第2話:温厚な教師
ゴーンゴーンと本日最後の授業の終わりを告げる鐘が鳴る。周囲の生徒がガヤガヤとざわめきだし、終わったぁ~と一日の解放感に浸っていた。
そんな喧騒の中、壇上の教師は朗々と文書の説明していた口を一度閉ざし、咳払いの後、再び口を開いた。
「よし、では今日の授業はこれで終わりだ。特に連絡事項もないので……皆、気を付けて帰るように」
このクラスの担任兼、文学科の教師であるマーシュ先生は次々に荷物を纏めて退室しようとする生徒たちを尻目に、トントンと乱雑に重なった授業の資料を纏めだす。
しかし、そんな周りのことはどうでもいいと言わんばかりに、ルークの隣に座っているミシェットは早々に荷物を纏め、意気揚々とルークへ目を向けた。
「さぁルーク!調査の時間よ!」
フンスッと淑女あるまじき気合の入り方だが、こうなったミシェットはもう何を言っても無駄であるとルークは幼馴染故に知っていた。ルークは既に疲労を感じつつある精神に鞭打って、ハイハイと若干、棒気味に短く言葉を返す。
だが、そんなミシェットの意気込みは、今回も空回りに終わってしまうことになった。
「おっと、忘れるところでした。ミシェット・ファチウィード、ルーク・アルスフィル。この後、職員室まで着いてきてください」
なぜなら、マーシュ先生のお呼び出しが掛かったからだ。
せっかくの気合に、水を差されたミシェットはシーンと固まった。マーシュ先生からは見えないが、そのミシェットの美しい顔のこめかみに、ピキッと青筋が走ったのに気付き、正面で向かい合っていたルークは恐々としながら目を逸らし、先生に了解の意を伝えた。
「ま、まぁミシェット、先生の用事が終わったらな……?」
出来るだけ、怒れる獅子を刺激しないように、穏やかに穏やかに声をかける。そこには細心の注意を払ってミシェットを宥め賺す必要があり、特にこのような状態のミシェットが癇癪を起せば、十中八九ルークには様々な面倒な被害が出るだろう。
昔と違い、今では多少なりとも心身ともに成長しているが、それでも根幹は中々簡単には変わらない。なので、いざと言う時に何が起こるかは神のみぞ知る……いや、ミシェットのみぞ知るところだ。
少なくとも、昔のミシェットが癇癪を起せば、ルークが酷い目にあうのは確定事項だった。
「……分かったわよ……」
不服そうながらも、一旦は溜飲を下げてくれたようで、ルークはホッと胸を撫で下ろした。
「でも!その後はトコトン付き合ってもらうわよ!」
しかし、そんな安堵も束の間、ビシッと指をルークに突き付け、有無も言わさずミシェットはササッとマーシュ先生の元へと行ってしまった。
そんな彼女の姿を眺めながら、面倒くさいことになったなぁと溜息を漏らすルークだったが、どうせここですっぽかしても、ミシェットは危険を厭わず一人でも調べ出してしまうのは目に見えているので、傍で見守るしかないか……と昼前の彼らとは全く逆の思いが浮かび上がっていたのだった。
◇
時刻は既に夕刻。『学会』という、所謂クラブ活動の様なものに参加している生徒たちも、もう殆ど帰ってしまっているよな時間帯。そんな濃いオレンジ色の空の下で、二人の男女が誰もいなくなった学者棟(研究室を運用するために作られた建物)の中を息を殺し、気配を殺し、その目標の研究室を探していた。
「おいミシェット、本当に大丈夫なのか?先生の研究室に無断で侵入なんかして」
コソコソと人の気配を気にしながら、前進するミシェットに続くルークのそれは、ビビっている……と言うより面倒ごとは起こさないでくれ……と言わんばかりの表情で、あわよくば引き留めようとしている様にも聞こえる口振りだ。
「大丈夫よ、侵入した形跡を残さなかったら、何の問題もないわ」
しかしそんな意図はどこ吹く風と言わんばかりに無視し、おまけにサラリととんでもないことをミシェットは口走った。とてもじゃないが、中流貴族の次女が放つような台詞ではない。まさに国の密偵部隊のそれである。
「っと、着いたわね」
そうしてミシェットとルークは学者棟一回の隅にある目標の一室の前に辿り着いた。これまで一人たりとも他の教師を見かけなかったので、教師たちも既に帰宅した者ばかりなのだろう。
試しに扉に耳を当ててみても、中からは何の音も聞こえないので、ソージ先生も既に帰宅したのだろうと二人は当たりをつけた。
「鍵は……もちろん閉まってるわね」
一度静かにドアノブを動かし、開かないことを確認すると、ミシェットはスッと鍵穴に左手を翳した。
「何をする気なんだ?」
鍵がかかってるなら仕方ないな、今日は出直そうと早口に言おうとした矢先、ミシェットの妙な行動に疑念を抱き、その意図を尋ねた。
それに対しミシェットは、何でもない様な涼しい顔で、ただの開錠よ、と答える。何度も言うように、決して貴族がして良い行動ではない。いや、普通の人でもしてはいけない。
「『氷の造形』」
そうぽつりと言葉を発したその瞬間、ミシェットの左手が微かに青く輝き、鍵穴を隙間なく氷で埋めた。そしてその氷は、止まることなく見る見るうち持ち手の部分を形作っていくと、あっという間に一つの鍵となった。
そうして、鍵穴ぴったりの鍵をミシェットは難なく回し、ソージの未知なる研究室の扉をこじ開けることに成功した。
「さぁ、入るわよ」
いくら気丈に振る舞っていても、ミシェットのその声には緊張が滲んでいた。それもそうだ、ミシェットの予測が正しければこの研究室は、悪魔の腹の中そのものなのだから。
キィ……とわずかに震える手で静かにドアを押し開け、恐る恐る二人は部屋へと侵入する。
「……意外と、普通だな」
もしや、本当に非人道的な生物が乱立しているのではないか、化け物の様な存在が潜んでるのではないかと、ふと心の何処かで考えていたルークにとって、魔物や魔性植物に関する資料や書籍が小奇麗に纏められているそれは、あまりにも拍子抜けするほど通常な部屋だった。
唯一存在する生物と言えば、せいぜいが鳥籠の中で、時たまキュウキュウと鳴いている腹にある青い毛筋が特徴的な小鳥が一匹である。
「いや、まだ普通とは決まってないわ、探すわよ」
「何を探すのですか?」
ミシェットが机の上に重ねられている資料の束に手を掛けようとした、まさにその瞬間。今まで一切の気配のなかった背後から突然、発せられた第三者の声に驚き、ルークとミシェットは咄嗟に振り返った。そこにいたのは、キョトンとした無垢な少年の様な表情で立っている、昼前の授業と同じ白い妙な服を着ている男だった。そう、ソージである。
「ソ、ソージ先生、これはですねぇ……」
流石のミシェットも、このタイミングで、ましてや全く気配を読むことすら叶わずにソージが現れるのは予想外だったのか、しどろもどろになりながら返す言葉を探す。
しかし、こんな状況を弁解できるような言葉も見つからず、頭が真っ白になりかけた時、ソージから提案がなされた。
「ふむ、まぁ立ち話もなんですし、座って話しましょうか。こんな部屋ですが紅茶くらいなら出せますよ」
その言葉を聞いた二人の深層心理の片隅に、もしや逃げ道を塞がれていってるのではないか、と仄暗い直感めいたものが駆け抜けるのだった。
◇
さぁさぁどうぞこちらへ、と部屋の中へ案内され、ルークとミシェットは大きめのソファーに座らされていた。そのソファーはかなり上質な物のようで、座り心地は抜群だ。
しかし、そんなソファーにゆったりと身を預けれる程、二人の心に余裕はない。ミシェットに至っては、ソワソワとキョロキョロとしきりに視線を室内へ彷徨わせていた。
「落ち着かないわ……」
「そんなにソワソワしてたら怪しまれちまうぞ」
そう言うルークも、ソージが犯人ではないと思ってはいるが、ミシェットの緊張にあてられているのか、少しだけ落ち着かない様子で紅茶を入れるソージを見つめている。
そんな視線を知ってか知らずか、フンフンと小気味の良い鼻歌を歌いながら茶葉を湯に浸しているソージ。勝手に自室に侵入したにも関わらず、少しも二人の事を咎めようとしている様子はない。
「はい、紅茶がはいりましたよ。とりあえず、話をする前にこれを飲んで落ち着きましょう。ずいぶんと緊張しているようですしね」
「あ、ありがとうございます」
ミシェットを見据えながらコトリとテーブルの上に三つのカップを置き、ソージも二人と向き合うように座った。
そうして、出された紅茶にミシェットは恐る恐る緊張しながら口をつける。本心を言えば、犯人かどうか疑っている相手が出す茶など飲みたくはないが、ここで飲まねば失礼に当たり、貴族としてはあまりにも不自然だ。
「あら、美味しいわね……」
しかし、そんな思いと緊張はあっという間に霧散してしまう。その紅茶は、良い茶葉を使っているのか、とても心落ち着く味と香りがしたのだ。これを貴族の茶会で振る舞えばかなりの評価を受けれるだろう、と思わず考えてしまうほどには美味だった。
「えぇ、そうでしょう?これは薬学の師匠に教えてもらった茶葉でしてね。アロマ……心が落ち着く風味を出せるのですよ」
振る舞った紅茶が褒められて嬉しいのか、妙に大きなメガネをクイッと動かし、若干照れたように頬を赤く染めるソージ。
そんな微笑ましい様子を尻目に、緊張でカラカラに乾いてしまっていた口内を潤すために紅茶をもう一口飲むミシェットは内心で、やはり犯人だというのは自分の思い違いなのではないか?という疑念が滲みだしてきた。
それはルークも同様で、やっぱこの人が犯人だなんてありえないよな、と一人内心で頷くのだった。
……紅茶に視界が集中している彼らに、一瞬だけ穏やかな表情から一転し、醜悪に口元が吊り上がったソージの表情は見えていない。
「ところで、なぜ二人はここへ?」
突然発せられる、ずばり核心を突くソージの質問。紅茶に気をとられて都合のいい理由を思い付いていなかった二人の心は、落ち着きから緊張へとUターンするのだった。
「そ、それは……」
ルークもなんとか弁解しようと言葉を探すが、一向に見つからない。かと言って、一連の事件の犯人だと疑っているだなんて、口が裂けても言えはしないだろう。
ならばどう、弁解するか。いくら二人の家が中流貴族だからと言っても、この大学堂の規則上、身分の差による不公平は発生しない。極端な話、子爵と公爵の子が同じ罪を犯しても、どちらも同じ罰を受けることになる、ということだ。これは、貴族の子供は貴族だがその子供に爵位はない、という考えの基の規則であり、他の大学堂でも共通の意識なのである。
話は反れたが、普通、教師の研究室に無断で、しかも不法侵入ともなると、その時点で退学は免れないだろう。それはどんな生徒でも同じだ。こうやってキチンと話を聞くソージの方が教師としては稀なケースで、通常ならば有無も言わさず裁かれることになるだろう。
故に、ここでの受け答えに失敗すると、目も当てられない事態……という言葉では片づけられない程、悲惨な未来に行きつくだろう、と二人の思考は一致していた。
「あぁ、ご心配なく、僕は怒っているわけではありません。ただ、何故侵入したのか、という好奇心故に尋ねているのですよ。それに、僕は他の先生方とは違い、お恥ずかしながら少々気が弱くてですねぇ、未来ある生徒を容赦なく罰するような真似は出来ないのですよ」
そんなソージの言葉を聞いたミシェットは、一瞬の思考の後、覚悟を決めたように口を開いた。
「実は……『大通りの捕食事件』の犯人がソージ先生なんじゃないかって疑ってたんです!だからその証拠を探すために無断入室しました!ごめんなさい!」
言葉を吐き出しきると同時に流れる静寂。ルークは唖然とミシェットを見つめ、ソージはその穏やかな表情を崩さずにミシェットを見つめている。
そして、そんな静寂を最初に切り裂いたのは、あっけらかんとしたソージの言葉だった。その口調は犯人と疑われているというのに、妙に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「なるほど、そういうことだったのですね」
「はい……ごめんなさい……」
そこに普段の彼女の凛とした雰囲気は無く、しおらしく謝罪の言葉を漏らす。
しかし、そんな態度とは裏腹に、俯いているその目にはまだ、私は諦めていないぞ、という思いが揺れていた。
何故わざわざ疑っていることをバラすのか、それは、本当の理由を話すことによって、下手に誤魔化すよりかは、逆に警戒を薄れさせれるのではないか、という考えがあったからだ。
ミシェットは、この程度で引き下がるほど潔い性格をしていない。
そんなミシェットの考えを知ってか知らずか、ソージは一言、若干の思案の後に放った。
「では、こうしましょうか―――――」
言葉と共に、ソージは人差し指をピンッと真上に突立てる。