8
遅れながら、僕が槍を持っていくと、既に戦う場所は整えられていた。小屋の前の開けた場所。脇にはエリとシロハが座っており、観戦する準備は万全のようだ。
「ちょっとそこで待っといてくれんか」
言われた通り、広場の端に立ち、槍の布鞘を解いた。シュリは小屋の壁に歩み寄ると、そこに立てかけられていた、一本の棒を手に取った。そのまま広場へ戻ってくる。
僕と反対側の広場の端に、シュリが立った。距離は長い。十五歩程度。
「儂はこの通り老いぼれじゃからの。リンさんから来てくれい」
シュリがしわがれた声を出す。その手には――。
「いえ、ですがそれは……」
本当に、ただの棒だ。どう見ても槍ではなく、或いは武器として造られたものでもない。何かのつっかえ棒、といった風情。
「大丈夫じゃ。ほれ、さっさと来ぃ」
これでは殺してもらえないではないか、と内心で溜息を吐く。仕方なく槍を上段に構えると、シュリも棒を。
――まるで槍の如く。
構えた。
死ぬ。
そう思った。
息ができない。
瞬きできない。
足は一歩と動かない。
どうして?
シュリは。
静かに笑って、棒を構えているだけ。
いや、ちがう。
長い――長い「槍」だ。僕の身長の倍はあるか。
僕の間合いは、無に等しい。
彼の間合いは、無限に等しい。
まったく勝利の未来が見えない。
既にして僕は敗けているのだから……。
喉元に、刃を突き付けられている感覚。実力差など、考えるまでもない。
何故、気づかなかった?
これほどの達人を前に。
だが……。
これほどの好機はない。
どんな動きをしようと。
どんな逃走をしようと。
どんな沈黙をしようと。
確実に、僕は殺される。
やっと、命令に従える。
シュリの姿を見つめる、否、見つめられない。
本当にこの世に存在しているのか、あれは。
陽炎を相手にしているよう。
槍を握り直す。構えは中段へ。
足を前へ滑らせ――
「槍」が、僕の眉間に当たった。
こちらの槍は相手の柄で抑え込まれている。押しても引いても動かない。
強すぎる。
僕は敗けた。
「中々の腕前じゃった。だが……」
シュリが口を開く。さっさと僕を殺してくれないものか。
「最後。お前さん、何をするつもりじゃった?」
「何、と言われましても」
すうっと、身体が軽くなる。シュリが「槍」を引いたのだ。
「……まあ良い。君はまだ若い。大成の器じゃ」
「いえ、あの」
「まったく、エリもなかなか男を見る目があるようじゃな……」
「だからそうじゃないって、お爺ちゃん!」
シュリは棒を担いで、元あった場所に戻した。エリが彼になにやら言い募っているのが見える。
「すいません、僕を……」
僕は声をかけたが、気づいてもらえない。
「それで、リンさんの腕はどうだったの?」
「かなりのものではある。まあ儂から見ればまだまだ未熟じゃが……」
「それ、ゴブリン三体を一瞬で倒せるくらいの強さ?」
「まあ、その程度なら楽勝じゃろうな」
「ふーん……」
何を話しているのか知らないが、僕の話も聞いてくれないものだろうか。
シロハがこちらに駆け寄ってきて、僕の手を取った。
「おにいちゃん、まけちゃったね!」
「はい、敗けました。ですが……」
「でもおにいちゃん、強かったよ!」
「いえ、弱いから敗けたのでは」
「だいじょうぶだいじょうぶ。おじいちゃんが強すぎるだけなんだから」
「……すみません、分かりません」
そんなことより、早く僕を殺してもらいたいのだが。そう思って顔を上げると、シュリとエリはもう、小屋の中に入ってしまっていた。どうやら彼に僕を殺す気はないらしい。シュリはそれで良いかもしれないが、こちらは困る。
何故だろう? 彼ならば、歩くより易く僕を殺せるだろうに……。
小屋に戻ると、シュリの姿はもうなかった。少し疲れたから休む、とのこと。エリが教えてくれた。
「どう、お爺ちゃんは。強かったでしょ?」
「はい。とても強かったです」
「……でも。リンさんも強いって、お爺ちゃん言ってましたから」
シュリもシロハと同じことを言っていたのか。どうして闘いに敗れた人間が強いことになるのか、よく分からない。
「そんなことはないと思いますが」
「いいえ。強いんですよ。もっと自信を持って下さい」
「そう言われましても」
「それでですね……、その」
エリは急に横を向いた。何かあるのかと思って彼女の視線を追うが、壁しかない。寝違えたのだろうか。
「はい、なんでしょうか」
「私、リンさんに、あのですね」
エリは横を向いたまま、更に俯く。今度こそ何かあるのかと思ったが、彼女が見ているのはただの床。シロハも不思議そうに彼女を見上げている。
エリはようやく顔を上げて、正面を向いた。つまり、僕と眼を合わせた。
「謝罪しなければいけないと、そう思いまして……」
「はい?」
「その、これまで色々と無礼を働きまして、本当にごめんなさい……」
エリはそのまま、深々と頭を下げた。僕は慌てて、
「え、あの、ちょっと待って下さい」
「なんでしょうか、お詫びとして何か……」
「いえ、そうではなく。とにかく顔を上げてください」
「赦して戴けるんですか?」
「赦すも赦さないも、あの、エリさんは何を謝られているんですか? 僕にはその心当たりがないのですが……」
「ですから、組合で私がとった無礼な態度について……」
無礼な態度。僕はエリに何か無礼なことをされただろうか。記憶を辿るが、全く思い当たらない。むしろ僕の方が、彼女に迷惑をかけている。僕から彼女に感謝なり謝罪なりする道理はあれど、彼女が僕に謝る理由など、何一つとしてないように思える。
そう、エリに伝えた。
「でも、でも……、私のせいでリンさんは初級になってしまいましたし」
「別に気にしていません」
「こんな、リンさんを試すような真似もしましたし」
「むしろ僕がお礼を言わせてください」
「ですが……、私は」
エリは俯いて、肩を震わせた。寒いのだろうか。どうしましたか、と声をかけようとして、
「私は、こんな……」
エリは不意に横を向き、指でその長い横髪を分けた。現れたのは、今まで隠されてきた、彼女の耳だ。彼女の肌と同じ、白い耳。
先端の尖った、長い耳。
珍しい耳の形だな、と感じる。少なくとも、僕は初めて見た。
「こんな、魔法も使えない劣等エルフなのに……」
そう言って、エリは奇妙な表情をつくった。
どうしたのだろう、と見ていると、彼女は更に顔を歪ませて、そして。
エリは泣いていた。
肩を震わせて、顔を覆って、机に突っ伏して。声も上げず、彼女は泣いた。
「おにいちゃん、エリおねえちゃんに、なにしたの?」
シロハが不思議そうに、首を傾げて言う。
「分かりません。ですが、多分僕が悪いのだと思います。すみません」
「違うんです……、私が悪いの……」
それから暫くの間、エリは顔を上げなかった。
陽が傾く頃になって、彼女はやっと落ち着いた。シロハがお茶を入れて、三人でそれを飲んだ。静かな部屋に、お茶を啜る音だけが響いた。
「今日は、ありがとうございました」
エリが呟くように言う。
「いえ、僕の方こそ……。そろそろ、帰りますね」
「はい」
エリとシロハが見送ってくれた。
「おにいちゃん、またきてねー!」
「是非またいらして下さいね」
「分かりました」
来た道を戻る。樹々が陰になって、林の中は既に暗かった。