第四夜 玄硝子の夜
最後の夜です。
全てを内包する玄。玄く耀く夜の詩をどうぞ。
夜は女だ。
長い黒髪の、朱い唇をした処女だ。
夜風に混じる甘い汗の匂い。湿った白粉の微かな香り。宵闇色の衣を翻して舞う天女だ。
見よ、海中より出でし月は、血を啜ってぶよぶよに太った赤い球体だ。夜風に吹かれて表面を揺らし、眺めるこころを狂わせる。
天空の高みへと昇る度、涙を流して青くなり、乾いて小さく縮んだ月は、蒼褪めた夜の銀鏡だ。ぴかぴか光った面では、光が弾んで総てを映す。
白い手が伸びる。月鏡を抱いて黒い天使が踊る。
処女よ鏡を御覧。おまえの瞳は春の闇、おまえの涙は銀の鈴。誰を懸想て日を過ごす。長いながいおまえの髪は、思いの丈ほど永くなる。
紺碧の天幕に硝子衛星を摑み、硝子細工の天使が夜の処女に手を差し伸べる。天使の瞳は凍えた硝子玉。髪も翼も鋼と光り、朱い唇が冷笑を刻む。
夜は硝子細工の処女だ。
夜は優しい女神だ。人も獣も、魔性のものさえ平等に包んでくれる。
硝子の触れ合う音がして、黒の翼を処女が抱く。切ないほどに甘い吐息は氷の眼さえ曇らせる。
夜は我等の時間だ。光から顔を背け、けれどなお陽を恋う妖のものだ。黒き翼の焦がれる世界だ。
それは因果律。
それは色のない街。
それは音のない夢。
それは歪んだ時計。
水に堕ちた時間。動きもせず、滞りもせぬ。
夜の周りで星々が踊り、夜の狭間で天使が踊る。細い指を絡ませて、玄の硝子に接吻する。
鮮やかな、それはひかり、ではなく。
こころ。
闇の眼。
黒き炎。
風の音にも似た叫びが時間を揺すり、おまえは肩を抱いてうずくまった。
翼が軋み夜も軋む。
刹那、夜が呼吸を停めて。
闇の翼が天の一角を指し。
世界は黒曜石に閉ざされた。
それは世界の心臓。
恐怖と憎悪のかたち、
ではなく。
高貴なる魂。
ゆめ、ではなく。不安定な精神。
天使は踊らない。
微笑まない。
立ちすくんだまま、眼を天界へ向ける。
そして、
泣き叫ぶのだ。硝子の夜を叩き壊さんばかりに。鋼の翼を鮮血で濡らし、硝子の指で生命を容易く手折るおまえが。
血を吐く程に哀しい声で泣き叫ぶ。置き去りにされた子供のように、毀れるはずもない闇色硝子に拳を振り上げる。
何故さしのべられた手を振り払う。
何故愛の言葉に耳を塞ぐ。
哀しい。
淋しい。
愛しい。
これは――わたしだ。
凍えたこころだ。
カラカラ乾いた音をたてて墜ちていく、胸の中で凍った涙。
それは同じもの。
異質な、けれど何処かで等しい想い。
二重螺旋を描きながらひとつになろうとしている、相反するものたち。
これはおまえ、そしてわたし。聖なる魔、且つ魔なる聖たる翼。高みへと昇りながら堕ちゆく光だ。
不協和音。
これがわたしだ。こんなにも恋焦がれているのに気づかずにいた愚か者だ。
一つの型からうまれた蝋人形ではなく。
二つに裂かれたこころのように、つがいで一羽の鳥のように。惹かれ合い求め合う。だからこそ世界は不安定なまま安定しているのだ。だからこそ世界は廻り続けるのだ。
夜泣鳥が泣き出した。
御覧、月があんなにも傾いた。夜は知らぬ間に瞼を閉じて、顔を覆ってしまうだろう。
朝の光を導くために、金剛石を残したままで。
眠れや天使。時間を再び動かすために。
眠れや夜よ。天地を正しく導くために。
流れゆく時のほとりで。
どこかで歯車の噛み合う音がして、忘却の鐘が鳴り始めた。
わたしは翼を閉じる。
おまえは瞼を閉じる。
西の天低く血色月。東の窓辺に暁の明星。天の天秤を支える塔は、一角獣の螺旋角。
夜の腕の揺り籠で、闇色硝子に閉ざされて、夢もみないでおまえは眠れ。玄の硝子は光に消える。硝子のこころは翼に還る。
わたしが私に還り、私は目を覚ます。
そして。
振動。
同調。
――共鳴。
その瞬間、
闇色硝子が粉々に砕け散った。
破片一つひとつが、光を奏で音を弾き、唄いだす。あたかも音匣が懐かしい曲を奏でるように。
夜はすべてを見届けて、宵闇色の衣を翻して去っていく。
一度だけ振り向いた彼女の優しさ、に。
報いられないもどかしさ。懸想文に結び、刹那指を絡めて接吻する。
それは丸齧りの檸檬。
一条の光が道を伸ばす頃には失せてしまう。夜の吐息、朝の真珠に過ぎぬ。
それでも。
想いだけは受け取って、硝子の中できらきら光を奏でだす。ひかりの底で眠る影を唄いだす。
それは、始めもなく終わりもない唄。寄せては返す波のこえ。
わたしが夢をみるように、硝子の螺旋を紡ぎつつ、私はいつまでも繰り返す。
子守唄のように、異国の言葉の恋唄のように。
いつまでも唄いつづける。
ここにいて
そばにいて
わたしの傍に――
夜はいつか明けます。
けれど、いつかまた夜は来る。
必ず。