのポーズもうまくできないことが多い。食べる量も負けている──まあ、これに関してはシルティ王女がまだ成長期の途中だからという理由もあるだろうが。だが、それでも勝っている部分も少しはあった。それが、座学のお勉強だ。
その日、ジャネットはシルティ王女と一緒に座学の授業を受けていた。
目の前では丸ぶち眼鏡のライラック男爵が諸外国の歴史について語っている。ライラック男爵は諸外国の事情に精通した有能な政務官として活躍するお方だ。教科書から顔をあげるたびに、眼鏡のガラスが光を反射してキラリと光っていた。
ジャネットは元々本を読むことが好きだし、侯爵家の一人娘だけに貴族令嬢として必要な最低限の教養は身に付けているつもりだ。事実、彼女はとても教養豊かだと友人のご令嬢から驚かれることも多い。しかし、諸外国にいつか嫁ぐことを想定してシルティ王女のために行われているこれらの授業は、そんなジャネットでも知らないことが多かった。例えば、隣国の政治の体制だとか、各地域の特色だとか、歴史だとか。
それらの知識は、他国に嫁ぐわけではないジャネットにとっては別に知らなくてもいいことだ。しかし、ジャネットは自分の知らないことを知ることが出来るこの授業が好きだった。
「知性と教養って言うのはね、その人を内側から輝かせるのよ。どんなに見た目が綺麗でも、話す内容が全て浅い女性は本当の意味で美人とは言えないわ」
以前、アマンディーヌはジャネットにこんなことを言った。そんな理由もあり、ジャネットは今日もシルティ王女と一緒に授業を受けている。ジャネット自身、とても楽しんでいるし、シルティ王女は一緒に学ぶ同志が出来たことをとても喜んでいた。
「では、今日はここまででお終いにしましょうか」
ライラック男爵が開いていた教科書をパタンと閉じる。光を反射して景色を映す眼鏡の奥で、茶色い双眸を柔らかく細めると、ライラック男爵は小さくお辞儀して部屋を退出していった。それを見送ったシルティ王女は、ドアが閉じられるや否やぱたんとテーブルに突っ伏して倒れた
「ああ。終わったわ。長かった……」
突っ伏した弾みで頭の上に置かれた布袋がコロコロとテーブルの上に転がる。シルティ王女はどうやら、こういった授業が苦手のようだ。自分の教科書をパタンと閉じたジャネットは、シルティ王女のその姿を見て苦笑した。
「シルティ様は座学のお勉強が苦手ですのね」
「苦手というか、嫌いだわ。体を動かす方が楽しいもの」
「そうですか? 面白くはありませんか?」
「面白くない!」
シルティ王女はそう断言すると、少しだけ口を尖らせた。いつもしっかりしているように見えても、シルティ王女はまだ十六歳の少女だ。子供っぽい一面も持ち合わせている。そんなところもなんとも可愛らしいとジャネットは頬を緩めた。
そうこうするうちに、不貞腐れていたシルティ王女はいいことを思いついたとばかりにパッと表情を明るくした。
「そうだわ。今日は近衛騎士団の訓練場に行きましょう! ねえ、ジャネット様も一緒に行きましょう?」
一方のジャネットは、シルティ王女に思いがけない場所に誘われて目をパチパチとしばたたかせた。
「騎士団の訓練場……でございますか?」
「ええ、そうよ。一緒に行きましょうよ。楽しいわよ?」
眉を寄せたジャネットに、シルティ王女はにこりと笑いかけた。
近衛騎士の任務は王族や国の重要人物の護衛だ。騎士の中でも特に腕が立つ精鋭が集められており、多くの人にとっては憧れの、花形的な職業でもある。確かに一般的なご令嬢であれば、その雄姿を近くで見られるのは楽しいのかもしれない。しかし、シルティ王女からすれば自分の護衛が近衛騎士なのだから、わざわざ見に行く必要がない。一国の王女が一体何のようがあるのかと、ジャネットは首をかしげた。
「シルティ様は一体そこに何をしにいかれるのです?」
シルティ王女がテーブルに転がった布袋を拾い上げて頭の上に置くと、すくっと立ち上がった。
「もちろん、レッスンをしに行くのよ」
***
シルティ王女に連れられて向かった先の訓練場には沢山の人が集まっていた。本日は要人護衛の任務のシフトに入っていない近衛騎士達が訓練しているのだ。
「まあ。意外と沢山いらっしゃるのですね」
「ええ。だって、お父様やお母様が外出するときには沢山の近衛騎士が護衛するし、普段も交換要員がいないとでしょう? 結構多いのよ」
シルティ王女に促されておずおずと訓練場に近づくと、シルティ王女の来訪に気付いたその場のリーダーらしき人物がつかつかとこちらに寄ってきた。とても背の高い男性で、さすが近衛騎士だけあって体格もよい。
「シルティ王女殿下。今日はまた稽古に?」
「ええ、そうよ。今日はジャネット様も一緒」
目の前の近衛騎士が視線をジャネットに移動させた。とても背の高い男性だ。その深緑の瞳と視線が絡まり合い、ジャネットは何故か既視感を覚えた。
「いいでしょう。準備体操は自分で出来ますか?」
「もちろん。ジャネット様には私が教えるから大丈夫よ」
「そうですか。では、終わったら声を掛けて下さい」
「ありがとう、アランお兄様!」
シルティ王女が甘えるように目の前の近衛騎士の腕に手を絡ませた。
その様子を見て、ジャネットは目の前の近衛騎士こそが時々シルティ王女の口から名前を聞く『アランお兄様』ことヘーベル公爵家次男の『アラン=へーベル』その人なのだと知った。
確かに友人の貴族令嬢達が噂していた通り、とてもハンサムだ。短かめに切られた髪は艶やかな漆黒、こちらを見つめる瞳は新緑で、婚約者であるダグラスを彷彿とさせる。ただ、ダグラスよりはアランの方が中性的な美形だった。目もとが涼しげで、噂どおりパッと見はクールな印象だ。
へーベル公爵家が代々宰相を出す名門一家なのでジャネットは勝手にアランも政務官を目指して修行しているのだと思いこんでいた。だが、実際は近衛騎士なのだということも今日会って初めてわかった。ジャネットは慌てて頭を垂れる。
「ジャネット=ピカデリーですわ。本日はお世話になります」
きちんとお辞儀したはずが、一向に反応が無いのでジャネットは恐る恐る顔を上げた。無言でこちらを見下ろすアランと視線が絡む。
「なかなかよいお辞儀だ。角度もいいし、背筋も伸びている。美しいな」
アランが形の良い唇の端を持ち上げる。
「はい?」
「理想的なお辞儀だと言ったんだ」
「はぁ」
その時、ジャネットは悟った。
この人、たぶん変わった人だと。
普通、ご令嬢からお辞儀をされて今の返しはない。まるでお辞儀評論家のような返しだ。あんたはマナーの先生か! とツッコミたくなる。
「さあ、ジャネット様も早速準備体操をしましょう!」
訓練場についてすっかりとやる気を出したシルティ王女は、そんなジャネットの気など素知らぬ様子で準備を促した。先ほどまでの歴史の授業の時のやる気のない様子とは、もはや別人である。ジャネットはシルティ王女に習い、慌てて準備体操を始めた。
「ここで剣を習うのですか?」
ジャネットはシルティ王女を真似て屈伸をしながら尋ねた。訓練場の奥では近衛騎士たちが剣の打ち合いをしていたのだ。シルティ王女はぶんぶんと片手を顔の前で振って否定する。
「違うわ。組手って言うのかしら……いわゆる護身術よ。誰かに襲われそうになったとき──もちろん近衛騎士が守ってはくれるけど──自分でも身につけておいて損はないでしょう? 相手の力を利用して攻撃をかわす方法を習うのだけど、うまくいくと手を添えてちょっと力を加えただけで相手がコロリと転がって爽快なのよ」
シルティ王女はその時のことを思い出したのか、構えて何かを投げるようなポーズをしてから屈託なく笑った。
今日は初日なので、色々と組手のようなものをしていたシルティ王女に対し、ジャネットはひたすら型を練習するだけだった。正面から片手を下ろしながら横を向く、同じような動作を何回も何回も繰り返す。一体この動作が何になるのかが全く持って不明だが、ジャネットの指導をしたアランはそうしろと言った。簡単な動作なのにもかかわらず、繰り返し行うと体中から汗が噴き出した。
「暑いわ……」
帰り際、アランはタオルで汗をぬぐいながら扇で風を作ってあおぐジャネットと目が合うと、僅かに口の端を持ち上げた。
「適度に体を動かして汗を流すことはストレス解消になるからおすすめだ。ストレスは美容の大敵だからな」
「はぁ」
ジャネットはその言葉を聞いて確信した。
この人、絶対に変な人だと。
この日のジャネットにとって一番の収穫は諸外国の歴史を学んだことでも護身術の基礎を習った事でもなく、多くの貴族令嬢の憧れの貴公子であるアラン=へーベルがだいぶ変な人であるとわかったことだった。ついでに言うと、見た目と違ってクールでも何でもない人だった。