第九話 生きていたい
放課後になった。学はネット越しにテニス部の練習風景を眺めていた。
「ちっす」
声のした方に振り向くと、死神が片手をあげて笑っている。
「……どうも」
「うい。どーもどーも」
軽く言って、彼女は学の隣に並んだ。
「どう、調子は」
「ぼちぼち、ですかね。そっちは?」
「順調順調。今日でこの仕事も終わりだよ」
「そうですか」
学は答えながら一歩、さりげなく足を引いた。アケミは気づかなかったようだ。
「そうなんよ。ようやく一区切りついたんだ」
「……そう、ですか」
「今回はちょぉっと厄介だったよー。対象がなんか無理難題言ってきてさ」
学は足音を立てないようにさらに下がる。
「死ぬ前に頼みを聞いてくれなんてあんまりあることじゃないんだけどね」
もうアケミの言葉は聞いていなかった。学はそこにあった金属バットをそっと拾った。
おそらくは野球部のものだろう。片付け忘れか。備品の管理が緩すぎるとは思うが、まあそれは大したことではない。
「でも学クンもラッキーだよ。繰り返しだけどこんなこと頻繁にあるわけじゃないからね。神様には嫌われてなかったってことだ。よかったよかったおめで――」
学は持ち上げていたバットを勢いよくアケミの頭に振り下ろした。
食いしばった歯の間から息が漏れた。
そして、これから伝わってくるであろう嫌な手応えの恐怖に堪えた。
が。
「……ふーん」
……空が見えていた。
夕暮れが近づくどうにもすっきりしない空。
鳥が高いところに一羽、飛んでいく。
「ぐ……」
身体が、特に背中が痛んだ。
上体を起こすとアケミがこちらを見下ろしていた。
「へえ」
別段いつもと違う目ではないのだが、学はその視線に震えた。
「なるほど。そういうコト。愛しいカナちゃんを守るため、わたしをやっつけちゃうことに決めたんだ?」
学は答えずに右手のバットを強く握り込む。
まだ身体は震えているけれど、そうすることで少しだけ恐怖が消えた。
立ち上がる。バットを構えた。
少しの沈黙。
アケミがため息をつく。
「やるなら早くした方がいいよ。後ろ見てみ。待ったげるから」
その言葉が終わる前に、背後からはざわめきが聞こえていた。
振り向くとコートの方に人だかりができている。
「誰か倒れたんじゃないかな。大丈夫かな」
「この……っ」
怒りと共に突進した。
そして路面に叩きつけられて息を詰まらせた。
それでも立ち上がる。
何度だって繰り返す。
香奈のためなら、なんだってやってやる。
死神だって、ぶっ殺してやる!
「ほいっと」
悲鳴を上げて学は電柱に激突した。
背中を強打して息を漏らす。
崩れ落ちて、今度こそ起き上がれない。
先ほどより空が暗かった。
深呼吸を繰り返し、ようやく上体だけは持ちあがった。
バットはどこかに行ってしまったようだ。
「終わり?」
アケミは立ち位置すら大して変えないままそこにいた。
「終わったならわたしは行くよ。仕事しなくちゃ」
行かせてはならない。
香奈を連れていかせるわけにはいかない。
絶対に。
「取引……!」
「ん?」
「取引……しよう」
興味をひかれたわけではないのだろうが、アケミは「どんな?」と返してきた。
「香奈は殺すな。代わりに」
息を吸う。
「僕を連れてけ」
ハッ、とアケミが鼻で笑った。
「無ぅ理」
即答だった。
「なんでだよ!」
「無理なもんは無理」
それだけ言ってアケミは背を向けた。
「そんじゃね」
「待てよ! 香奈を連れていくな!」
残った力を振り絞って立ち上がる。
「連れていくな……!」
アケミは呆れたようだ。振り向かないまま肩をすくめた。
「頑張るねえ」
「当たり前だ! 香奈はみんなに好かれてる。才能もある。僕とは違う……。僕とは違うんだ! 夢も持ってる! 学校の先生になりたいって……。未来が必要な人間なんだ!だから、連れていくな!」
「それだけ? それだけでわたしに仕事を放棄しろって?」
学はうつむいた。
これを言うのには勇気が必要だった。こんな時でも自分は臆病だと知った。
それでも言った。
「好きなんだ……」
さらさらと風が砂を撫でる音が聞こえる。
先ほどのテニス部のざわめきはもう聞こえない。
「駄目か? 僕の命じゃ安すぎるって――」
「分かった。いいよ」
アケミが振り向いた。
「あんたを連れてこう」
それまでゆる軽さのためにアケミを死神と意識したことは一度たりともなかった。
だがその時の彼女の目は、確かに死神のものだった。
命を刈り取る者の眼差し。
きゅっと喉の奥が締まった。
アケミが近寄ってくる。
悲鳴も上げられない。
敵はすぐに学の目の前までやってきた。ゆっくり手を伸ばしてくる。
学はきつく目をつぶった。
その瞬間は、とても長く感じた。
死の暗闇が学のすべてを飲み込む。
(ああ、香奈……)
ぽん、と頭を叩かれた。
「……なーんちゃって」
はっと目を開けると、死神は悪戯っぽく笑っていた。
学は一瞬ぽかんとした後……目から涙があふれるのを感じた。
「生きていたい」
つぶやく。呆然と。
「香奈と一緒に生きていたい……生きていたいよ……」
「うん。知ってる。よーく、知ってる」
アケミは優しい声で言った。




