表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

第八話 切り替わる音

 電話番号を押す指が震えた。

 その後に通話ボタンを押すのにはさらに十分ほどが必要だった。

 それでもちゃんと話をすることはできた。


 はい、どなたですかという声に答える自分の喉が少しひきつるのを学は感じた。


「小林です。和泉香奈さんはいますか」

「あら、もしかして学くん? 久しぶりねえ」


 電話を取ったのはどうやら香奈の母親だったらしい。

 香奈に直接つながる番号は知らなかったので香奈の家の方に電話をかけたのだ。

 弾んだ声で元気か、変わりはないかと簡単に訊かれた後、少し待つように言われた。

 何かを察したようだった。


(当たり前か……)


 電話をするなんて小学生以来だし香奈の母親も学たちが疎遠になったことを知っていてもおかしくはない。

 学の変化も知っているかもしれない。

 いきなり連絡があれば何かあると思うのも道理だ。

 もっとも、学には大した用事があるわけでもなかったが。


 待つ時間は長かった。

 気持ちの問題で長く感じたのもあるだろうが、それでも長かった。


「……はい」


 だが香奈のこわばった声を聞いて、彼女の方も電話に出る気になれなかったのだと悟った。


「ええと……学です」

「うん。何か用事? 小林君」


 ――覚悟していたとはいえダメージは大きかった。


「もしもし?」


 香奈の声が聞こえるまでかなり沈黙の間があいたことに気づかなかった。


「あ……ああ、いいや。なんでもないよ」


 唾を飲む。

 用意していた言葉を確認する。

 謝りたかったしもう一度あの呼び方で読んでほしかった。

 他にもいろいろ話がしたかった。

 そしてそれらが言葉にならないことを知った。


「で、何?」


 言葉にならないのだから何も言うことはできない。

 沈黙に苛立ったのか香奈の声が冷たくなった。


「用事がないなら切るね」


 それでも何か言わなければならない。

 何かを、言いたい。


「僕らが迷子になったのって何年前だったっけ」


 とっさに出たその言葉は自分でもよくわからないものだった。


「……迷子?」

「うん、迷子。昔、道が途切れるところまで歩いてみようなんて馬鹿な真似したことあったよね」


 香奈は答えなかった。

 忘れてしまっているのだろう、無理もない。


「あれは何歳の時だったかな、と思ったんだ。何を見たか何をしたかはよく覚えてるんだけど、それだけは思い出せなくて」

「そんなことを聞くために電話したの?」


 香奈は本気で訝しんでいるようだったが、学は構わず続けた。


「思い立ったのは朝十時ごろ。時計が読めるようにはなっていて、それを、カナちゃんに自慢したから間違いない。歩き続けてそれから六時間近く。ずいぶん遠くまで行ったように思ったけど、後で調べたら実際は隣町までしか行けてなかった。香奈が転んで膝をすりむいた。手をつないでいた僕も転んでこっちは肘をすりむいた」


 一気に語る。

 カナちゃんと言ったことすら気にする余裕がなかった。


 電話機の向こうには沈黙だけがあった。

 それでも口を止めることはできなかった。


「夕焼けの道をべそをかきながら引き返して、家にたどり着いたのは確か七時だ。時計を指さしながら母さんが怒ってたからこれも多分間違いない。我慢していた分が弾けて、香奈が見ていなかったのもあったから、すごい大泣きしちゃったんだ」


 まだまだ言いたいことはあった。

 遠くの町のにおいとか、そこに見た人の流れとか、帰り道の香奈の手の温かさとか。

 だが口はそこで止まった。


「……ごめん」


 後悔が胸を満たしていた。

 もう何も、言うことがない。


「変なことばかり言った。ごめん」


「十年前くらいじゃないかな」


 香奈の声がした。


「え?」

「あの日の前か後にわたしの四歳の誕生日があったはずだから、多分十年前だよ」


 その声は淡々としていて、抑揚はなくて、でも冷たくはなかった。


「忘れてた。そんなこともあったね。わたしはその誕生日の方は覚えてたけど。なんでかなって思ったら、迷子になってたんだ。まーくんは、どう? 誕生日の方は覚えてた?」


「……忘れてた」


 また呼んでもらえた、と。

 そちらの方に意識を取られた。


「ひどいよ」


 電話の向こうで声が笑った。


「その誕生日でまーくんは、まーくんが大事にしていたキーホルダーをくれたのに。

青い鳥の形のキーホルダー。わたしが欲しがってるのをまーくんは知ってて、自分の宝物なのにプレゼントしてくれたんだよね」


 本当は生きている鳥を飼いたかった。

 でも母からは大きくなってからねと言われていて、代わりに渡されたそのキーホルダーを大事に大事に持っていたのだ。

 それを香奈にあげた。


「うれしかったなあ……。その後二人で約束したっけ。貯金して、本物の青い鳥を飼おうって」


 そうして手に入れたのが、セキセイインコのモモだ。


「今でも大事にしてるよ、あのキーホルダー。鞄のところについてるんだけど。ちょっと汚れちゃっててそれはごめんかな」


 それから長い話をした。

 くだらないことと大したことでないこと、それから呆れるほどオチのない間延びした話。

 大切な数分間。

 とりとめもない会話だったけれど、とても楽しかった。

 心がするりとほどけていくのを感じた。


「それじゃあおやすみ」

「おやすみ」


 名残惜しく耳から電話機を離す。

 だが電話を切る前に「ちょっと待って」と声がした。


「もう一つ思い出した」


 香奈は言った。


「あのキーホルダーね。本当はあれそのものが欲しかったわけじゃないの」

「え?」

「まーくんとお揃いの印が欲しくて、同じのを探してたの」


 つん、と鼻の奥が痛むのを感じた。


「それだけ。おやすみ」


 その声だけを残して電話は切れた。

 ツー、ツー、と無機質な音に、学はじっと耳を凝らしていた。

 目をつぶって一生懸命に聞き取ろうとしていた。


 それだけ。おやすみ。

 その「それだけ」がどれだけ僕の心を揺さぶるか、君は知っているのだろうか。

 その言葉が僕にとってどれだけ大きいのか。

 重いのか。鋭いのか。そして狂おしく輝くのか。

 君は知らないだろう。

 学は耳を凝らし続けた。


 長く長く息を吐いて。

 電話機を下ろし、学は目を開いた。

 心が切り替わる音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ