恐怖
恐怖、それを初めて実感した日だった。今までホラー番組を見たことはあっても、それを実感したことは一度たりともなかった。その恐怖は永遠と思えるほど長いものだった。
口は動かず、息をするので精一杯。手足は動かず、腰も抜けて立ち上がることもできない。
人が覗いてはいけない深淵、それを覗き、その深淵からも僕は覗かれた。
死を直感するも、逃げるという行為ができない。ただ、その魔物を見るだけで体と精神が限界を迎えていた。これ以上何もできないというものが僕を包み込んだ。
「ねえ、見たんだよね」
ランドンは繭の中身を指し、僕も首を無理やり動かすと、再び繭の中身を見た。
人、それも成人したばかりだろうか、スーツ姿の人がいた。だが、実際は目が抜け落ち、全身がやせ細っている。皮膚の色も白から、焼けたような色に変化していた。
それだけで、死んでいるということは分かった。それと同時に自分もこうなってしまうという事を反射的に理解した。
死ぬという実感がなかった。突然の出来事に頭がついてこなかった。体に死が走ると、恐怖というものだけを感じ取り、動けなくした。
僕は、律儀に答える余裕がない。呼吸を整えようにも、目の前にいる化け物が怖く落ち着くことなんて一向にできない。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。
逃 逃 逃
げ げ げ
な な な
き き き
ゃ ゃ ゃ
に
げ
な
き
ゃ
精神がグニャグニャに曲がりながらも必死に考える。今やること一つのことを考え実行する。
入ってきた扉に向かって、四足歩行で向かうが、すぐに追いつかれる。腰を抜かした僕と背の高いランドンでは話にならない。首元を掴まれると、力が抜け、抵抗する力もなくなった。
「なんで、逃げるの?」
その目は狩るモノの目だ。僕を捉え、捕食する目だ。その目を僕は何度も見てきた。獲物がトラップに引っかかった時に見る猟師の目だ。
唯一動かせる首を縦に振ることで頭突きをすることができた。僕を持つ手も一時的に力がなくなったのか、僕も地面にたたきつけられたが、それでも逃げることで自分を支配しようとした。
「待ってよ!」
僕を殺そうとする声を必死に聞かないように耳をふさぎながらこの部屋の入口へ向かった。
必死に四足歩行で階段を上り、玄関に向かう。さすがに階段ともなれば、小柄な僕のほうが有利だったのか、捕まることは無かった。その後、玄関の扉を開こうとしたが、開かない。
鍵がかかっているのかと確認するが、どうも開かない。階段から足音が聞こえると近くにあった椅子を掴み、近くにある窓にぶつけた。
少し、ガラスの破片が僕に当たったが、そんなことを気にする余裕はなかった。小さいからだを必死に押し込み、何とか外へ出る。
足はすぐについたが、裸足で足が痛い。それに雨のせいで土は泥へと変わり、バランスを崩した。
だが、すぐに立ち上がり、別の場所へ向かった。
「とにかく、遠くへ……」
あの家に居たら危ない。そのことだけは分かった。
必死に逃げるが、それを森が良しとしない。ツタが足に絡まり僕を逃がさないと語ってくる。
「くそ!」
すぐに家から人影が見えると、ツタを外す前に僕の目の前に来た。
「逃げないでよ、アルフ君。君はおいしそうだから、ゆっくりと食べようと思ったのに……」
舌なめずりをしながら化け物は答える。このままいけば、僕は捕まる。けれど、そんなことは生存本能が許さない。
手元にある泥をできる限り多く化け物に投げつけると、彼女は笑った。
「面白いね。そういう精気が多い子は好きだよ」
生まれて初めて告白をされたが、一切うれしくはない。逃げる方向は分からないが必死に抵抗する。
「うるさい化け物!」
必死の咆哮も化け物には意味をなさない。それでも抵抗を続け、ついにツタが取れた。だが、今度は右腕を掴まれた。
「ねえ、私君を気に居ちゃった。特別に私の正体を教えてあげるね。私はね、skogsråっていう森の精霊なの」
必死に僕を見つめるが、僕は睨め返し、反撃をしようと考えたが、左手も掴まれた。だが、幸運なことにぶつけた泥と雨のおかげで、細い僕の腕はスコグスラの手から離れることができた。
その後、何度も捕まりは抵抗を繰り返し、逃げ続けた。けれど、一度たりともスコグスラは僕を気絶させることは無かった。それは、まるで人形と戯れる子供のようだった。絶対的強者からの慢心、それに救われたのかもしれない。次の日の太陽を僕は見ることができたのは、人生の中で生きていると実感できるものだった。
その後、僕は父親の猟師の知り合いに発見され、保護された。その時の記憶は鮮明としなかったが、覚えているのは、あの化け物だけだった。親に話すと一度は軽く流されたが、僕以外にあの森で行方不明者が出たことで、森全体が伐採されたのは一年後だった。