第二夜 水硝子の夜
雫が踊り流れる、雨の夜の詩。
夕刻が近づくにつれ、風が強くなってきた。
南西の雲が低く流れてくる。昼間の灼熱の太陽に融けたアスファルト、それがまだ足の裏を焦がした。
乾いた大気に水の匂い。
日没。
朱い大気が微かに震え、風の一吹きで青を帯びる。黒雲が空を押し潰し、稲妻が天を切り裂く。
一滴。
きた。
熱い南風。あたたかな雨。
黒南風が雨を運んできた。
雨が髪を濡らした。
くすくすと笑う。
雨がすこし強くなる。
水銀灯が灯った。足元に光の環ができる。
夜。
あやかしども、出ておいで。
――静寂。
雨を怖がるあやかし共は、今夜は寝入っているようだ。
出ておいで、水の同胞。水硝子の夜だ。
人影なく揺れるブランコ、雨に崩れる砂の城。置き忘れられた玩具たちが雨に打たれて泣いていた。
私の中でわたしが身動きした。
あめ。
目を醒ます。雨に打たれて嬌声をあげる。
水に親しいあやかし共が、雨粒とともに踊りだす。
わたしが笑う。
街灯は瞬く。
あやかし共は踊る。
雨が降る。激しく叩きつける。
ほら、人間が走って帰っていく。
風が吹きつける。花が散る。
わたしが笑う。雨中を踊るように歩く。
焦げたアスファルトの冷える臭い。
女性が一人、赤いハイヒールを片手に裸足で歩いていく。踊るような足取りで、雨に濡れて微笑いながら。
彼女を見送るわたしも笑う。髪から水滴を振り撒きながら。あやかし共がわたしの周りで飛び跳ねる。
銀色に煙る水銀灯。
痩せ細った仔猫が軒下でないている。
強過ぎたしろつめくさの匂いもこの雨で落ち着いて、やわらかくわたしの身体にまといつく。
裸足で若草を踏みしだく快感。素肌を流れ落ちる雨粒は、まとわりつく青紗。長い髪は鴉の濡れ羽色。夜の闇を編み込んで。
あやかし共が笑う。
わたしは魔聖の翼をひらく。雨の雫が零れ落ち、黒い翼は濡れずに濡れた。
くすくすくす
一角獣が真珠の角をすり寄せて来る。
おまえは笑いながら、水硝子の世界を駆け巡る。
融けたアスファルトの固まる音。雨が地面を叩き、黒南風が若葉をむしる。夜をあんまり揺するので、水硝子の世界は不安定に揺れた。
遊び疲れたおまえ。滴り落ちる水滴は、汗か、雨か。
それとも、同じ。
一杯の檸檬水。
そう思ったら、あやかし共が振舞っていたのは夢のエキスだった。
月輝石のグラスに口をつけて一息に飲み干す。甘酸っぱい液体が喉の奥まで滑り落ち、冷たいそれは、熱いわたしの唇を冷ました。
わたしが笑う。あやかし共も笑う。
グラスを掲げて天からの水を受ける。水のあやかし共もわたしに倣う。
水硝子の降る夜わたしは歩く。
水硝子の真夜中わたしは泳ぐ。
笑いながら、さざめきながら。
おいで、我が同胞よ。湖の上でダンスしよう。
音もなく、気配もなく。滑るように、踊りながら。
雨が降る。天のこころが降る。
黒い翼をしっとり濡らし、わたしは翼をたたんで歩く。
わたしは笑う。雨で顔を濡らして。
笑いながら泣く。天を仰いで泣く。頬を流れゆく雨滴の熱さ、抑えきれない感情の高ぶり、それらに怯え、戸惑いながら。
泣いている。
水硝子の中で、膝を抱えてうずくまる。我と我が身を抱き締めて。
何が哀しいのか判らない。ただ切なさに泣いている。
雨よ、雨。わたしの心を冷ましておくれ。わたしの肉体を溶かしておくれ。
水のあやかしが風のあやかしと手をとりあい、わたしの周りで踊っている。踊りながら笑う。笑いながら泣く。
軽やかに踊っている。泣きながら、笑いながら。
水硝子の夜の底で。うずくまっている、わたし。眠れないまま息を潜めて、不思議な夢を見る。
ゆめを、みている。
――あ、
水のあやかしが揺れた。
風のあやかしが凍りつく。
刹那、
月光が魔鏡を貫く。
消える。
悲鳴をあげる暇もなく。
夢が醒めた。
わたしは眠りにつく。
私が目を覚ます。
一瞬の光を、夜の底に留めたまま。
――水硝子の夜に。
しとしとと降り続ける、雨の夜に。
雷鳴鳴り響き家鳴り震動する豪雨の夜の話ではないです。