シリアルキラーと彼女の声
その日、作業場から起き上がった僕は、何を思ったかまだ闇に包まれた時間にシャワーを浴び始めて、ちょうど家と家の間から僕らをあざ笑うかのように出てきた太陽と共に、住み慣れた住宅街を歩くことにした。何を思ったか、などと振り返ってはみたものの、その理由は至極単純で、単にベッドから起き上がって作業場に入っていたから、日課であった「起きたら風呂に入る」という一連の流れを途切らせてしまっていたのだ。なるほど、道理で身が入らないわけだ、などと思いながら冷蔵庫を開けば、中は自分の預金通帳の残高といい勝負をするかと言わんばかりに何も入っておらず、危機感を感じたから近くの商店街まで買い物に出ることにした。そして、道半ばで気づいたんだ。商店街は今の時間は空いてなかったってね。本当に馬鹿みたい、というか、馬鹿そのものだった。
そんな馬鹿丸出し状態の僕でも、久々に見る朝焼けを内包したこの景色にはついうっとりとしてしまう。もうこの街に住み始めて十年以上は経ったはずだったが、こういう朝の景色はまだ数回しか見たことがない。ましてや、4月のこの時期のこの時間に外を歩いたのは、この街に越してきてから初めての経験だった。以前もっと田舎の方で生活していたときは、この時期に早起きして外を歩くこともあったし、学生時代にクラスメイトたちと課外学習をした時も、学校のルールを破ってこの時間に森の近くまで行って先生にバレないように部屋に戻ったりしたこともあった。でも、この都市に近い住宅街に越してきて一人で息をするようになってからは、一人で綺麗な空気を吸うことも、何人かで風の香りや景色を共有することも無くなっていた。そんなことを思い出していると、自分がまるでこの状況に寂しさを感じているかのような感覚に囚われてしまいそうになるから、僕はあの憎っくき太陽の美しさを、まるで偉い芸術の評論家にでもなったかのように褒め称えはじめてみる。そう、僕らが描く美しさというのは、自然そのものではなく加工されたものなんだと。それは自然状態をありのまま受け入れる姿勢ではない、と。そしてすぐに「この街に住む人間が言うセリフじゃないな」と自嘲気味に呟いて、自分の住むアパートの階段の一音一音を、下の方に向かって飛ばして行った。
思えば、かつて自分が物語を描き始めたのは、当時自分自身を突き動かしていたあの微熱のような感覚がそうさせたからだった。いや、僕の振り返りはつくづく自分勝手で傲慢だから、本当はもっとなにか理由があったのかもしれないけれど、そういうことにさせて欲しいと思う。当時の僕には咲と言う名前の彼女がいたが、これがまた何を考えているのかよくわからないヤツだった。付き合うことになっても感覚は彼氏彼女と言うより同性の友達という感覚だったし、最後の1年間は同棲もしていたものの、ほとんどルームシェアリングをしている友人に近いような生活を送っていたのだから。とは言っても、当時から詩やら音楽やら絵やらいろんな表現活動をやってみたくてがむしゃらに色々なことを試していた僕と、大学で心理学を専攻して諸芸術と心理との関わりを研究していた咲は、お互いの目標もあったためか割とお互いに不満なく上手くやって行っていたと思う。そんな中で、僕らは順調に大人になって行き、僕は表現者らしくフリーランスで仕事をしながらバイトをして生計を立て、咲は大学卒業後にスクールカウンセラーとして池袋の学校で勤務を始めた。そして一年後に、咲は今でも僕を悩ませているある問いを投げてきたのだ。
咲が別れ話を切り出したときのことは今でもよく覚えている。東京の女子大学生が線路に立ち入り、運転手は気付けづに電車を止めることができなかったなどと、テレビの向こう側で男性キャスターが喋っているときに、咲は
「ねえ、私たちって、今でもちゃんと、上手に生きていられるのかな」
僕はそれに答えることができなかったが、話の雰囲気で咲が何を言おうとしているのかを察していたのだと思う。そのまま、どちらがと言うわけでもなく話をまとめて、2日後に咲はこのアパートを出て行ってしまった。
今でも僕は、彼女が僕に何を言いたかったのかがちゃんと理解できないでいた。でも、一つだけわかっていたことはあった。僕も彼女も、この街が、この国が、この世界が、15~6歳くらいの感覚で生きている僕らには想像もつかないような硬さでそこに鎮座しているんだということ。そして、その大きな、巨大な壁はとても僕らが、例え死んでしまうほど大きな苦しみを抱えていたとしても、それを麻痺させてしまうほと強大な魔力で僕たち一人一人を捉えていたという紛れもない事実だった。
咲の言った通り、僕たちはもう生きていない、いや、生きていけないようにされてしまっているのかもしれないと思う。ただ、僕はそれでも、ここにこの文を書き残すことによって、自分が今ここで生きていたと言うことを世界に向けて証明していこうと思う。自己満足だ、とか、個人の制作であって意味などない、とか、まあそう言いたい人は言っておけばいいと思う。それも君たちが生きている証拠の一つになりうるかもしれないからね。
ともかく、僕はまだこの全てが手に届くくらい狭い部屋の片隅で、これからも君たちに駄文雑文を書き連ねて行こうと思う。残酷なくらいに現実は変えられないし、こういう仕方で、夢の中で咲を思い起こしたって生きている僕らにはなんの慰めにもなりはしない。でも、それでも僕は、いつかまた咲が新しい世界で生きていけるように、そして僕自身もこの地獄のような世界で生きていけるように、ただそれだけを祈り、そしてこのことを、誰よりも自分のためにこうやって記して行こうと思う。
もう一度、ただたった一度でも、彼女の笑う顔が見られるように。