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初めまして。

作者: 奈胡
掲載日:2008/07/19

「ここで、最新の治療を受けられるって聞いたんですけど――」


『記憶削除のことでしょうか』


「記憶、削除……?」


『忘れたいんでしょう? 恋人と別れた事を』


「えっ でも……、ここって精神科じゃ?」


『そんな事、どうだっていいんですよ』



   ◇◇◇



 昨日、彼と別れた。

あんなに仲が良かったのに。あんなに幸せだったのに。


 事の始まりは、たった一つの小さなピアス。彼の部屋のベッドの下で、儚げに光っていた。

「誰のよ、これ?」

どう見たって、あたしのじゃない。

「……なんだよ、これ」

知らない、と言い張る彼は嘘くさい。浮気してたんだ。

「別にいいんじゃない? 悠斗、モテるものね。あたしなんかじゃ物足りないんだ」

ちょっと嫌味を言ってみた。ホントはずっと心配だったんだ、悠斗は本当にモテるから。

「んなこと言ってねーだろ!」

荒々しい声を上げて、彼がピアスをゴミ箱に放り込む。

「じゃあ何なのよッ!」

ついあたしも、甲高い声を上げてしまった。

「だから 知らねぇつってんだろ」

彼はそう言い捨てると、諦めたようにベッドの端に座り込んだ。

 買ってきたばかりのコンビニ弁当が、まだ湯気を立てている。ついさっきまで、手をつないで買い物してたのに。

 あたしはコンビニ弁当が食べられない。とくにこの『本格パスタ定食』っていうのはどうしてもダメ。小さい頃にこのお弁当を食べて吐き気がしたのが忘れられなくて、実は今でも匂いを嗅ぐのも辛い。

 ところが彼はこのお弁当が一番好きみたいで、近所のコンビニに行くといつもこれを買う。

でもそんなところも含めて全部、あたしは彼が好きなはずなのに。


「本当に、知らないの?」

 あたしがそう訊いたのは、ずいぶん時が経ってしまったあとだった。

気まずい雰囲気の中、どちらも何も言い出せずに しばらくの間黙り込んでいた。

「俺が信じられないか?」

「そうじゃないけど……」

彼はベッドに腰をかけたまま、上半身だけ倒して天井を仰いでいる。

「なあ。お前、本当に俺のことが好きか?」

一瞬、全身の血がさーっと引いた気がした。どうしてそんなことを訊くんだろう。

「ねぇ、まさか――」

次の言葉を言い出す前に、彼が口を開いた。

「別れよう」

あたしを遮るように言い切った彼は、もうあたしの知っている悠斗じゃなかった。


「……うん」



 ◇◇◇



 あの時、どうしてあたしは頷いてしまったんだろう。どうして素直に頷くことができたんだろう。

――どうしてあたしたちは、別れてしまったんだろう。

後悔するのは、今でも彼を好きだからで。でも、あたしは彼を切り離したという事実は変えられなくて。

その末に、あたしはここに辿り着いた。


『さて、どのように致しましょう?』

 紹介された医師の前で、あたしは黙っていた。

あそこなら、最新の治療を受けられる。君の心の傷を、きっと消し去ってくれるよ。

そう言ったのは、初めてかかった精神科の先生だった。

 なにも失恋で精神科にかかることはないけれど、この想いをとにかく誰かに聞いてもらいたかった。

友達じゃイヤ。のろけでしょ、ってバカにするし、悠斗を狙ってる女友達もたくさんいた。彼を狙うチャンスだなんて、絶対に思われたくないから。

家族にだって、今さら話すような問題じゃない。

カウンセリングなんて受けるほど、重大な問題でもない。

……精神科の先生なら、ゆっくり話を聞いてくれるかも。


 精神科からの紹介だから、当然 精神科医が出てくるものだと思ってた。

それなのに。

『彼女は私の友人なんですよ』

紹介されたのは脳科学の科学者のような研究者のような、まあどちらだって良いけど そんな人だった。


『はい、この装置をかぶって』

 言われるが先か出てくるが先か、いきなり見慣れないモノを頭にかぶせられた。

「何ですか、これ……!?」

戸惑うあたしを横目に見ながら、その人は淡々と説明する。

『アナタの記憶を消し去るのです。イヤなこと、辛いこと、楽しいこと、嬉しいこと――』

「そんなの困りますッ!」

思わず叫んでしまった。すべての記憶が消え去ってしまうなんて聞いてない。

「あたしが消してほしいのは、彼の事と彼についての辛い記憶だけです!」

せめて幸せな思い出は、残しておいてほしいのに……。

『お嬢さん、そんな都合の良いことはできませんよ』

「えっ」

『そんなことのために、この装置を乱用してほしくないですから』

確かに、便利すぎるのは良くないけど。

「でも……、今までの記憶が無くちゃ、生きていけないじゃない」


『それは心配ないですよ。この装置によって記憶が消されたという事と、生きていくために必要な基本的な知識は残せますから』


「……お願いします」


 ◇◇◇



 お腹が空いた。

最近、近所のコンビニの『本格パスタ定食』にハマっている。

レジで温めてもらって、いい香りを嗅ぎながら家に帰るのが好き。アツアツのうちに食べるのが好き。

 さっき財布を探しているときに、レジの男の人に話しかけられた。

「キミ、いつもこれ買っていくよね。そんなに好きなの?」

「うん。大好き」

同い年くらいに見えたのか、それとも本当に同い年なのか、彼は気さくに話しかけてくれた。

黙っていてもかっこいい人だった。それでいて笑顔も魅力的で、そのギャップに惚れ惚れした。

 だけどそれ以後、彼はコンビニから姿を消し、逢うことはなくなった。


―― もう一度、彼に逢いたい。

 気づけばそう思っていることが多くなった。ろくな話をしたワケじゃないけど、彼の何を知ってるってワケじゃないけど、とにかくそう思う自分がいる。

「すいませんっ。ちょっとごめんなさい」

 大学からの帰り道。人の波をかき分けて、ホームを走る。ブザーが鳴っている。早くしないと発車してしまう。

「あー、待って!」

ギリギリのところで電車に滑り込んだ。もうドアは閉まりかけていたかもしれない。

<駆け込み乗車は おやめください>

車掌さんのアナウンスに、なんだか申し訳なくて 一人でこっそり頭を下げる。

 隣でクスッと笑う声が聞こえた。

……もしかして、見られてたのかも。そう思って頭を上げるよりも先に、彼に声をかけられた。

「ねえキミ、どっかで会ったよね?」

「あ……!」

何も言えずにポカンと見つめるあたしを見て、また彼は笑った。

「覚えてないの? ほら、あのときの――」

忘れるはずがない。ずっと探していたんだもの。彼はあのときの……!

「コンビニ!」

ふたり同時に口にして、思わず吹き出してしまった。

「ずっと会いたいと思ってたんだ」

笑ったままのあたしの耳に、ちょっと照れたような声が響く。

「あたしも」



「あらためて、初めまして。俺、高橋 悠斗」


あ、ほら。あたしの好きな笑顔。


「実は俺さ、ちょっと前に記憶を消し去ったんだ……」

連載の息抜きに、不思議なお話を書いてみました。

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