第9話:素直な生徒
満月が暗闇に包まれた大通りを照らす中、一人の男は何かを探す様に街を練り歩いていた。
「リーカルよ……いったいどこに行ってしまったんだ……」
行方不明になった妻を探して、早四日。一向にその姿は無く、影さえも見つからない。
花屋を切り盛りしている少し太身の男性、バーラ・ニコルはふらつく足並みを無理やり動かし、大通りを歩く。妻が消えたこの大通りを。
バーラの顔はやつれ果て、まるで幽鬼のよう。当然だ、愛する妻が消えてから寝る時間を極限まで削って夜な夜な妻を探しているのだから。
「今日も……見つからなかったか……」
バーラは肩を落とし、自分の家に帰ろうと道を引き返す。誰もいない、誰もいなくなった家を目指して。
と、その時、頭上より、何かがバーラの頭頂部に降ってきた。バーラは反射的に、無意識的に頭に手をやり、触ってみると、それは”水”の様だった。
「雨か?」
ふとそう思い、空を見上げたその瞬間、空より顔を包めるほどの水の塊が飛来し、バーラの顔面に降り注いだ。
バーラはなんだこれはと、顔にかかった水を拭おうとするが、不思議なことに水は一向に顔から離れず、寧ろ纏わりついてきたのだ。息も出来ず、視界が曖昧になり、地面を転がる。必死に水を引きはがそうとするも、液体ゆえに掴むことすら出来ず、バーラの脳内はパニックに侵されていった。
そうして、徐々に意識が薄れていく中、バーラは忽然と理解した。自分は今、妻と同じように行方不明になろうとしている、と。妻は何者かに連れ攫われたのだ、と。そして、自分も……と。
◇
「おぉよしよし、君は甘えん坊ですねぇ」
大蛇化したままの鱗蛇がその鼻面を僕に押し付けてくる。まるで仕事したことを褒めてほしいと言わんばかりにだ。
そんな鱗蛇の固くザラつく表皮を撫でてやると、鱗蛇は気分良さげに目を細めた。巨大化縮小化を得るためにとある動物を『生物錬成』で配合したのですが、そのおまけにこの甘えがついてきて、この世界に来たばかりの時に抱いた、恐ろしく凶暴な印象は微塵も無くなってしまいました。
まぁ僕以外の人間ならより一層恐ろしいと感じると思いますけどね。
「クエァー」
「おや?」
蛇鱗と戯れていると、通路の先の方から大の大人が二人は乗れるだろう巨大な、鷹を彷彿とさせる鳥が何か大きなモノを足で掴みながら飛翔してきた。体毛と翼は真っ黒で、鋭い眼光はまるで煌く宝石の様な輝きを携えている。
「ビーグルですか、『収穫』は上手くいったようですねぇ」
ビーグルと呼ばれた巨鳥は返事をする様にクエーと鳴き、その鋭い鉤爪でがっしりと掴んでいる少し太った男性を地面に下した。と同時にビーグルの背中から水の塊が意志を持っているかのように飛び上がり、ソージに迫る。
「はい、ウィグウォータもお疲れ様です」
ソージは一切冷静を崩さず、大きめの瓶を取り出すと、するするとウィグウォータと呼ばれた水塊は瓶の中に収まっていった。傍から見れば、ただの透明な水が満たされた瓶に見える。しかし、その中身は凶悪な狂人が生み出した魔物だ。
「リーカルさんは先日壊れてしまいましたし、マーシュ先生は『使えません』からねぇ。これでまた、新しい研究が出来ますよぉ」
醜悪に喜ぶ歪み切った主人を、従者達はどのような感情で見ているのか。それは誰にも分からない。従者にしか、分からない。
◇
考古学会の見学に行った日から数日経ったある日、ソージは再び考古学会の会室を訪れていた。
「おぉ、ソージ先生。ようこそ、またいらっしゃったのでね」
僕が部屋に入るや否やマーシュ先生は朗らかな笑みを浮かべて歓迎してくれました。今日はミシェットさんしか生徒はいないらしく、どこか室内が広く感じますね。
「あれ?ソージ先生。どうしたんですか?」
ミシェットは読んでいた本を置き、こちらを向く。
「少しマーシュ先生に頼んでいた資料を取りに来たのですよ。マーシュ先生、アレは見つかりましたか?」
「えぇ、随分とすんなり見つけれましたよ」
マーシュにソージが尋ねると、マーシュは得意気にそう言いながらマーシュはゴソゴソと部屋に備え付けられている本棚から資料の束を取り出し、ソージに手渡す。
そんな光景を見ながら、ミシェットはあることを考えていた。
あの日、マーシュ先生はソージ先生のことを真っ白だと言った。実家の執事たちを動かしてまで調べた上での白。だけど、マーシュ先生とソージ先生のやり取りを見ていると、やはり人畜無害なただの温和な人に見える。私が間違っているの?元々疑っていた理由もマーシュ先生が言ったように決めつけるには弱い理由ばかり。私が見当違いな疑いをかけている可能性の方がすこぶる高い、と。
しかし、ミシェットはどうしても納得しきることが出来なかった。だけど、だけど、と深層心理の奥底で自分が間違っていることを認めたくないかのように……。
「これでまた研究が捗りますよ。ありがとうございます、マーシュ先生」
「失礼します。お、いたいた。ミシェットー帰ろうぜー」
僕は渡された資料を大事に抱え、マーシュ先生にお礼を言い、研究室に戻ろうと踵を返した瞬間、扉が開き、見覚えのある青年が部屋に入ってきました。
「おや、ルーク君じゃないですか」
「あ、ソージ先生、こんにちは」
一言だけ挨拶を交わすと、そのまま僕は会室を出、研究室に戻る。早くこの資料を読みたいのでね。
◇
「おぉい、いつになったら俺様の婚約者になってくれるんだぁ?」
「だから、何度も申しました通り、貴方の婚約者にはなりません!」
研究室に戻り、資料を読んでいると、ふと部屋の外から男女が言い争っている様な声が聞こえてきた。
ソージは放っておこうかと思ったが、女性の方の声にふと聞き覚えを感じた。
「この声は……ミシェットさん?」
んー、放置してもいいのですが、どうも気になりますねぇ。
そして、ソージは自分の研究室の前で騒ぎを起こされても嫌なので、結局様子を見に行くことにした。扉を開くと、丁度ミシェットに顔を真っ赤に染めた男子生徒がその肥えた体を揺らして飛びかかろうとする現場だった。
これはいけない、と思うよりも早く、ルークがミシェットを庇うよりも早く、ミシェットが魔法で男子生徒を返り討ちにするよりも早く、体が動いた。咄嗟だったのだ。歪んでも、狂気に侵されていても、『まだ』ソージの体は咄嗟に動いたのだ。
「ぅぐっ……!」
ミシェットと男子生徒に割り込んだ瞬間、ソージの顔面に男子生徒の拳が当たってしまい、ソージは床に倒れ込んだ。今の衝撃で愛用の丸メガネが吹き飛んだらしく、視界が覚束ない。
「ソージ先生っ!」
「だ、大丈夫です……」
傍に寄り、僕の体を支えようとするルーク君とミシェットさんに大丈夫だと告げ、僕を殴った男子生徒を見据える。
「はっ……っひ!」
流石に教師を殴ったのはヤバいと思ったのか、顔は青ざめ、震えている。少し怯えも混じっているようにも感じますが、それはまぁいいでしょう。
学堂において教師に不当に暴力を振るうとどうなるか、簡単です。一発で退学処分からのもし事件を起こしたのが貴族の子なら家の名に泥を塗ったとして追放される可能性が高いのです。恐らく、この男子生徒も貴族の子でしょう。しわ一つない綺麗な制服を着ていますしね。それに、さっき中流貴族の子であるミシェットさんに婚約者になれだのと言っていたので、格式の高い貴族の子かもしれません。
ならば、この怯えようも納得でしょう。
ゆっくりと立ち上がり、男子生徒に歩み寄る。殴られた箇所が少し裂けているのか、血が僅かに流れ出ているが、それだけだ。
「君の名前は?」
「マ、マーク・サフィルスです……」
しどろもどろになりながらも、キチンと答えた。未だに頭が真っ白なのでしょう。それもそうです、それほどこのマーク君がやってしまったことは重いことなのですから。
ですが、僕にこの子を裁くつもりはありません。ここで裁くのは勿体ないので。
「マーク君、後悔していますか?」
「……え?」
マーク君は、一体何を言ってるんだと言わんばかりに呆けた症状を浮かべ僕の顔を見つめる。
「僕を殴ってしまったことを後悔していますか?」
「は、はい……俺は許されないことをしてしまいました……」
さっき扉越しに聞いた威圧的でワガママな声とは違う、ずいぶんとしおらしい声だ。もう全て諦めてしまっているのかもしれない。
「ならばもう、してはいけませんよ?そして、何が原因でミシェットさんと口論していたのかは知りませんが、女性に襲い掛かっては、それこそ取り返しのつかないことになってしまいますよ。深く反省したのなら、もう大丈夫です、僕は君を裁きません」
「え……?本当に、許してもらえるのですか?」
マーク君の瞳に光が戻る、砂漠を彷徨っている時にオアシスを発見した旅人の様だ。
「あ、ありがとうございます!あとミ、ミシェット……さん。ごめんなさい……冷静になったよ……」
それだけ言うと、マーク君はさっさと走り去ってしまった。
「ソージ先生、あれでよかったんですか?」
ルーク君が少し不満げに尋ねてくる。まぁ平穏に終わらせられてよかったじゃないですか。
「いいのですよ、君たちの無断侵入も許してますし。それにしても、何故こんなことに?」
「あー、あのマークの野郎ずっとミシェットに付きまとってたんですよ。一目ぼれしたとか何とかで。それでさっきまた婚約者になれって突っかかってきましてね、ミシェットが拒絶したらついに激昂してって感じです。まぁソージ先生のお陰であいつももう付き纏うのは止めるだろうし、ありがとうございました」
なるほど、顔だちが整っていて、頭もよく品もあるミシェットさん。確かに一人や二人そんな輩がいてもおかしくはありませんね。
そんな話をしているルークとソージを見つめ、ミシェットは考える。凶悪な犯罪者に果たして今の様な、庇って殴られ、挙句にその殴った人間を諭して許すことが出来るのだろうかと。
ミシェットはこんな現場を目の当たりにして尚、ソージを疑い続けることは出来なかった。やはり私が間違っていたんだと、ソージ先生はただの優しすぎる人間なのだと、そんな人を疑うだなんて、自分はどうかしていたのだと、思わずにはいられなかった。
その後ミシェットたちとソージは分かれ、ソージは研究室へと舞い戻った。
「やれやれ、これで疑いは晴れたでしょう。これでもまだ疑うようならそれはそれで面白いんですがねぇ……クックッ……」
光源の乏しい薄暗い部屋でソージは笑った。その顔に、殴られた傷は––––––どこにも無かった。