初めまして。
「ここで、最新の治療を受けられるって聞いたんですけど――」
『記憶削除のことでしょうか』
「記憶、削除……?」
『忘れたいんでしょう? 恋人と別れた事を』
「えっ でも……、ここって精神科じゃ?」
『そんな事、どうだっていいんですよ』
◇◇◇
昨日、彼と別れた。
あんなに仲が良かったのに。あんなに幸せだったのに。
事の始まりは、たった一つの小さなピアス。彼の部屋のベッドの下で、儚げに光っていた。
「誰のよ、これ?」
どう見たって、あたしのじゃない。
「……なんだよ、これ」
知らない、と言い張る彼は嘘くさい。浮気してたんだ。
「別にいいんじゃない? 悠斗、モテるものね。あたしなんかじゃ物足りないんだ」
ちょっと嫌味を言ってみた。ホントはずっと心配だったんだ、悠斗は本当にモテるから。
「んなこと言ってねーだろ!」
荒々しい声を上げて、彼がピアスをゴミ箱に放り込む。
「じゃあ何なのよッ!」
ついあたしも、甲高い声を上げてしまった。
「だから 知らねぇつってんだろ」
彼はそう言い捨てると、諦めたようにベッドの端に座り込んだ。
買ってきたばかりのコンビニ弁当が、まだ湯気を立てている。ついさっきまで、手をつないで買い物してたのに。
あたしはコンビニ弁当が食べられない。とくにこの『本格パスタ定食』っていうのはどうしてもダメ。小さい頃にこのお弁当を食べて吐き気がしたのが忘れられなくて、実は今でも匂いを嗅ぐのも辛い。
ところが彼はこのお弁当が一番好きみたいで、近所のコンビニに行くといつもこれを買う。
でもそんなところも含めて全部、あたしは彼が好きなはずなのに。
「本当に、知らないの?」
あたしがそう訊いたのは、ずいぶん時が経ってしまったあとだった。
気まずい雰囲気の中、どちらも何も言い出せずに しばらくの間黙り込んでいた。
「俺が信じられないか?」
「そうじゃないけど……」
彼はベッドに腰をかけたまま、上半身だけ倒して天井を仰いでいる。
「なあ。お前、本当に俺のことが好きか?」
一瞬、全身の血がさーっと引いた気がした。どうしてそんなことを訊くんだろう。
「ねぇ、まさか――」
次の言葉を言い出す前に、彼が口を開いた。
「別れよう」
あたしを遮るように言い切った彼は、もうあたしの知っている悠斗じゃなかった。
「……うん」
◇◇◇
あの時、どうしてあたしは頷いてしまったんだろう。どうして素直に頷くことができたんだろう。
――どうしてあたしたちは、別れてしまったんだろう。
後悔するのは、今でも彼を好きだからで。でも、あたしは彼を切り離したという事実は変えられなくて。
その末に、あたしはここに辿り着いた。
『さて、どのように致しましょう?』
紹介された医師の前で、あたしは黙っていた。
あそこなら、最新の治療を受けられる。君の心の傷を、きっと消し去ってくれるよ。
そう言ったのは、初めてかかった精神科の先生だった。
なにも失恋で精神科にかかることはないけれど、この想いをとにかく誰かに聞いてもらいたかった。
友達じゃイヤ。のろけでしょ、ってバカにするし、悠斗を狙ってる女友達もたくさんいた。彼を狙うチャンスだなんて、絶対に思われたくないから。
家族にだって、今さら話すような問題じゃない。
カウンセリングなんて受けるほど、重大な問題でもない。
……精神科の先生なら、ゆっくり話を聞いてくれるかも。
精神科からの紹介だから、当然 精神科医が出てくるものだと思ってた。
それなのに。
『彼女は私の友人なんですよ』
紹介されたのは脳科学の科学者のような研究者のような、まあどちらだって良いけど そんな人だった。
『はい、この装置をかぶって』
言われるが先か出てくるが先か、いきなり見慣れないモノを頭にかぶせられた。
「何ですか、これ……!?」
戸惑うあたしを横目に見ながら、その人は淡々と説明する。
『アナタの記憶を消し去るのです。イヤなこと、辛いこと、楽しいこと、嬉しいこと――』
「そんなの困りますッ!」
思わず叫んでしまった。すべての記憶が消え去ってしまうなんて聞いてない。
「あたしが消してほしいのは、彼の事と彼についての辛い記憶だけです!」
せめて幸せな思い出は、残しておいてほしいのに……。
『お嬢さん、そんな都合の良いことはできませんよ』
「えっ」
『そんなことのために、この装置を乱用してほしくないですから』
確かに、便利すぎるのは良くないけど。
「でも……、今までの記憶が無くちゃ、生きていけないじゃない」
『それは心配ないですよ。この装置によって記憶が消されたという事と、生きていくために必要な基本的な知識は残せますから』
「……お願いします」
◇◇◇
お腹が空いた。
最近、近所のコンビニの『本格パスタ定食』にハマっている。
レジで温めてもらって、いい香りを嗅ぎながら家に帰るのが好き。アツアツのうちに食べるのが好き。
さっき財布を探しているときに、レジの男の人に話しかけられた。
「キミ、いつもこれ買っていくよね。そんなに好きなの?」
「うん。大好き」
同い年くらいに見えたのか、それとも本当に同い年なのか、彼は気さくに話しかけてくれた。
黙っていてもかっこいい人だった。それでいて笑顔も魅力的で、そのギャップに惚れ惚れした。
だけどそれ以後、彼はコンビニから姿を消し、逢うことはなくなった。
―― もう一度、彼に逢いたい。
気づけばそう思っていることが多くなった。ろくな話をしたワケじゃないけど、彼の何を知ってるってワケじゃないけど、とにかくそう思う自分がいる。
「すいませんっ。ちょっとごめんなさい」
大学からの帰り道。人の波をかき分けて、ホームを走る。ブザーが鳴っている。早くしないと発車してしまう。
「あー、待って!」
ギリギリのところで電車に滑り込んだ。もうドアは閉まりかけていたかもしれない。
<駆け込み乗車は おやめください>
車掌さんのアナウンスに、なんだか申し訳なくて 一人でこっそり頭を下げる。
隣でクスッと笑う声が聞こえた。
……もしかして、見られてたのかも。そう思って頭を上げるよりも先に、彼に声をかけられた。
「ねえキミ、どっかで会ったよね?」
「あ……!」
何も言えずにポカンと見つめるあたしを見て、また彼は笑った。
「覚えてないの? ほら、あのときの――」
忘れるはずがない。ずっと探していたんだもの。彼はあのときの……!
「コンビニ!」
ふたり同時に口にして、思わず吹き出してしまった。
「ずっと会いたいと思ってたんだ」
笑ったままのあたしの耳に、ちょっと照れたような声が響く。
「あたしも」
「あらためて、初めまして。俺、高橋 悠斗」
あ、ほら。あたしの好きな笑顔。
「実は俺さ、ちょっと前に記憶を消し去ったんだ……」
連載の息抜きに、不思議なお話を書いてみました。




