ことの起こり①
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後悔先に立たず。
覆水盆に返らず。
死んでからの医者話……
とにかく、ジャネットは猛烈に後悔していた。
──ああ、なんでこんなことに。
ずいっと間近に迫ってきたその迫力満点の大柄な美女──アマンディーヌに、ジャネットは思わず「ひっ」と小さな悲鳴を洩らした。
「アンタ、悔しくないの!?」
「く、悔しいですけど、わたくしは地味ですし、貧弱ですし……」
バシンっと大きな音が鳴る。大女が廊下の柱を拳で叩いたのだ。柱は石造りだ。手は痛くないのかと余計な事が頭に浮かんだが、今その話題を出すのは自殺行為だとジャネットは口を噤んだ。
「あ゛あ゛!? 悔しいのかどうかって聞いてんのよ」
「ひっ! 悔しいですけど……」
「『けど』は要らない!」
「ひゃい!」
恐怖の余りに変な返事をしてしまった。大女はそんなことに構うこと無く、ジャネットの顎をガシッと掴むと上を向かせた。
「顔のパーツと配置は悪くないわ。確かに、ちょっと凹凸がなくて地味ね。まあ、化粧すれば誤魔化せるわ。肌も綺麗だし」
褒められてるのか、けなされてるのか、どっちなのかわからない言いようだ。顎から手を外したアマンディーヌは流れるような美しい金髪のほつれ毛を片手で直すと、今度はおもむろにジャネットの腰をがしりとホールドした。そのまま確認するように手が下へ移動する。
「ちょっ!!」
「黙ってて!」
ジャネットは狼狽えた。目の前の大女は女に見えても生物学上の性別は男なのだ。服の上からとは言え、殿方に体を触られるなんて。もうお嫁にいけない!
そんなジャネットの胸の内など露知らず、アマンディーヌは手を外すと、今度はジャネットの胸をじろじろと観察するように眺めた。
目の前の大女がはぁっと大きなため息をつく。
「だめ。そそらないわ。腰は細いけど胸がなさ過ぎる。尻もちっちゃいし。全然だめ」
「なっ!」
なんという失礼な女、もとい、男なのか。体つきが貧弱なのは言われなくても知っている。
「お言葉ですけど、そんなことは最初から知っております。それに、服の上からとはいえ独身の乙女の体を撫でるなんて! お嫁に行けないわ!!」
「ダンスのホールドと何が違うのよ? それに、アンタの愛しの婚約者殿は毎晩違うご令嬢の体を直に撫でまわしてるわ。こんなの気にしないわね」
「まぁ!」
あながち間違って無いだけに、反論が出来ない。羞恥と怒りに震えるジャネットにアマンディーヌはずいっとにじり寄った。
「アンタ。悔しかったら綺麗になりなさい。綺麗になって、そのふざけた婚約者殿を二度と浮気できないような腰砕けにしてやるのよ」
「は? 出来るわけ──」
「出来る! 王室お抱えの美容アドバイザーの私が協力してあげるんだから、有難く思いなさいよ。いいこと! 何をやってもブスで貧相でどうしようもない女なんて、この世に存在しないのよ!」
有無を言わせぬ迫力で大女が吼えた。
──ああ、なんでこんなことに。
ジャネットは舞踏会会場の廊下で泣いていた自らの迂闊さを、深く後悔したのだった。
***
ことの発端は遡ること三十分ほど前のことだった。
──ああ、またなのね。
舞踏会会場からテラスに出たジャネットは、薄暗い庭園を眺めながら、言いようのない虚無感からぐっと唇を噛み締めた。
ジャネットの視線の先にいるのは、寄り添う若い男女だ。若い男は少女の腰に手を回し抱き寄せ、少女はうっとりとした様子で男の胸にしな垂れかかり、甘えるように見上げている。とても愛らしい見目の少女だった。
ただ単にこの現場を目撃しただけなら、多くの人は若い恋人同士が舞踏会会場で逢瀬を重ねている一場面だと思うだろう。けれども、ジャネットにはそう寛大な心で見守っていられない理由があった。
なぜなら、愛しくて堪らないと言った様子で少女を抱き寄せるその男は、ジャネットの婚約者であるダグラス=ウェスタンその人だったのだ。
ひそひそと囁き合う二人の顔が近づき陰が重なるのを見て、ジャネットは無言でテラスを後にした。
婚約者の不貞を見せ付けられるのは、もう何回目だろう。
初めの頃は数えていたけれど、両手で足りなくなってからは数えるのをやめた。嫌だから止めてくれと何回も訴えたが、暖簾に腕押しだ。
ダグラスは舞踏会には義務なので仕方ないと言った様子でジャネットをエスコートするが、いつも会場についた途端にほったらかしだ。
帰り際にチラチラと見える首もとに鬱血痕を作ってきたこともあれば、全身からプンプンと女性ものの香水のかおりを漂わせてきたこともあった。
人影のない廊下まで走り去ったジャネットは両手で顔を覆った。
足元にポタリポタリと染みが出来る。
ダグラスと婚約できるだけで、私は幸せ。そう思っていたはずなのに、現実では心はズタズタだった。
──この苦しさは、いつまで続くのだろう?
まだ二人の結婚生活は始まってもいないのに、終わりの見えないトンネルに放り込まれた気分だった。あまりの惨めさに、涙がこぼれ落ちた。
ジャネットとダグラスの婚約は、ジャネットがどうしてもと望んだものだった。
幼い頃からの片想い。お茶会で一度しか会ったことの無い少年に、ジャネットは恋をした。そして、そろそろ婚約者を決める年頃になった時、ジャネットは父親にダグラスの妻になりたいとお願いした。
ジャネットは侯爵家の一人娘だ。対するダグラスは子爵家の三男坊。ジャネットの願いはすぐに聞き入れられ、二人は婚約者と相成ったのだ。
俯くジャネットの視界に、走ったせいでほつれて落ちた薄茶色の髪が目に入った。うねった薄茶色のくせっ毛はジャネットのコンプレックスだ。下ろすとライオンのたてがみのように広がるその髪が、嫌で堪らない。
九歳の時、母親に連れられてジャネットはとあるお屋敷のランチガーデンパーティーに参加した。百人規模が招待されたそのパーティーには、子供も何人も居た。
「お庭でみんなで遊ぼう!」
「いいよー」
そんな会話が出てくるのは自然な流れだった。ジャネットはその子達と庭園で鬼ごっこをして遊ぶ事にしたのだ。
木の陰に隠れたジャネットは、逃げようとした時に頭に違和感を感じた。強く引かれるような感覚がして、可愛く結い上げて貰っていた髪の毛がグイッと崩れる。髪が木の枝に引っ掛かったのだ。
「痛い! とって」
自分では取ることができず、ジャネットは悲鳴を上げた。異常に気付いた子ども達がわらわらと集まり始める。皆で試行錯誤でジャネットの髪を枝から取ろうと頑張ってはくれたが、所詮は子どものやることだ。ジャネットの髪が枝から取れたとき、その髪型は原型を留めない位にぐちゃぐちゃになっていた。
「なんか、ジャネットの髪ってライオンみたい」
一人がそういって吹き出した。
子どもと言うのは、時に残酷だ。悪気がなく、単純にそう思ったから口に出したのだろう。
「本当だ。ライオンみたいだ」
「ライオン、ライオン!」
口々にまわりの子供たちもそう言って笑い出した。