基本は逃げの一手で
当たり前だが樹海の中に道はない。
かつて生い茂る木々を切り倒して街道を整備する試みが行われたものの、樹木の成長する速度のあまりの早さに整備が追い付かず、計画は半で頓挫したまま放置されている。
「あー、ダメダメおっちゃん!そっち行くとなんかヤバそう」
「……方角的には合ってるんだがな」
「でもオレも止めといた方が良いと思う。ミケの勘はオレのより当たるからさー。どうしてもって言うならオレらここから別行動だ。後で合流しよーぜ」
「………わかった、道を変える」
と、以上のような会話が樹海に足を踏み込んでから幾度となく繰り返されていた。
始めこそ半信半疑だった男も、丸一日が経過した時点でこの二人の勘を疑う事を止めた。
その『警告』に従って道を選び続けた結果、一度も危険に遭遇する事が無かったからだ。
はっきり言って有り得ない事態でもある。
百歩歩けば危険生物にぶち当たるこの樹海で、『何事も無い』方が寧ろ異常なのだ。
一度危うく大型の獣とニアミスしそうになった場面があったが、その際タマとミケは案内人兼雇い主のハイネをブッチギリで置き去りにして逃げた。
いっそ清々しいまでの見捨てっぷりだった。
足場の悪い木立の合間をまるで歩き慣れた路地でもあるかのように迷いもなく走り抜け、ただの一度も障害に出会すこと無く逃げ切った。
やっとの事で追い付いた男には、「おっちゃん、足遅ぇーよ」とだけ一言。
男とて子供二人を戦力に数えていた訳もなく、いざ剣を振り回すような状況になれば先に逃がして自分が対処をするつもりでいたのだが。
―――何故だか物凄い見捨てられ感がした。
いざという時の見切りの良さといい、半端ない逃げ足の速さといい、尋常では無い。
「お前らが生き延びてる理由が解った気がするぜ…」
「だって、オレらこれしかねーもん」
「そーそー。腕っぷしなんか期待されても困るぜ?」
「…ははは」
悪童の顔でニヤリと笑う野良猫二人に、最早男は脱力気味の笑いを返すしかない。
―――だが言い換えれば、この二人は絶対に足手まといにはならないという事でもある。
下手につけあがった駆け出しの新人と組んで仕事をするより、余程やり易いかもしれない。
ナニしろ“敵”の接近を悉くかわし、出会す寸前で逃げ切る見事な尻の捲りっぷり。
「馬鹿正直に正面から立ち向かうだけが戦う手段じゃねえし、お前らはそれでいいさ」
本心からそう言えば、タマとミケはキョトンと目を丸くした。
「………おいてきぼりにされて薄情者って言わないのか?」
「下手な手出しをされて窮地に陥るよりかは遥かにマシだな」
「なるほど……。苦労してんだな、おっちゃん…」
散々世間の荒波に揉まれてきた二人の子供は染々(しみじみ)と呟いた。
そしてこの一行はどんなに慣れた者でも三度の夜営が当たり前の道程をなんとニ晩という驚異的な早さで踏破し、尚且つ無傷で麓の町まで辿り着いた。
◇
「やりぃ、到着~」
「完全走破ぁー!」
「……………あり得ん」
鬱蒼と生い茂る木々の群れを抜けた所で男は呆然と立ち尽くした。
いまだかつてこの樹海を行き来して、ただの一度も危険に遭遇しなかった試しは無い。
だが現実に自分達は今、五体満足で掠り傷一つ負わずに樹海の外にいる。
そもそも男は子連れで樹海を抜けるのに五日やそこらはかかると予想して十二分な物資を整えていたのだが、それらは殆んど手付かずの状態で馬の背に括りつけられたままになっている。
空を見上げれば憎らしいほど燦々(さんさん)と降り注ぐ夏の陽射し。
「……夢じゃねえし」
そもそもこの結果を単純に『勘』や『運』の一言で片付けて良いものかどうか―――――と、男は一瞬悩み始めて、すぐに止めた。
色の違う二対の瞳がキョトンと自分の方を見て、笑うのが見えたからだ。
「早く町に入ろうぜ、ハイネのおっちゃん!」
「タマが腹へったってウルセーんだよ」
「―――よっしゃ、行くか!」
「「おー!」」
(……なんかエライもん拾ったかもしれんが、まぁ、いいか)
男は割と大雑把な性格だった。
三人は町へ入ると直ぐに適当な宿を選んで馬と荷物を預け、手っ取り早く食欲を満たすべく昼下がりの町へと繰り出した。
上着を脱ぎ捨てて軽装になったタマとミケが派手な頭と素顔を晒して歩き回っているお陰で、少々人目を引く事にはなっているがこの際仕方ないだろう。
これから暮らす場所でいつまでもコソコソ顔を隠してはいられないというものだ。
「肉!」
「甘い物!」
「……お前ら…野菜も食え、野菜も!身体が育たねえだろうが」
「えぇー…」
「かーちゃんかよ…」
町の目抜き通りには飲食店が軒を並べる一画があり、男はその中でも落ち着いた家庭的な雰囲気の店を選んで子供二人を連れ込んだ。
以前うっかり昼間から酔客がクダを巻くような店に入ったら、女衒に間違われたあげく面倒な客にしつこく絡まれて、ろくに食事も摂れぬまま店を出る羽目になった事がある。
幸い今の時間帯は店も空いていて、落ち着いてゆっくりと食事が出来そうだった。
「はい、おまちどう!どれもウチの自慢料理だからたんと食べておくれよ」
威勢の良い女将が大きな盆で注文した料理をテーブルまで運んで来ると、タマとミケは歓声を上げた。
「うわ!旨そ~」
「スンゲー良い匂い!食っていい?おっちゃん!」
「おお、食え食え。体力付けんと山の上まで持たねえからな」
「―――おや、お客さん主都に用事かい?余所の人にしちゃ珍しいね。上まで行くには審査が厳しいよ?」
お喋り好きらしい女将が男の言葉に首を傾げて見せた。
危険な樹海を越えてまでジグラッドを訪れる余所者といえば、仕事の依頼人か命の次に金が大事な商人くらいのものと相場が決まっていて、子供連れの男はそのどちらにも見えなかったに違いない。
ましてや主都があるのは山の中腹、大人の足でもかなり過酷な行程となる。
そして基本的に外部の人間が主都に立ち入る際には厳しい審査が行われ、その後も必ず監視が付いて回る。
観光気分で訪れるには向かない都市だ。
「―――用があるのはひとつ手前のシャナルなんだ。俺は元々そこの出身でな。まぁ、戻るのは十年ぶりくらいなんだが…」
「おやまぁ、そうだったんですか!」
男が十七で郷里を飛び出してから二十八年の間に、帰郷したのは僅かに数度。
前回知人に管理を任せきりにしている家の様子を見に来て、それきり無沙汰をしていた。
もしかしたら既に何処かで野垂れ死にしてると思われているかもしれなかった。
「おっちゃん、おっちゃん。オレ食後に甘い物食いたい!」
「ミケはまずその煮込みを平らげろ」
「へーい」
「お連れさんが甘いもの好きなら、ジャムタルトがありますよ。金柑のママレードと野苺の二種類」
「どっちも!タマと半分ずつにするから両方!」
「わかった、わかった…」
甘味が好物のタマがキラキラと目を輝かせて身を乗り出してくる。
「オレ、おっちゃんスッゲー好きだ!」
「オレも、オレも!」
男は何やら餌付けに成功した気分になった。
出会ったばかりの頃の二人はこちらの出方を窺うような用心深さが見え隠れして、まるで本物の野良猫を拾ったような感じだったのだが。
いったん打ち解けるとたちまち懐に潜り込んでエサをねだるようになり、好き放題甘え倒してくる。
(…まぁ、猫は嫌いじゃないがな)
「恩は身体で返すぜ!」
「オレも、オレも!」
「…おかしな誤解を招くような言い方すんじゃねえ、お前ら…」
――――子供の躾は最初が肝心、とは男が以前子持ちの同業者に聞いた話だった。