異世界が召喚されてきたので主婦力で自宅を警備してみた
冗談抜きにガチで見た夢のお話。
途中、女子にあるまじき言葉遣いが散見しておりますが、
あくまでも口には出さない脳内での表現ですのでご寛恕の程を。
絶滅したと思われる純粋培養の大和撫子ならばいざ知らず
少年漫画やアニメで鍛えられた現代女性たちは
この程度の脳内言語は嗜みでございます。
夏の太陽に向かって
「熱ィじゃねぇか!馬鹿野郎!」くらいは
言ってますよ、頭の中で。
・・・え?私だけ??
私は普段あまり夢を覚えていない。
見てはいるのだろうけれど、朝になるとすっかり忘れ果てている。
突飛なアイデアや現実の問題を解決するヒントを得られるという人もいるので、
できれば覚えていたいとは思うものの記憶力の問題なのか
夢の残存率は毎晩まことに残念極まる成績だ。
しかしながら珍しいことに昨晩の夢は色付きではっきりと覚えている。
めったにない事なのでここに記録しておこうと思う。
◆◆◆
「げ、洗濯できてない」
いつもなら終わっているはずの時間なのに洗濯機が止まっている。
操作パネルのエラー表示はC1。
取説を引っ張り出してみれば給水できていないらしい。
だが給水口のフィルターは先日清掃したばかりだ。
そして数日前の大雪。こちら東京でも氷点下を記録している。
あー、こりゃ凍結してるなァ。
水道管を断熱材で包んではいたものの、それもたかだか関東仕様。
厳しい雪国で訓練されたその道のプロには鼻で笑われる程度のお粗末な状態だった。
処理するまでに破裂しなきゃいいけれどと思いつつ、
仕事帰りに断熱材の追加を買ってこようと心のメモに書き込んだ。
洗濯はあきらめて炊事は井戸水で最小限にする。
かじかむ手を拭いて上から下まで重装備に整え白い息を吐きながら出勤した。
雪かきされていない道路は轍の後がアイスバーンと化し、
雪かきされているところも歩道にはこんもりと雪が積まれている。
受験期真っただ中の学生さんたちに悪影響が出ないことを祈りながら
そろりそろりと足を踏み出し、いつもよりも時間をかけて慎重に職場へ向かった。
◆
家で凍っていれば職場でも凍っているのが道理だ。
片や外掃除用の水道は一滴も漏らすまじ、と固く心に誓い鉄壁の構えで屹立し、
一方立体駐車場はこのゲートを死守するのが我が定めと
頼んでもいないのに全ての車両を確保したまま籠城の構えを崩さない。
あれもこれもきっと最強を自称する⑨番窓口のお嬢さんがいたずらしまくった結果であろう、
はた迷惑なものである。
アメノウズメを召喚して裸踊りをさせるわけにもいかず、
頑なな門番には駐車場管理会社に御出座願いオープンセサミの古代呪文を詠唱して頂く。
決して(蛇)口を開くものかと水も漏らさぬ覚悟を示す水道管には
執行猶予を与えて仕事をさせず、孤独なまま独り立ち尽くさせておいた。
そのうち気温が上がれば頑なな心も緩むだろう。
とは言え、離れた室内の蛇口から延々とバケツで水を運ばなければならない貧乏くじを引くのも私だ。
やはりはた迷惑な話である。⑨番娘には算数ドリルをくれてやろう。
日頃の運動不足を解消させてやろうという
天界の余計なお世話臭がそこはかとなく漂う作業量を
肩の痛みと引き換えに唸りながら渋々こなす。
「炎症がひどくてこの状態ではリハビリに入れません」と整形で宣告されたのはいつだったか。
ようやく少しずつ動かせるようになってきたものの、
上にも横にも後ろにも断固として動かせない不動の五十肩を宥めながら
一日の作業を終えて仕事道具諸々を片づける。
さて今日も頑張った。百均で断熱材とビニールテープを買って帰ろう。
主観まじりの愚痴にならないように極力事務的に日報を記して戸締りを確認。
あとは警備会社さんお願いします。
◆
歩道の上は様々な趣の雪だるまと連なる雪の小山。車道にはみ出ればアイスバーン。
素っ転びたくはないのでよちよちとペンギン歩きを心掛け、
ゆっくりゆっくり歩いているとどうしたことか不思議なものが目に留まる。
ウグイス色のちんまりした尾羽。
白い尻。
きゃしゃな足。
ましてや季節は梅花ほころぶ寒の候。
読者諸氏には既にお分かりのことだろう。
そう、メジロである。
(断じてウグイスではない)
そのメジロ氏が何を思ったのか歩道の雪山はコレ防空壕かと頭から豪快に突っ込んでいる。
と言うよりも埋もれている。ぴるぴる尾羽を震わせて尻だけ出して。
アンタ何やってんのよ、
寒さに強い種ではあるが、これはさすがにアカンだろう。
小動物の体温保持がどれほど大事かは理解しているつもりだ。
体温が少し下がるだけで急激に小さな命が削り取られていく。
これでは命がけのパフォーマンスにも程がある。カラスにでも追われたんかいな?
とにもかくにも掘り返し雪を拭き取り手持ちのタオルで包んで懐に入れ温める。
これが草履であれば天下取りへの第一歩であるが。
昨年は窓ガラスに激突して命を落とした雀を弔った。
あの時は間に合わなかったがこの子は何としてでも救いたい。
痛む肩をかばいながら重いバッグを背負い、
メジロがずり落ちないようコートの前を合わせて腹を押さえる。
凍えた小さき者を抱えてのんびり帰宅する暇はない、
このまま小動物可の動物病院へ向かう。
以前シマリスを飼っていた時にお世話になった病院を目指して
雪かきされていそうな大きめの通りを選んで恐る恐る歩く。
財布にいくらあったかな?カードがあれば何とかなるか。
だいたい野鳥を保護したら役所に届けなきゃならないんだし
(東京だと無許可の保護は罰金100万or懲役だったりもする)
お持ち帰り指示されたらどうしよう、今はもうケージも保温ヒーターも無いぞ?!
たとえ尻もちをついてもiPutさんとメジロだけは死守すると決意し、
足場の悪い中慎重に小さな宝物を抱え歩くこと数十分。
目的の動物病院へ着いたのだが、こんな時に限って何故か閉まっている。
今日は平日、しかもまだ夕方だ。
交通機関が止まっているわけでもない。
なんで開いていない?
今からこれだけ抱えて他の病院検索して行けと?
往診にでも行っているのだろうか。入り口には告知板も見当たらない。
すぐに戻りそうならばこのまま待つけれど正直困り果てて途方に暮れる。
何か少しでもと情報を求めてきょろきょろと辺りを見回していたところ。
ふと、
音が、止まっていることに気づいた。
◆
ここは小さいながらも商店街だ。
雪で足場が悪いとはいえ、多くの人々が行き交っている、
いや、行き交って「いた」
先ほどまで雑多に通りすぎていた人影は気配もなくはたと途絶え、
車も商店もひそりともしない。
駅のアナウンス、漏れ聞こえる会話、エンジン音、
商店街のスピーカーから流れる音楽。
散歩する犬の声、威嚇する猫の声、風の音、子供たちの笑い声。
一切合切ひっくるめて、町から人と音とが消え去った。
鏡面のような無音が自分を取り囲んでずしりとせり出してくる。
言い知れぬ不安が背筋を這い上るのと同時にざっと下がったのは全身を流れる血の気。
膝が震え、息が苦しくなる。あ、これ過呼吸だ、久しぶりにきた。
ゆっくりと、息を吐く。数を数えながら いち(ふうっ) にぃ(ふうっ)
落ち着け、落ち着くんだ、これは病気じゃない。
今、真っ白い顔をしている自信がある。
過去に何度も気を失ったことはあるけれど、蒼白な顔色はあの時に匹敵していることだろう。
だがここで気絶するわけにはいかない。
助け手は無く、胸には小さな命。私が守らずにどうする。
逢魔が時
という言葉が浮かんだ。
知らず知らずのうちに異界への境界をまたいでしまったか?
光る月影も鏡も鳥居も魔法陣も見ていないし通ったはずもない。
物語にあるようなお約束的境界は見当たらなかったというのに。
このまま振り返らずに来た道を、
踏んだ後をたがわずに戻ることが出来れば。
「なかったこと」にはならないだろうか。
何の根拠もないのに
もしかしたら「日常」へと帰れるかもしれないと思った。
深呼吸を繰り返し、むりやり呼吸を整えてひるむ足を叱咤する。
さり、と後ずさってみた。
自分の足音とふいごの様な呼吸音、
破裂しそうな心臓の音がむやみに響き恐ろしい。
これで大丈夫だろうか、踏み外していないだろうか、
禹歩とかいう歩法も調べておけばよかったと
後悔しながらそろりと足を踏み出す。
九字を切るべきか?
小説や漫画で仕入れた程度の生半可な知識で
素人が切ってしまって大丈夫なものなのか?
怖い。また息が苦しくなってきた。
泣きそうになりながら暗くなりつつある空を見上げた時目に入ったのは。
巨大な それはそれは巨大な 地図 だった。
◆
空を覆う程に広がるのは、広大な大陸なのか。
夕暮れ特有のグラデーションを背景に
複雑な海岸線を描く、さながらゲームのマップのような異界が
音もなく逆さまになって遥か頭上を覆っていた。
浮遊大陸、上下に分かたれた大地、はたまた流浪する異界との衝突。
いずれもアニメや小説で何度か出会った情景だったが。
人間あまりにも常識の通用しない事態に直面すると思考を放棄してしまうらしい。
口を閉じることも忘れて呆然と魅入ったまま
知らず知らずの内に涙を流していた。
その圧倒的な、恐ろしくも美しい光景に畏怖と言う言葉の意味を識る。
どれほどの時間見上げていたものか、
首と肩甲骨が我先にと悲鳴を上げ、
一刻も早くこの凝り固まった筋肉の痛みを癒せと訴えてきてようやく気づく。
いつの間にか揺蕩う羽衣の様な夕暮れは過ぎ去り、
ひたひたと染み出してきた宵闇が、
世界をとっぷりと塗りつぶしていた。
星も無い、月も無い。
ひとつとして街の明かりも見当たらない闇の世界。
遥けき彼方に音もなく奔る龍の姿---稲妻だ。
天空で覇を競う龍が輝くたびに、かの大陸の境界線が浮かび上がる。
とろりと麻痺したままの神経が、
あの夕暮れの壮大な光景を写真に残さなかったことを悔いていた。
今更カメラアプリを起動しても撮れるような腕も無い。
もはや稲妻が奔る瞬間にしか空の大陸は目に見えない。
その瞬間に合わせて光を捕えるなんて素人には無理だ。
だが有難いことにこの忸怩たる思いが
ほんの少しだけ恐怖感を薄れさせてくれた。
今すべきことを思い出す。
まずは家族の安否確認と家に帰ること。
この闇の中、足元も不如意な屋外は雪も残り、氷点下になるのは確実だ。
家族は無事だろうか、手探りで動物病院の壁に身を預けてiPutさんを開く。
ああ良かった電源が入った。
震える指で操作する電話とショートメール。
だが繋がらない。ネットもだめだ、使えるのはオフラインのアプリだけ。
若いころ近所の電話会社が大規模な火災を起こし、
広域で通信網が断絶したことがあったのを思い出す。
当時は他に電話会社など無かったので上を下への大騒ぎとなった。
住民の安否確認用に臨時で無料の公衆電話が設置されたものだけれど。
ネットもケータイも無かった時代、
電話が使えなければ誰もが足で連絡を取りあったものだ。
手紙を出したり相手の見そうな場所に伝言を貼っておけばいい。
この暗闇も広域の停電みたいなものだ。天気が悪ければこうもなろう。
雨の夜に深山で遭難するよりはましなはずだ。
少なくとも自宅までは道順も分かるし十分もかからない近距離だ。
広域の避難場所とは反対の方向だが、
このような事態で行ってみたところで人がいるとは思えない。
自宅なら大丈夫なのかと問われても残念ながら肯定できる材料は無いが、
あそこが「自分の居場所」だ。
じきに築四十年になろうというボロ家だが、
他のどこでもない、家族と共にある、
あれこそが私の帰る場所だ。
闇を見据える。
分からないことだらけで不安は次々と波のように押し寄せるが、
「家に帰る」ただそれだけを意識してまっすぐに自宅を目指す。
◆
自慢の視力も闇の中では役に立たない。
音のない世界で耳は信用できない。いつ幻聴を拾ってきてもおかしくはない。
医者も驚く慢性鼻炎で鼻もまったく用をなさない。
三重苦だと?知ったことか。ヘレン・ケラーという偉大な先達がいるではないか。
通いなれた道だ、車や自転車が走って来ないなら這ってでも行ける。
今まで生きてきた中でここまで触感を研ぎ澄まさせたことは無かった。
全力で手足の感覚に集中する。
これは、動物病院の壁。次はお蕎麦屋さんがあって、インド料理店。
手を壁に沿って滑らせる。
足先の低温は雪と氷だ。足裏全体に体重をかけてそろそろと前進する。
脱出方法も不明なのに後ろへ下がろうだなんて、
先ほどの自分は何を考えていたのか。イザナギでもあるまいに。
インド料理の看板の先、指が空を切る。壁が途切れた。
ここには何があっただろうか?
思い出せ、地元民だろうお前は!
痛む肩を無視して腕を大きく動かすが手に触れるものは無い。
何も無いはずがないのに。
焦る心に心臓が引っ張られる。落ち着け!
上部に壁がなくとも地に足を着けているのは確かだ。
雪に足を取られないよう細心の注意を払って
半円状に片足で探りアタリを付ける。
少し先に固い金属の感あり。
垂直に立った壁・・これは、自動販売機か!
行儀よく並んだ自動販売機と空き缶入れをぎくしゃくと通り過ぎると
ボール紙で頑張って作ったのだろう手作り感あふれる看板
(アンパンタンが六頭身あるのはいかがなものかといつも思っていた)が手に触れる。
電気屋さんにたどり着いたようだ。
店主がお年を召していて動くのが辛いらしく
修理を依頼しても数ヵ月単位で待たねばならないので足が遠のいているが、
地元で昔からある商店だ。場所は記憶の通り。
ここを左に曲がればしばらくは真っすぐだ。
オーケイ、
曲がって呼吸を整える。ここからは商店街を外れることになる。
並ぶのは一般家庭とアパート、駐車場のみ。
つまり各家庭ごとに雪かきの状況が異なる。
かじかむほどの外気が手指の感覚を軋ませる。
そこを押して焼き付けるように神経を研ぎ澄まさせる。
外部からの音は一切分からない。
自分の立てる心音と呼吸音に注意を持って行かれそうになる。
血管が破裂しそうなほどに激しい心音なのに
指先へ血流が回っている気がしない。
毛細血管仕事しろよ!もっと体温を回せ!
無事に帰りついたらシナモンでも葉酸でもたっぷり摂るから、
マッサージもちゃんとやるから手指に体温を回してくれ!
ぐーぱーと動かして両手をこすり合わせ、足首も回す。
よし、ちゃんと動く。無理やり血流を促して気を奮い立たせる。
八甲田山に比べればこのくらい何ぼのもんじゃい!
いつかTVで見たシベリアの氷結河川を思い出す。
こんな形状だっただろうか、起伏にとんだ雪氷が足先をかすめる。
荷物が重い、仕事に関係ないものまでいつも持ち歩いているからだ。
パンパンに詰まった筆入れはちょっとした弁当箱くらいはある。
それがカラーとモノクロ用に二種。スケッチブックにクリアファイル。
iPutさんだってもちろん重い。
仕事中に持ち歩けるサイズではないので
ちょっとした調べ物や筆談用に以前のi-Ponとガラケーも欠かせない。
それに伴う充電ケーブルと電池一式。
お札は碌に入っていないのに
各種ポイントカードとレシートでまるまると膨らんだ大型の財布、
本屋さんのポイントカードのみに特化したカード入れも満杯だ。
やはり満杯で入りきらず1ポケットに数枚ずつ入っている診察券入れとお薬手帳。
スマフォ用の広角・接写・魚眼レンズ一式。ミニサイズのLEDライト。
絆創膏に鼻炎薬、頭痛鎮痛剤とポケット裁縫セット。
ガーゼの手ぬぐいとタオル、
ティッシュの箱ひとつ(鼻炎もちは箱単位で持ち歩く)
白湯の入った水筒。
・・・水筒!
そう、いつか言ってみたい台詞のあれを今こそ。
「今使わずにいつ使うと言うのだ!」
手探りでバッグを漁り
(ライトは小さすぎてどこだか分らない、これを本末転倒と言う)
かじかむ手で水筒を取り出し一口飲む。
ああ、暖かい。
喉が渇いていることにも気づかなかった。
水分を摂ることで頭もクリアになる。
メジロは?どうしたのだろう、静かすぎる。
コートの中、無い胸に意識をやる。
タオルで包んだ小さな塊はニセチチがごとくにバストサイズを上げている。
無事だろうか?気になるけれど今この外気温に晒すのは憚られる。
潰さないよう気遣いながら、タオルをもう一枚胸に詰める。
未踏の頂 C~Dカップにはなったのではなかろうか、
コートの前をしっかりと閉じて再度歩き出す。
個人的には人間が作った宗教を信じているわけではないので
どこの神でも構わないが、この小さな命が無事であってくれと心から祈る。
◆
寒い、暗い、時折光が奔り夜空には見知らぬ地図が浮かび上がる。
闇の中それだけを目に焼き付けよとでも言うように。
四方八方からひたひたと圧力をもって闇が迫る。
音が追いやられた世界で遠く後方から僅かに何かが届いた。
幻聴だろうか?かすかな、しかし多くの生き物が走り回る音。
それが少しずつ近づいてくる。
「命あるものが近づいている」
それが こんなに 怖い。
自分の感覚を信ずるならば、友好的とはとても思えない。
後ろを振り向く勇気が持てない。
他の音を排して、我らが在るぞ!とばかりに近づいてくる大量の足音。
最初はかすかだったその足音が次第に大きくなっていく。
音量の上がり方からして相当に勢いがあるようだ。
もはや地響きをもって迫り来ている。
ばさり という羽音も混じっている。
人間ではないことが確定した。
後方、駅を通り越した先の公園から湧き出たようだ。
地域の広域避難場ともなっている公園だ。
先ほど目的地としなかった自分の選択に感謝する。
あの空の大地から降り立ったのだろうか。
押し寄せるモノに呼応するように、
押しつぶそうとばかりに迫るは闇の圧。
羽音と足音で脳内がいっぱいになる。生臭い息がかかった気がした。
こんなところで死ぬのか、あと少し先に我が家があるのに。
家族の顔が浮かぶ。大学で独り暮らしの息子は大丈夫だろうか。
兄弟は、年老いた両親は、
誰も異界に切り取られてはいないだろうか?
今まで自分は何を為してきた。
幾ばくかの知恵を子供に教えはしたがまだ全然伝え足りない。
多少家事をこなした程度で親孝行などと口が裂けても言えるわけがない。
伝えきれない感謝も後悔も言葉にしていない!
涙と鼻水、嗚咽が止まらない中、
「ヂッ」
胸に小さな声が聞こえた。
◆
座り込みたくなる自身を叱り飛ばして前を向く。
真っ暗な闇の中、
ぽつんとひとり取り残され正気を失いそうな時に共にある命。
尻に帆かけて逃げまくっていた勇気に縄をかけて捕獲し絞り出す。
成鳥だとは思うが人間から見れば赤ちゃんみたいなものだ。
自分の子ではないし、人間ですらない。
本当に究極のぎりぎりで命の選択をするならば自分を優先する。
だが But not now 今じゃない。
母親なめんな。
己より小さな命を守るためなら身体張るぞ?
普段は運動不足だ、いきなり動けば後で筋肉痛必須。
それでも幼子を抱えた母親は実力以上に頑張れるんだ。
這ってでも帰る!
たぶん今脳内麻薬がばしゃばしゃ出ているだろう。
前方の闇の圧力を意志の力で押し返す。
恐る恐る踏み出している時間的余裕はない。
危険察知が限界を振り切っている、
ここに留まれば死にかねないのだろう。
見えなかろうが雪があろうが知ったことではない。
この通りはまっすぐ。突き当りをちょっと迂回して
公園の四つ辻坂を下ればそこがゴールだ。
体が覚えている。
ぶつかったところで「痛い」で済む。死ぬわけじゃない。
滑って転べば立ち上がるだけだ。
迫りくるナニカよりも速く、それだけを目標に走り出す。
車道に向かった我が子を追いかけた時以来の全力だ。
雪と氷に足を取られる、足をすりむき尻もちを搗く。
四つん這いでゴミ箱に縋り付き、また立ち上がる。
立ち上がれるんだ、ありがたいじゃないか!
何かに突っ込む、臭い、またゴミ置場か。回収時刻の後に出すなばかもの!
冬で良かった、夏場なら堪ったものじゃない。
足の下で何かがずるりと滑る。
おむつだろうが生ごみだろうが蹴散らし踏みつぶす!
ゴミや汚れで死んでたまるか!
その程度で止められると思うなよ!
肩が重い、荷物がずしりと食い込んでくる。
ここで捨ててしまうか?
だが水筒は役に立つ、ライトもティッシュも。
家の状況によっては筆記具も必要かもしれない。
iPutさん、オフラインでどれだけ使えるだろう?
選り分けている時間は無い。それくらいなら全部持って帰る。
普段持って歩いているのだ、いざとなれば引きずって滑らせればいい。
いつもならば数分で歩ける道のりを、
こけつまろびつぶつかりつつ、
雪まみれ泥まみれ傷だらけになりながら拓き渡る。
ばさっ
羽音が迫る
一羽だけ、気配を感じる。
後方の集団を離れて付かず離れず並走しているらしい。
耳の脇をかすめる生臭い気配。
頭に鈍い痛み。
毛糸の帽子を取られた。
房の付いたやつだ、髪もひとかたまり一緒に喰われた。
ふざけるなよ?
こちとら脳腫瘍経験者だ。
今更禿げるくらい何とも思わんわ!
だが肉ごと齧られていたらと思うとぞっとする。
妙になめらかな嘴が
耳をこする。
服をついばむ。
丸太の様な舌がぞろりと背を撫でる。
くそっ 遊んでやがる!
息が苦しい。脇腹が絶え間無く悲鳴を上げ続ける。
時間の感覚も失せた。
数十分かもしれないし数時間かもしれない。
どれだけ走ったろう。
限界なんてとっくに超えている。
だがコイツを振り切らなきゃ。
家にまで案内してしまう。
どうする
どうすればいい
考えろ
何か
◆
思い出した。
確かそこの
駐車場の脇
アパートの隅
消火器が
あったはず。
頼むから入っていてくれ。
赤い箱があるだろう位置、勘に任せて体当たりする。
あった!
必死で手繰り寄せて黄色いピンを手探りで引き抜く。
結構重いじゃねーか、どちくしょう!
だがこれからオレのターン!
人間様の化学力だ、たっぷり喰らいやがれっ!
墓場に放り込んでくれる!
昭和女子にあるまじき悪態をつきながらレバーを握り
ノズルを向けて狙うは背後に迫るナニカの影。
やった・か?
などと馬鹿なフラグは建てない。
全部噴射するほど時間的余裕はないはずだ。
まだまだ後続は呆れるくらいいる。
取り敢えず引き離せればいい。
耳障りな鳴き声を発して転げ回る気配がする。
どうやら外さずに頭をやれたらしい。よし!
弄んできた一体のみ沈めて
再度走り出す。
消火器は有用だった。
重量がきついが頼りになる。
片手が塞がってしまうが使いきるまでは持って行こう。
頼もしい相棒を小脇に抱え、
四つ辻を曲がり最後は右にカーブした下り坂。
この年齢になってもスキーは経験したことがない。
だが左隅を滑り降りれば途中にぶつかるのは
電柱ひとつと向かいの家のワゴン車だ。
車が無くてもその先の薔薇の木に突っ込むだけだ。
棘に引っかかるくらい子供の頃に飽きるほどやっている。
バッグを前に回してクッション替わりにする。
メジロの前には左腕で抱えた相棒とiPutさん。
持ちこたえてくれよ?林檎屋の意地を見せろ。
またぞろ湧いて出た背後の気配を引き離しながら
雪氷の上にクリアファイルに入れたスケッチブックを敷いて尻を着く。
そり遊びなんぞしたこともないがこの際四の五の言ってはいられない。
行っけええええぇぇぇぇぇっ!
女は度胸。暗がりの中記憶を頼りに勢いよく己を射出する。
身を切られるような風が頬に痛い。
道路脇の半分凍った枝葉が斬りつけてくる。
そりにクラスチェンジしたスケッチブックの端を右手で支え、
小さな雪山を超えるたびに方向を修正する。
ちくしょう、こんなことなら雪かきしてくれないほうがましだった。
若いころ少し荒れた海を小ボートで渡ったときの記憶が蘇る。
うねる波頭を飛び越えるたびに海面へ落下する。
あの時と同じように雪の小山を乗り越えるたび、尻から落下する。いたい。
皮下脂肪がたっぷりと詰まった我が大いなる尻に安堵する。
Lサイズでも偶には役に立つらしい。
暗闇の中での弾丸ボブスレー。
ご丁寧にジャンプアクション付き。
第一の関門、電柱がそろそろ突き出ているはずだ。
覚悟はある。
手ぬぐいやティッシュの箱を前面に回したバッグを盾に
左腕を曲げ伸ばし、膝を立て足裏も前面に向け衝撃に備える。
タンクじゃないのに!
どが ずりっ
・・・
・・・・・・
左太ももと右肩、尻が痛いでござる。
どうやらゴミ置場となっている路肩と電柱の間をぶっ飛ばした模様。
ジャスミンとクインビーのペアならもっと芸術的レベルですり抜けただろうに、
鈍重な我が身がツライ。
でも生きてる。生きているって素晴らしい。
だがこのまま滑り降りて左にそれてしまうと
アパートの地下駐車場へとなだれ込んでしまう。
あそこはオートロックだ。部外者には門戸を開かない。
そり(仮)の進路を右方向へ微修正して
お向かいさんの愛車を仮想敵としてロックする。
裸眼に対物レーダーは装備されていない、ドットサイトも無いが構うものか、
オレがリトル・ジョンだハレルヤ!
自動車保険って車が人に追突した場合は対人保障があるけれど、
そり(仮)が車に追突したらどうなのかね?そり保険なんて知らんがな。
ましてやMGR-3は核持ちだ。お向かいさんごめんなさい。
脳内麻薬が炸裂していてくだらない冗談でも言わないとやっていられない。
だんっ
激突の瞬間
身を捻って頭部への衝撃を逸らす。
さて、自動車と言うものは
有事の際に前面ボンネットをひしゃげさせることで
衝撃を緩和し操縦者を守るそうだ。
そこで問おう
Q:横向きに停車しているところへ車の右方向からそり(仮)が吶喊してくる場合、
操縦席はどうなるか。
A:そり(仮)搭乗者の左腕と肩を引き換えに運転席ドアが軽く凹む。
脳が揺られる。
だが意識は失わずに済んだ。ありがたい。
左肩から突っ込んだ。
くぐもったうめき声がこぼれる。
このまま倒れてしまえばきっとおだやかな日差しの中
花咲く草原でまどろむ気分が味わえるだろう。
とても幸せに違いないが、それはあくまで気分だけであって
その先には肉塊となって美味しく頂かれている我が身しか想像できん。
しっかりしろ!すぐ向こうが我が家だ。
這う這うの体ではあるがお向かいさんにまで辿り着いたんだ。
・・・お向かいさん、
指紋はついてないはずだけど当て逃げしても大丈夫だろうか。
ピカピカの新車を傷物にしてしまった。
申し訳なさに心が痛むが
非常事態につき今は逃げる。
無事に現世へ帰れたら名乗り出るから。
交通事故も三度ばかり経験がある。
いずれもされた側であって加害者ではない。
今日この時までは、の話だが。
ありがたく無いことにある意味事故には慣れてもいる。
幸い骨は折れずに済んだようだ。
めちゃくちゃ痛いがこのくらい出産に比べれば屁でもない。
◆
そんなことよりメジロが心配だ。
不幸中の幸いにもそり(仮)は追突の衝撃で
道の中央へ跳ね返され停止している。
右正面には懐かしの我が家があるはずだ。
そり(仮)を回収して路地を渡り、
手探りで確認しながら玄関へ向かう。
これは錆の浮いた門、弟のバイク、
ゴミ箱をよけてコンクリの階段を数段登り
経年劣化して罅の入ったたたきを踏みしめれば待ち望んだ玄関扉。
心の奥で「やはり」という気もするが灯りは灯されていない。
視界は閉ざされたまま、
不用意に鳴らさないよう指で抑えながら
キーホルダーの鈴を頼りに鍵を取り出し、そっと玄関を開ける。
家族は居るか、別のナニカはいないか、
背後からの足音に詰め寄られてはいないか。
場所は我が家だが、この事態においては
HouseであってHomeではない。
clearingが済むまでは戦場と心得よ。
相変わらず尋常ではない速度で脈打つ心臓が苦しい。
迫りくるモノ以外は自分の立てる音しか聞こえないのに、
その自分の音が必要以上に響き渡るのはどういうことか。
鈴と鍵をハンカチで包んでポケットへ戻す。
出来得る限りの静寂をもってドアを閉める。靴は脱がない。
最悪ここから移動しなければならないかもしれないからだ。
幼いころ、両親に怒られそうだと自覚している時、
すぐに謝ればいいものを
必死に足音を消しながら廊下を忍んで部屋に戻ったものだった。
それと言うのも我が家は築四十年を誇るくたびれ加減で、
歩くたびにあちこちの床が軋むからだ。
愛する我が家だがこの暗がりでは何が潜んでいるか分からない。
傘立てから長柄の傘を引き抜き腰だめに構え、
玄関にいつも用意してある首にかけるタイプのミニライトを装備する。
荷物は玄関に置いた。
腐っても我が家だ、どこの床が軋むかは頭に入っている。
熟知したマップでセーフティエリアだけに足を置き、索敵する。
順に一部屋ずつクリアリングしていく。
下を向きそうな視線を前へと向けて。
まずは武器となるものが豊富な台所だ。
◆
引き戸の影に体を隠しながらそっと開けて中を伺う。
他者の息遣いは感じられない。
自分の荒い息が邪魔だ。音を立てるな、的になる気か!
部屋全体をさっと照らしてから一歩踏み入る。
冷蔵庫の駆動音がしない。
普通なら冷凍室の氷が解けて床に水たまりが出来ているところだが、
室温が低すぎるせいだろう、特に足元に水は感じられない。
冷蔵庫の影、テーブルの下、食器棚の後ろ。
最小限のライトを当てて安全を確認していく。
頭上はどうか?棚の扉は?考えられる限りの死角を潰す。
ひとまず台所の安全を確保したところで
装備を整える。
この先は武器も防具も必要になる。
このままでは丸腰もいいところだ。
流し台から包丁類を取り出す。
出刃と柳刃、鎌形とイカ割きを選びハンドタオルで包んで腰に差す。
パン切りはフランベルジュにならんかな?
何で鰻裂を買っておかなかったんだ私。
あれの攻撃力はかなりなものがあると思うが
無い物を悔いても仕方がない。
それでも一般家庭としてはかなり充実した刃物が揃っていると自負している。
スロウダガー替わりに鉄串もありったけ用意した。
手首の可動範囲を確かめながら
下腕に雑誌を紐で固定してから串を差し込んでおく。
これは籠手替わりにもなる。
長辺が70cmほどもある大型のまな板は十分盾と成り得るが
いかんせん5cm厚の一枚板は取り回すには重量がありすぎる。
自分の腕力では長時間持ち歩くことは出来ない。
何度も言うが私はタンクではない。
防御は鍋蓋と片手中華鍋のどちらにしようか迷ったが中華鍋にした。
これは持ちやすい事と、全体が湾曲しているので
ただ当てるだけで攻撃をいなすことが出来るからだ。
筋力の弱い女性向きと言えよう。
兜は何が良いか。
鍋をかぶると視界が遮られる。
もとより暗闇なので気にする必要も無いかもしれないが、
ミニライトもある。視界は開けておいた方がいいと判断した。
気休めに雑誌を開いて小ぶりのボウルと共に頭に被せ紐で固定する。
同様に腹回りと脛にも新聞と雑誌を取り付ける。
台所にはパイ生地を焼くときに膨らまないようにする重石もある。
ストッキングの両端に詰めれば即席のボーラだ。
これは右腰にぶら下げる。
また先ほどはイカ割きを苦無にしようと腰に差したが、
思い直して傘の先端に括り付けた。
即席のなぎなたである。
柳刃の方がリーチは取れるが傘に括るにはバランスが悪い。
武器とするには刃の薄さも問題だ。
儀礼用の小刀程度に思っておこう。
ここまですれば
継ぎ接ぎだらけだがなんとか足軽程度にはなっただろう。
ファッションセンス?知らない子だな。
手持ちにそんなものがあるならバッグにファーストエイドではなく
化粧ポーチが入っているはずだ。
それは女子力の高い連中に任せておけばいい。
私は泥臭くても生き残る方を選ぶ。
◆
メジロは胸に抱えたままだ。
両手をフリーにするために紐でタオルごと括り付けている。
もしも身体から離せば凍えるだろうし
置いた場所が気になって動けなくなる。
浴室、トイレ、居間と順に索敵、クリアリングを済ませていく。
敵対する者もいなければ家族も見当たらない。
あの足音を考えれば雨戸を閉めるべきだろうが、
二階が安全とは限らない。
もしも何かが潜んでいたら窓から離脱することもあり得るし、
さすがに雨戸を閉めれば物音で目立つだろう。
せっかく逃れたあの足音を呼び寄せることになる。
ライトの光を直接窓に向けないよう注意して
各部屋の障子とカーテンを閉め、雨戸はあきらめた。
あの重い足音と羽音からして
「翼の帰〇処」で言う北嶺の巨鳥のような存在だろう。
あるいはダチョウに近いなにか。
羽音は聞こえたが飛ぶ様子は無かった。
きっと鋭い嘴と強靭な足、爪を持っていることだろう、
窓ガラスなど何の役にも立たないに違いない。
気付かれないよう息をつめ
物音を立てずに己の存在を必死で隠しながら、
祈るような思いで一階はクリアした。
軋む階段を前に深呼吸をする。
一段、二段、三段目の真ん中、ここは外す。
隅へ足をかけて乗り越える。
かつての我が所業を頼りに、
鴬張りのような階段をアサシンのごとく無音で制覇していく。
昔取った何とやらだ、大丈夫、いける。
全部で十三段。
キリスト教ではないけれど
禄でもない数字だと社会に認識されている気の毒な段数だ。
右へ左へ体重移動し壁の縁につま先をかけ
慎重に上を目指すが障害物の多さに辟易とする。
階段は通路であって棚じゃない、
犯人は分かりきっているが
私物を置くなと何度言えば分かるんだ!
ぼやきながらもどうにか最終段を乗り越え二階の踊り場へとたどり着く。
しかしここで気を抜いてはいけない。
一番足を置きやすい中央はことのほか音を立てて軋むのだ。
ここは仁王立ちが正しい。
中央をはずして両サイドに足を置いて胸を張る。暫定Dカップ(仮)。
正面と左右に部屋がある。右が引き戸、残り二つは開き戸だ。
◆
まずは右の引き戸。この部屋は何度も主が変わった。
変わるたびに内装も変遷していった。
今は機械と書籍で埋め尽くされている。
引き戸の影に張り付き、定石通りそっと隙間を開けて中を伺う。
一階と同じだ、やはり何の気配もない。
機器類の電源も落とされている。
電源ライトは沈黙し一切駆動音も聞こえない。
同様に残りの部屋も確認していく。
中央は和室、押し入れがありベランダへも抜けられる。
家具の隙間、積み重なった布団の裏、何もない。
無さ過ぎるのも不安感を呼び起す。
本当に何も潜んでいないのか?
ベランダは潜伏ポイントとして有利だ。
ぜひ確認したいところだが窓を開ければヤツらがいる。
夜の闇の中、目で確認できないのに下手は打てない。
宵闇で思い出した。
先ほどは追われて焦るあまりに羽音から勝手に鳥類だと思ったが
フクロウのように夜行性なのだろうか?
眼は見えているのか?ピット器官や音響レンズでも持っていられたらお手上げだ。
エコーロケーションなぞやられた日には目も当てられん。
不安は募るが対処できないものを気にしても仕方がない。
マイナス方向へシフトしようとする精神を
「今のところ気取られてはいないから」と宥めすかして最後の部屋の前に立つ。
最後にして最難関、
ダンジョンでいえば最下層のボス部屋だ。
扉に耳を付けて気配を探り、
身を隠しながらそっとドアノブを回して隙間を開ける。
家族が居るとは考えもしない。
安全な足の踏み場もないくらい雑多なものが塔を成しているからだ。
数えるのも嫌になるくらいに溜め込んだ書籍が堆積層を成し、
使われないベッドや季節ものの衣類、各人の不必要だが捨てられない私物、
有れば便利かと無暗に購入した雑貨、機材の箱が所狭しと積み上げられている。
納戸と言う名の腐海が、そこにはあった。
こんなところに家族が、人間が居るわけがない。
何かが居るとしたらそれは敵だ。
◆
隙間から、中を覗く。見えないのにまずは覗いてしまう。
ミニライトで照らすがその遮蔽物の多さに辟易とする。
林立する塔と交差する死角。厄介極まりない。
装備を確認する。なぎなた(仮)は無理だ。盾(仮)も危ない。
兜(仮)と鎧(仮)、刃物(これは本物)だけを残す。
身軽でなければ雪崩を起こすこと確実だ。
現実に無事帰ることが出来たら何を置いてもこの部屋を整理する。
誰のものだろうと構うものか、手当たり次第に廃棄してやる(自分の本以外)
期限も切らぬふがいない決意と共にため息をつき、入り口から索敵する。
右に本の詰まったカラーボックス。上にはコピー用紙の予備。
左に畳んだ紙袋の束、マスクに医薬品、プリントアウトした紙の束。
空気を抜いたバランスボール(誰が使うんだこんなもの)、CDの原版。
正面にライトを向ければ
紐で束ねた書籍の山が何本もの塔の連合体を形成している。
十分に山脈と言えよう。おまけに山の頂には堂々たるビオラ〇テ(50cm角)
いや、むしろ無計画に増改築を繰り返し
アメーバのごとく広がり続けるスラム街を彷彿とさせる。
蔵書数を登録したら軽く五千八百を超えた。
バーコードの付いていない古いものは未登録であるにもかかわらず、だ。
これらが崩れたら人死にが出そうだ。泣きたい。
中央に鎮座するベッドの上には
段ボールや風呂敷に詰まった季節の衣類と電子機器。
ベッドの下には当然本だ。
壁際の大きな棚には書籍と書類が満載され、
棚の上には箱が天井までぎっちり詰め込まれている。
大学生の息子が小学生の頃に使っていたランドセルや学級新聞、
塾の教科書参考書まで置いてある。
いい加減捨てろよと自分に突っ込むが、
恐ろしいことに昭和世代の我が兄弟たちの
工作、成績表、お道具箱に虫取り網まである。
何年モノだ?物持ちが良いにも程があろうに。
・・・ずっと目をそらしていたが殆どが自分と子供の関係物だった。
燃やしたい。
◆
ライトで照らせる部分だけでもこの惨状だ。
暗がりで音もたてずにここを突破できるはずもない。
しばし入り口付近で両手をたらし無防備を装い立ち尽くす。
敵対者が居るならこれ幸いと出てくることだろう。
私はここに居るぞ?
ゆっくりと数を数える、10、20、・・60・・・120
300を数える間に呼吸も落ち着いた。
何も動きは無い。
本当に?
これ程物陰に潜みやすい場所は無いと言うのに。
自分を囮に暫く待つが、疑心暗鬼で神経が焼き切れそうだ。
…もう少しだけ、
奥を見ようか?
不在の証明、
確認さえできれば安心できる。
ライトをかざす。
極力平らな床を選び足を運ぶ。
物音を立てずになんてここでは無理だ。
何かが潜んでいるのなら
もう私の存在は察知されているだろう。
外部にだけは音を響かせぬよう注意して
かつ無理な体勢にならないように
手足をフルに使い荷物の間を蜘蛛のように泳ぐ。
ミニライトは首に掛けているが、
四つん這いになるとすぐ下しか照らせない。
ヘッドセットタイプを購入するべきだった。
今更後悔しても仕方がない。
次に活かせばいい。
今は次に繋げることを考えろ。
隙間が狭い。
足場は確保できるか?
積み上げた書籍の束に足を掛けて身体を持ち上げる。
箱の隙間を照らす。
今、何か揺れなかったか?
書類ケースの、
向こう。
夏物がハンガーに掛かっている。
ずらりと並んだ衣服の影。
着るのは数着くらいなのになんでこんなに無駄にある!
また、息が乱れて来た。
こんな事で生き延びられると思うな。
心にヘイヘ先生を刻め。
細く 静かに 深く。
沈む様な呼吸で。
1km先の針を穿てる様に。
重なり、ぶら下がった衣類の影。
首から外したライトでその奥を照らすよう、腕を伸ばす。
五十肩、蹲りたいほどの激痛を肩を押さえて堪える。
悲鳴を上げるな、痛いで済んで良かったと思え。
何かが居るなら、この
影の、奥
ぐらり
無理を押して腕を伸ばしたところで無情にも足場が崩れる。
10~20冊程度に紐で纏めた本を重ねただけの脆弱な塔だ。
ボルダリングに向くはずがない。
握ったライトを手離さなかったのは上出来だ。
だが半分生き埋めになった。
豪快に物音も立ててしまった。
可及的速やかに離脱せねば。
先ほどの影がやってくる。
私の宝物だが今は目を瞑る。
さっきだって土足で踏んだじゃないか。
気に入りの作家作品でないことを祈りながら、
書籍を蹴散らし肩で押し上げる。
声も出ないほどの激痛が走る。
背を丸め、頭を振る。
半身を持ち上げ、ライトを引っ張り出す。
見回した周囲は
崩れた書籍類が衣類の箱に雪崩れ落ち
攻城槌で破砕された城壁の様になっていた。
メジロが静かすぎて不安だ。
◆
これだけの騒ぎでも
何者かが襲い来ることはなかった。
先ほど見た影は何だったのだろう。
「見た」と思っただけなのか。
枯れ尾花だとしたら笑えない。
幻覚を見てもおかしくない精神状態だ。
今の正気度に自信が持てない。
先ずは、呼吸を落ち着かせろ。
全てはそれが基本だ。
そして余計なものをそぎ落とす。
大切なものは何だ?
家族と、自分。懐に入れた小さきもの。
命に勝るものがこの部屋にあるか?
書籍は、あくまでも平時においての宝物だ。
優先順位を間違えるな。
踏んでも汚してでも生き延びろ。
いざとなったら燃やす覚悟を持て。
天井裏とベランダは開けられない、陽が昇るのを待つ。
索敵が不十分で到底満足できる状況ではないが、
物陰から奇襲されるようなことは無かった。
あの絶好のチャンスで仕留めに来ないのだ。
恐らくここに「敵」は居ないのだろう。
一階も二階もほぼクリアだった。
自宅内に敵対生物を確認できなかったことでひとまずは安全と判断し、
一階に戻り居間をベースとする。
あとは家族への連絡とメジロの体調だ。
先ほど通話、メール、ネットは繋がらなかった。
TVの電源を入れてみる。
すぐに消音ボタンに手をかけるが、
そんな必要はなかった。主電源自体が入らない。
ブレーカーを確認する。
すべてのレバーに異常はみられない。
この状態で異常が見られないことがまずおかしいが。
固定電話の受話器を持ち上げる。
やはり無音だ。ツーツーも何も聞こえない。
水道、井戸、両方ともダメだった。
正直電気よりもこちらのほうが堪える。水分は命に直結する。
当然のようにガスも通っていなかった。
一口コンロを出してきたけれど、こうなるとボンベも貴重品だ。
仏壇のろうそくとマッチも手元に置く。
自宅はもとより町中に人気が無い事、
インフラが停止されていることから、
この界隈は既に異界であると思う。
家族は現実世界で無事であることを祈るしかないが、
普段から緊急時の連絡方法を話し合っておけばよかった。
後悔先に立たずとは言うが、「今後」があるなら活かせばいいだけだ。
現実に無事帰還してからいくらでも話し合おう。
◆
雪道で一声鳴いただけのメジロは静かなままだ。
もう体温は上がっているだろうが何か感じるところがあるのだろう。
地鳴きくらいはしそうなものなのに、
ときどき身じろぎするくらいでちよとも鳴かない。
異常なほどに静か過ぎて不安だ。
保護したつもりだったがとんでもないことに巻き込んでしまった。
凍死するのとどちらがましだったことやら。
だがお前が居てくれたおかげで私の精神が保てる。
ありがとう。何度でも礼を言おう。
鳥に関係する神様と言ったら近場では鶴岡八幡宮か?
たしかハトぽっぽで有名なはず。
ヤタガラスはどこの神社に行けばいいのか分からん。
鎌倉はだいたいこっちの方か、当てずっぽうの方角を向いて
音を立てないよう注意しながら柏手を打つ真似をして頭を下げる。
ついでに地元の八幡様へも同様に祈る。
仏壇に向かってご先祖様にも祈る。
神仏習合でいいじゃないか、こちとら日本人だ。
この子も私もどうか無事に現実世界へ帰れますように。
こんなに真摯に祈ったことはかつて無い。
◆
どんな遭難者でも最初に水分確保を考えるものだ。
幸いなことに今は周り中が雪だらけである。
そっと窓を開けて手を伸ばし、屋根の上から雪を取る。
小鍋に移して溶かそうと試みるが
室温が低すぎてなかなか溶けてくれない。
ガスボンベはまだ温存しておきたいので
シーチキン(油漬け)を開ける。
蓋を少しめくる程度に開けるのがコツだ。
ティッシュでこよりを作り蓋の隙間から中に浸して
こよりが内部に埋没しないよう
プルトップを回して蓋に引っ掛ける。
こよりの先端にマッチで火をつける。
両手鍋の中に安置して焼き網をかぶせて五徳代わりにする。
網の上に雪入りの小鍋を載せてしばし待つ。
ペットボトルやレジ袋をかぶせると光が乱反射して明るくなるが、
今は外に灯りを漏らしたくないのでやめておく。
あまり知られていないようだが
雪は存外に汚いものだ。
積もった雪が解けた後、いったいどれほどの埃がたまっているかは
掃除するものしか知らないだろう。
本当にびっくりするほどの汚れ具合だ。
あのきらきらしい結晶の中心には
かならずチリやほこりが存在している。
かき氷替わりに食べると安くて旨いなどと聞くこともあるが
私に言わせればPM2.5を深呼吸するのと同じだと思う。
つまり、濾過する必要があるわけだ。
何年も前に”水がおいしくなる””おいしいご飯が炊ける”とか聞いて
買い込んだ炭を引っ張り出してくる。
(すでに使っていないことが伺えるがこの際無視)
袋に入れてすりこ木でぐりぐり砕く。
底を切り取ったペットボトルは、
蓋(小さな穴をいくつか開けて)を閉め逆さにする。
1・ティッシュ
2・鉢植え用の化粧石(細粒・未開封)
3・砕いた炭
これらを順番に繰り返し詰める。
溶けた雪をこの簡易濾過器を通してから煮沸すれば何とか飲めるだろう。
まだ雪は豊富にあるが、いつまで続くかは分からない。
外の危険度によっては
風呂水や尿をろ過することも考えなければならないだろう。
自宅があるだけイージーモードなのだろうが、
なんで自分がこんな目に、というお決まりの文句が首をもたげてくる。
考えたところで仕方がない、鬱に傾くだけだ。
出来ることをこなしていく。
◆
コートを羽織ったままだがさすがに冷えてくる。
押し入れから布団を取り出し包まって座ればそれなりに暖かい。
もっと熱源を強くすれば湯を沸かして湯たんぽに出来るのだが。
使い捨てカイロも温存した方がいいだろう。
アルミホイルを平たく畳んでビニール袋に入れてつま先に宛がう。
その上から靴を履くと体感温度が8度上がる。
(以前袋に入れずにやったら大惨事になった)
体調を崩さない程度の保温が出来たところで次は食料の確認だ。
米や乾物、缶詰類ならストックがまだまだある。
雪が解けてきたので脱脂綿を敷いた発砲トレイに取り少量の緑豆を浸しておく。
水を替えながら数日おけばりっぱなもやしの出来上がりだ。
粉類も売るほどある。
湯を沸かせるだけの熱源を確保できるなら麺を打てば楽勝だ。
火力調節が難しい状況ではご飯を鍋で炊くより簡単なくらいだ。
ドライイーストもあるが
この低温では発酵温度をキープするのが難しいかもしれん。
ここはベーキングパウダーで誤魔化そう。
ナンを焼いてもいい。
じゃがいも、玉ねぎ、にんじんは欠かさず常備してある。
葉物は都度入れ替えるが今はどうだったか。
長ネギ、白菜、キャベツに小松菜とキノコ類があったはず。
塩蔵わかめも十分ある。
これを戻した水を蒸発させれば旨味の強い粗塩ができる。
ただの物入と化した冷蔵庫を開ける。
生肉、生魚、冷凍したあれやこれやが最優先処理物件だろう。
明日になって外の様子を見ながら
可能であればトロ箱に雪を集めておこう。
豪雪地帯では屋外が天然の冷蔵庫だと聞く。
外敵さえいなければ食料保存目的に於いてこの低温はありがたい。
とりあえず暫く喰いつなぐのに不自由はしないだろう。
では不自由するのものは何か。
熱源だ。
燃やせるものが圧倒的に足りない。
火力さえあれば水も快適な温度も手に入る。
灯油ストーブは現役だが、肝心の灯油は一缶が使いかけだ。
サラダ油は熱すれば武器にもなる、出来るだけ温存しておきたい。
となると他に燃やせるものを用意しなければならない。
明日は晴れるだろうか?と言うよりも陽は昇ってくれるのか?
闇の中、シーチキン油の小さな灯りを頼りに思案を巡らせる。
夜明けにならなければ分かるはずもない疑問を先送りにして燃料を用意する。
飲み終わった牛乳パックは洗って干してある。
これは十分に乾いているので燃やしても大丈夫だ。
フッ素加工をしていない大きめのフライパンをストーブに乗せ、
チラシ類を固くくしゃくしゃに丸めて中に入れる。これがコンロ替わりだ。
シーチキン油が切れそうになったら火を移そう。
新聞紙を濡らして絞ったものを乾かせば薪替わりになると聞いた。
陽が昇りさえすればこれも試す価値はあるだろう。
二階の納戸に古い雑誌類はたっぷりとある。これも燃やして構わない。
10年も前のPC情報誌など取っておくだけ空間の無駄だ。
そして「痩せたらまた着よう」は悪魔の戯言。
今更どう頑張っても入らない服は当然処分対象とする。
納戸も片付いて万々歳だ。
化学系繊維素材でないものは燃料として有効利用する。
ソーラークッカーもどきも作っておこう。
ビニール傘の内側にアルミ箔を貼りつけるだけ。実に簡単である。
太陽の下、逆さに開いて中央部に水を入れた空き缶などを置けばいい。
沸騰させるまでには至らないがそれなりに高温にはなってくれる。
◆
さて、こまごまと作業をして気を紛らわせているが
夜明けはまだだろうか?
外への不安は尽きない。
時折聞こえるのは入り乱れる足音と羽ばたきの音。
消火器で薬剤をかけた時は孔雀のようなダミ声があったが
不思議なことにあれから鳴き声は聞こえない。
ここに人間が居ることに気づかれていないのか?
(アレは肉食だ、たぶん、きっと)
時間をかけてこちらを怯えさせているのか。
そんな頭は無いか?
ガラス窓は破られないか?
町中の家屋を調べてはいないだろうか?
執念深く家々を調べるような知能が無いことを祈りながら、
なぎなた(仮)を手元に引き寄せておき、
どこの家庭にもある家庭用品から
武器と成り得るものを準備。
ただひたすらに夜明けを待ちわびる。
デジタル系統は全滅しているがアナログの時計は無事に生きている。
現在時刻は四時を回ったところだ。陽が昇るまであと三時間弱。
これから一層気温が下がってくるはずだ。
正直暖房無しは辛い。
布団を巻き付けてダルマになりながら思う。
妙に静かなメジロは眠っているのだろうか?
死んではいないかと不安に駆られる。
アワ、キビ、アマランサスくらいならあるが、花蜜までは在庫がない。
はちみつを水で緩めれば飲んでくれるだろうか?
たしかミカンの汁なども好んだはずだ。
明るくなったら出してあげよう。
ああ、夜明けはまだか。
◆
凍えた肩の痛みで気が付く。
いつのまにやら眠っていたようだ。
部屋の中は闇に閉ざされている。
古来より”夜”は暗いものだが、真の闇を知る日本人は少ないだろう。
星灯りも電源ランプの灯りも無い。
充電切れが怖くてiPutさんの電源も落としてしまった。
油は既に燃え切ったらしく、
缶の中には焼けたシーチキンの残骸が冷めてしまっている。
胸のタオルがもそりと動く。
今火を灯すからちょっと待っていて。
ミニライトを点けてマッチを取ろうと手を伸ばした瞬間
最大級の怖気が走った。
◆
どこに
いる
アレだ
昨夜の
見つかった
どこ
見えない
ちかく
こわい
にげ
ギュイアーーーーーーーッ!
ガラスを掻く不快音が響く。
窓の、向こうだ、障子の裏、
ガラス一枚を隔ててすぐそこにいる。
一般家庭の窓ガラス、
もちろん強化ガラスでも二重サッシでもない。
化鳥にかかれば紙でしかないだろう。
メジロはこれを察したのか。
◆
懐には小さな命の灯。
攻撃されているのは愛しの我が家、
家族の帰る家。かけがえのない私の巣だ。
数は、どうだ、昨夜の大群相手では確実に詰む。
障子を開けなければ分からない、
頼む、一体だけであってくれ。
身を包んだ布団を蹴り飛ばし
なぎなた(仮)を握りしめる。
物音からして巨体に違いない。
飛び道具として用意した鉄串など
蚊に刺されたほどにも思わないだろう。
すでにエイムされている。
中距離からの奇襲が潰えた今、接近戦以外の道は無い。
なぜ寝る前に火炎瓶を思いつかなかった!
ほぞを噛みながら中華鍋の盾(仮)も構える。
こうなってくると光を抑えるのは論外だ。
ストーブに火をつけて視界を確保する。
げしげしと苛立たし気に窓を蹴りつける音がする。
存外に日本の窓ガラスも強いようだ。
そう言えば防犯フィルムを貼っておいたか。
期待以上に役立ってくれた。
未だ侵入されずにいる隙に先ほど用意しておいた
タバスコとチリペッパー、七味に米酢、
黒酢にバルサミコを全て開封しておく。
帰れたら防犯用にシュールストレミングも買っておこうと心に決める。
漂白剤とセスキソーダ、大量の植物油と殺虫剤、
灯油缶と防水スプレー、ヘアスプレーあーんどマッチの素敵コンボ。
我が相棒の消火器だってある。
水回りでは塩素系も酸素系も思いのままだ。混ぜるなら今でしょ?!
除湿剤も景気よく眼を狙って叩きつけよう。
覚えて置け、
貴様らは主婦を敵に回したんだ、ただでは転ばんぞ?
眼にもの見せてくれるわ!
歯を剥きだして、嗤う。
ああ、夕べ磨いていないけどどうでもいいや。
自分のどこにこんな闘争本能があったのかと他人事のように思う。
びしり
粘り強く我が家を守ってくれた窓ガラス(日本製)がついに力尽き、
断末魔の声を上げる。
窓ガラス(日本製)を打ち砕き障子を貫いたのは
凶悪に湾曲したビール瓶サイズの鋭い爪を持った馬鹿でかい化鳥の足。
ドラゴンの様な鱗付きときたもんだ。
あれだけ走るならさぞかしモモは肉付きも良かろうて。
一羽ぬっ殺せば当分喰いっぱぐれもあるまい。
さあ、来いよ、どうせ来るなら両足突っ込んで来やがれ!
◆
アドレナリンだだ漏れのまま期待した通りに羽ばたき音が響き、
岩石状の鱗にびっしりと覆われた褐色の強靭な両足が
窓と障子を蹴破ってきた。
ぶっつけ本番だがこれだけ近距離なら外すわけもない。
ボーラ(仮)を振り回し、巻き付けるようにその凶悪な足を封じる。
どうだ、日本製ストッキングの威力は。引き千切れんだろう?
予想外に動きを封じられた足に驚いたのだろう、
窓ガラス(日本製)の破片をまき散らしながら飛び込んできたその巨体は、
バランスを崩して目暗滅法に羽ばたき、
TV台を突き倒して黄色い羽毛が宙に舞う。
おいコラ!TV壊すんじゃねぇ!いくらしたと思ってる!
辺りを破壊して転げまわるそれは、
さながらトラックが部屋に飛び込んできたようなものだ。
チッ 対戦車ライフルなんぞ持ってないぞ、
シノ〇ならヘカートⅡぶん回せるのに!
このサイズ相手になぎなた(仮)では力不足だが
牽制くらいにはなるだろう。
鳥とは言えここまでデカイと大動物だ。
何にせよ腹狙いは無いな。
頭と首元、この二択だ。
出来れば頸動脈を一気にいきたいが、
自分は不慣れなか弱い主婦に過ぎない。
高望みはせずに堅実にいく。
足はすでに抑えた。
暴れまわる化鳥も足を封じられては攻撃力がぐんと下がる。
家具を引き倒しながら転げまわる巨体の、ダチョウの様な長い首。
その頭部を狙う。
厄介なのは翼と嘴。
薙ぎ切りたいところだが、
イカ割きでは突くのが精いっぱいだろう。
手羽元から首の間を狙い、渾身の一撃を。
げ、この羽根、滑りやがる!
必要以上の防御力だな、オイ。
全力で踏み込んだ身体は伸び切っている、
隙だらけだ。
当然だろう、戦闘経験などありはしないのだから。
繰り出したなぎなた(仮)を即座に引き戻さなければ。
そう、頭では、分かっている。
だが身体が 動きが 理想の動線をなぞれない。
ヤツはその長い首を器用にくねらせ
首元に伸び切ったなぎなた(仮)に噛みつき振り回す。
体勢の崩れた私は、踏ん張ることが出来ない。
くっ そおおおおおおおおおっ!
なぎなた(仮)を圧し折られた勢いのまま、箪笥に叩きつけられる。
カハッ
背を直撃した。
仰け反った反射にえずき、堪らず前へと倒れ込む。
間髪を入れずに迫る、嘴。
「最も危機的状況に立たされてる時こそ
しっかり目は開けておけ」
と言ったのは Jane〇 Ⅴth の艦長だった。
霞みそうな眼を、こじ開ける。
眼前に、迫るのは
猛禽類特有の鍵状の黄色い嘴。
世界を飲むほどに大きく上下に広がって、
丸太の様な舌が覗く。
てらてらと艶やかな、暗いピンク色のそれが
人の頭など丸のみにするべく
喉の奥まで大きく広げて
私の頭に喰らいつき。
クェァッ
閉じることが出来ずにいる。
けっ ざまァ見やがれ。
それがステンレスボウル(日本製)だ。
料理に良し
兜に良し
叩けば楽器にも良しの三方良しだ。
しかも呆れるほど頑丈。
おめぇ、口閉じらんねぇだろ?
こちらは逆に唇の端を吊上げつつ、
雑誌とボウルを頭に固定した紐を切った。
どんな生き物だって眼球と口の中は鍛えられない。
クジャクの様なだみ声で喚き散らすその口には
開けたタバスコを瓶ごと放り込み、
睨み付けるその眼にはキッチンハイター(原液)をぶちまけた。
火でも吹くんじゃないかという勢いで暴れまわった化鳥の頭部に
防水スプレーをこれでもかと吹きかける。
のたうち始めたところを
まな板(重量級)で力の限り連続殴打する。
脳震盪を狙って徹底的にぼこる。
ふうと粗い息をつき、全体を見渡してみれば
ぴくぴくと痙攣してはいるものの、意識は刈り取れたようだ。理想的である。
これこそ主婦のCQCだ。
まさか初戦でここまで善戦できるとは思わなかった。
だが甘く見て調子に乗らないように自重する。
次もこうだとは限らない。
◆
漬物樽(100型)を庭に設置して窓から出した化鳥の頭部を放り込む。
吊るせれば良かったのだが
引きずることさえ出来ないのだから仕方がない。
ホースも入れて先を道路の側溝へと流す。
そこまで準備してから作業開始だ。
まずは頸動脈っぽいところにアタリを付けて出刃を叩き込む。
羽根の滑りさえ気を付ければ
こんなものはちょっと大きな魚をさばくのと大して変わらない。
素っ首落としてしまえばどうにでもなる。
折角心臓を止めずに沈めたというのに
思ったほど勢いよくは流れ出ない血にいらいらする。
(臭いで他のが表れないとは言い切れない)
だが血抜きは済ませなければ特有の臭みが出る。
ホースの先端に口をつけて途中まで血を導き
(さすがに口にまでは吸いこまない)
サイフォンの原理で側溝へ流した。
あとで風呂水を流して消臭剤もぶちまけておこう。
鶏サイズなら湯に漬けて毛穴を開くと楽にできるらしいが、
この巨体を漬けられるだけの設備も無ければ力もない。
あきらめて地道に羽根を毟る。
軍手をはめて、生えている方向に逆らわず引き抜いていく。
この向きをいい加減にすると軸が折れて肉の中に残り食べるときに難儀するそうだ。
毟る、
とにかく毟る、
ひたすらに毟っていく。
70Lのごみ袋を用意したが
鮮やかな黄色い羽毛でみるみる膨らんでいく。
ダウンにしたら暖かそうだな。
どこかで加工できんだろうか。
毟る
ばりばり毟る
終わらない。飽きてきた。
生臭さが漂っている。
メジロが落ち着きなくわなないている。
心配しなくてもお前は食べないよ。
罰金100万も懲役刑もごめんだ。
ウチには金がない。
精神を無にして羽毛を毟り続けてどれくらい経っただろう。
身じろぐメジロを胸から出す。
ぢぢゅいっ と一声鳴いて羽ばたき箪笥の上へ飛び立つ。
こう生臭くてはミカンも食べないだろう。
一応用意してはいたのだが目も向けてくれない。
しかし身を隠すこともない。
何故だろう、これだけ凄惨な情景が広がっているのに
おびえた様子もなく、化鳥を見下ろしている。
何かがおかしい。
◆
つい とメジロが外に目を向ける。
相変わらず風もなく音もない世界でうっすらと空が明らんできた。
家々の輪郭が浮かび上がり、心待ちにした夜明けがおとずれる。
徐々に朱と橙を帯びる東の空。
安堵と共に見晴るかせば一陣の風が舞い込み化鳥の生臭さを祓う。
疲れた。
本当に長い一晩だった。
生き延びたことを漸く噛みしめる。
見上げれば未知なる大陸は未だに天を覆い、
現世へ帰還できるかは分からない。
だがこの世界にも陽は昇る。
かの大陸は昨夕の美を取り戻し、曙光はあまねく大地を照らしたもう。
自然と涙が流れ崇高なる太陽に頭を下げていた。
世界を 照らして下さって 温めて下さって 有難うございます。
こころからの感謝を。
まっさらな心で感謝を捧げていると
一条の陽の光を受けてメジロが空高く飛び立った。
輝くその姿は光に溶けて微小な粒子と化し風に舞う。
様々な光に彩られた輝く粒子は笑いさざめき世界に広がる。
やはり別物であったか。
私が巻き込んだのではなく、
あちらが巻き込んだのだ。
人外の事情は分からないが
嬉しそうで何よりだ。
もしやあの黄色いヤツの捕食対象はメジロ(仮)氏だったのかね?
粒子が跳ね 色とりどりに柔らかな光が舞い踊る。
風に
枝先に
ほころぶ蕾に
指先に
宙に
水に
歓喜に震える
世界は こんなに美しいと。
光が 音が 歌が
見渡す限りの一面に響いた。
それはあまりにも甘美で荘厳な
荘厳な
◆◆◆
荘厳な swordland
(ソードアート・オンラ〇ン テーマ曲)が部屋に響き渡る。
この曲は最終デッドラインを表す
遅刻ギリである。
家事をする時間なんぞあるわけがない。
元より洗濯機はストライキ中だ。
残り物で朝食を掻っ込み、
化粧する時間も取れないので、
スッピンにマスク装着で世間の目をごまかし
凍える朝に踏み出すことになる。
それにしても本来の起床時刻には
チョコ〇のテーマ(最終的なファンタジーシリーズ)が
軽やかに鳴っていたはずだが
全く記憶にない
あの闇の中をすっとぼけたアイツらが追い立ててきたのかと思うと無性に腹が立つ。
しかも毟ったし。
私はゲームが出来ないのに。
やったこともないのになぜヤツらは
わざわざ人の夢にまで入り込んで爆走してくるのか?
そんなにしてまで走りたいのか?
・・・アラーム音に設定したのは私だが。
次はスラッ〇渓谷の朝
(ラピ◦タで主人公が吹いてたトランペット曲)にしようと思う。
ともあれ、異様に美しい光景と恐ろしい夜を味わったわけだが。
楽しかろうが恐ろしかろうが、
現実の問題を解決するために我が脳細胞とシナプスが
埃のかぶった頭の中をひっくり返して示してくれた情報という可能性はある。
解法のヒントが隠されている・・かもしれない。
今抱えている喫緊の悩みは3つある。
1水道管凍結
2金がない
3五十肩がツライ
困った。
あの夢のどこが指針になるのか卑小な私には全く分からない。
これはもう、続編が見られるかどうか、
あの空を写真に撮れるのかどうか、
夢の次回作に期待するしかないではないか。
◆後書きに代えて現実世界でのその後◆
水道管に関しては、
百均に駆け込み梱包用エアクッションとビニールテープを購入。
こたつで寝ころんだ家族の男性陣がまるで役に立たないので
寒風吹きすさぶ中、自力で厳重に水道管をマミりました。
今朝の洗濯機は快調です。
二階の納戸に関しては
男性陣の私物を優先的に処分してやろうと企んでおります。
いつまでもこたつでまどろんでいるが良い。
今に見ておれ。うふふふふ。
金がないのは仕様です。
頑張って働いています。
五十肩に関しては
晴れてリハビリに入ることが出来ました。
まだまだ先は長いですが無理をしない程度に頑張ります。
大型まな板で巨鳥をボコれるくらいにはなりたいと思います。