第十六話―菫の花が咲く
「うがぁああぁぁああああぁぁぁあアァァアァアァアアアアアアアァァァァァァァァァァァァぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁあぁあぁああああああ!!!」
身体が軋む、神経が引き千切れる、喉から血が溢れる、抑えていた“モノ”が荒れ狂う魔力となり、身体の中を駆け抜ける。
殺したい。
目の前のこの男を。
首を跳ね、八つ裂きにしてやりたい。
原型が残らないほどグチャグチャに
存在を消すくらいにドロドロに
殺してやりたい……!!
「アレ? 怒っちゃっタ? 絶対喜ぶとおもったのにナー」
嘘を吐け、そんなつもりは微塵も無かったくせに。ワシが怒り狂う様を見たかっただけのくせに。
だが、どうでもいい。
奴の思惑通りだろうと、関係ない。そんなものはもう眼中にない。
あるのは殺意。
目の前の男を殺すという純粋な殺意。
膂力に差があろうと、魔力に差があろうと、変異だろうと、そんなものは等しく無価値だ。
ワシが--いや我輩が殺すと決めたのだ。どんな障害があろうと必ず殺して見せる。
サァ、チノアメヲミセテクレ―――
ゲンスイがサタンへと【形態変化】したトイフェルに向かって特攻を仕掛ける。無謀としか言いようがない。【形態変化】前ならまだしも、【形態変化】後のトイフェルとゲンスイでは地力に差がありすぎる。
加えて、ゲンスイは今、右手に火傷を負い、止めどない魔力の奔流に身体が壊れかけている。
正常な状態ではないゲンスイはこのままでは殺されることが目に見えていた。
「死にナヨ」
凍てつくような言葉と共にゲンスイに向かって突きが放たれる。凄まじい速さのソレはゲンスイの眉間を撃ち抜くのには十分過ぎる威力を持っていた。刀が風を切り、降りしきる雨が飛び散っていく。
しかし、この判断は間違いであった。
彼は甘く見ていたのだ。
ゲンスイがスミレという少女に抱いている深すぎる愛情を。
それが傷つけられた時の苛烈すぎる怒りの程を。
二百年前に“鬼”と呼ばれた男の底力を
一重にトイフェルは油断していたのだ。変異でない男が自分に届く訳がないと。自分と対等以上な存在は帝王だけであると。そのように思っていた。
この時、彼がただの突きではなく、不規則な加速の突き、〝アルマ〟を放っていたら……傷を負うことは無かったのかもしれない。
「暗殺剣・通魔」
ゲンスイは右腕を突きだし、トイフェルの突きを受ける。雷を内包したその刀はゲンスイの身体を焼くが、そんなものはどうでもいいとばかりに、貫かれたまま逆に刀を握りしめ、固定し、その後の動作を封じてから技を繰り出した。
刀に纏わせている魔法は先程とは比べ物にならない程の密度で、トイフェルの腹を横一文字に切り裂く。
「ンナっ!??」
すぐに距離を置き、膨大な魔力を包帯のようにして傷口の上から巻き、傷を止める。
血は止まったものの、その目には驚きが現れていた。
「驚いタ……。あんナ捨て身の攻撃を仕掛けテ来るなんテ。
……デモ、分からないナ。コノ一太刀の為にキミは傷を負いすぎた。モウ右腕は使い物にならナイだロウ?」
「なんで血を止めた?」
「エ?」
「綺麗な血だったろう? 勿体無いことをする。血は降らせるのが一番見映えがよいというのに……」
そう言って幻海についた血を舐めとるゲンスイ。目はトイフェルから離さず、殺意に満ち満ちていた。
「もしかしテ、狂っちゃっタ?」
「まさか、我輩は狂ってなどいない。
ただの、どこにでもいる、殺人狂だよ」
「やっぱり狂ってるじゃないカッ!!」
トイフェルがおもむろに手を天に向ける。嵐の中、悪魔が天に手を向けるその様は何か不気味なものを感じさせた。
「ペルソナ ノン グラータ」
空が光る。
一瞬の瞬きが何度も何度も瞬く。稲光が空を走る。荒れ狂う嵐の中の雷が光を放っているのだ。
しかし、一向に落ちてくる気配はない。ただ雲の中で雷が蠢くだけ。
「雷に魔力を流し、操るなど……。なんともまあ規格外な童だ」
「嵐だカラ出来る技だけどネ!
落ちロッ!!!」
トイフェルが手を下ろす。瞬間、辺りを光が包んだ。過大な熱エネルギーが岩をも溶かし、何本も何本もゲンスイに雷が降り注ぐ。
一本落ちる度に空気が震え、身をすくませる大轟音を引き起こす。
圧倒的な熱量により生物の存在する余地など微塵も残らない。溶けた岩や雨が水蒸気となり、ゲンスイの霞初月のように視界を覆い隠す。
「ちょっとやり過ギちゃったカナ?」
雷の雨を降らせた本人はまだまだ余裕の有りそうな顔でそう言った。そんな風に傲慢な余裕を持っているから……
「死に目を見ることになる」
「!? ケルタ!」
視界ゼロの水蒸気の中、ゲンスイはトイフェルの真っ正面から堂々と現れた。横凪ぎに振るわれた幻海がトイフェルの頬に触れた瞬間、ケルタを発動し、超常的な反応速度を以てしてその斬撃を回避する。
しかし、その頬には確かに傷が刻まれていた。
「避けられたか」
「どうやっテあの雷を避けたんダイ!?」
ケルタを発動させたまま、ソロモンを降り下ろすトイフェル。
しかし、ソロモンはゲンスイを捉えることはなく、ただ空を切る。ゲンスイの姿はソロモンの一振りと共にかき消えた。確かに自分はゲンスイを切ったハズ……そう思ったトイフェルは思いを巡らせる。
「まさカっ! また【幻夢】!?」
「残念、それとは別だ」
トイフェルの肩が幻海によって貫かれる。
またも、真っ正面からの攻撃だった。ゲンスイはすぐに幻海を引き抜く。血が溢れ、ゲンスイはトイフェルの血に濡れる。
「ウッ!」
「まだ、終わらんぞ!
切斬舞!」
至近距離からの切斬舞。
幻海の先から出る殺人水流が遠慮忌憚なくトイフェルに襲いかかる。山をも切断する凶暴な水の乱舞が、ゲンスイを中心に巻き起こる。その水の乱舞はトイフェルの身体の表面を撫で切りにしていく。
「フェルム!」
トイフェルが左手のソロモンとは別の雷で出来た刀を具現化させる。二本の刀を自分の手足のように操り、ゲンスイの魔法を全て捌いていく。
二刀による乱舞である。そして、捌くだけではない。
捌いていく合間にゲンスイ相手に切り傷を刻んでいく。少しの傷でも、雷そのものと言っていい電流がゲンスイに流れ込んでいく。
ゲンスイの身体が受ける度に雷鳴が周囲に響き、肉の焦げる臭いが充満する。雷と水が激しくぶつかり合い、雷の熱量で雨は二人に降りかかる前に蒸発し、発生した水蒸気が剣圧によって次々に吹き飛ばされて行く。
まるで異空間のように二人の周囲は切り取られて、他とは完全に隔絶されていた。
「さっきみたイに避けないノ?」
「それは無理だな」
「なんでサっ!?」
「我輩が帝国の奴等になんて呼ばれていたか知っているか?」
「〝斬影〟でショ? 他にも色々有ったケド、ソレが一番有名だヨネ」
「何故その呼び名になったか知っているか?」
「サぁね、ナンでなんだイ?」
「霧と陽炎を使い、敵を撹乱する。
霧陽炎、キリカゲロウ、きりかげろう、斬影……とまぁ、こういう理由だ。
陽炎は火の魔法を込めた魔具でちょいちょいっとな」
「ってこトハ……」
「そういう事だっ!」
お互いがお互いを切り合いながらも平然と会話を挟む二人。これは余裕があるとか、そのようなものから来るものではない。
思考が、行動から切り離されている為だ。
もはや二人はなにも考えていない。ただ己の感覚で、経験で、反射で、息をするように、なんでもないことをするように、思考を排除して切り合っている。
けれど、状況は決して対等ではない。
一秒毎に肉が焦げる音がして、五秒毎に鮮血が舞う。現在はそういう風に刀の応酬がなされている。傷の度合いは明らかにゲンスイの方が深いが、一切の怯みを見せることなく、着実にトイフェルに切創を増やしていく。
「もっと! もっとお前の血を我輩に見せてくれ!」
「ハハ! 凄いヤ! キミ最高ダヨ!!」
ゲンスイとトイフェルは切り結ぶ。お互いの血でその顔を濡らしながら……
少し、昔話をしよう。
昔々、そのまた昔、二百年も昔のこと。
この大陸に一匹の鬼が居た。
鬼と言っても本物の鬼ではない。
それを見たものがそういう風に形容しただけの話だ。
〝鬼〟
そんな風に呼ばれていた男が居た。
男は人の子として生まれたが、生をその身に受けたときから一人だった。
捨て子
別に呪われた子だとか、異常な力を持っていたとか、そのような理由などではない。
普通の子であったが、捨てられた。
けれど、その後の人生は普通ではなかった。
捨てられた先は谷だった。
千尋の谷といっていい程の谷だった。
厳しい谷だった。
生命の気配がまるでなかった。
命を紡げる要素が、その谷には皆無だった。
水も流れていない。
草も生えていない。
光も入ってこない。
捨てられた赤子が待つのは『死』のみ。
その……筈だった。
赤子は生き延びた。
何もない谷から生き延びたのだ。
どうやって? 何を食べて?
その答えは簡単だ。
自分と同じように捨てられた赤子の肉を喰らい、その生き血を啜って、だ。
都合のいいことに、その谷は子を捨てることで有名な谷だった。
毎日、毎日、毎日赤子が捨てられる。
毎日、毎日、毎日赤子を喰らう。
また、人肉の味を覚えたのはその赤子だけではなかった。
生存本能を強く働かせた子らは、人肉を喰らった始まりの赤子を見ると進んで捨てられたばかりの赤子を襲った。
次に始まりの赤子は殺すことを覚えた。
赤子が捨てられなかった日には、同じように人肉を啜る赤子を殺し、その肉を喰らった。
そんな日々が何年も続いた。
殺しに悦を覚え、血の臭いに酔いしれるようになった始まりの子供はついに地上へと這い上がった。
そこから先は単純な話だった。
人を見かけては襲い、肉を喰らう。
中には腕の立つものも何人かはいたが、全て殺された。
子供の恐ろしいまでの殺人への欲求が……肉を切らせて骨を食いちぎる。
そんな無茶苦茶な戦いを生み出させた。捨て身の攻撃などいつものことだった。
戦う度に子供は強くなった。
血を浴び、肉を喰らう子供はいつしか“鬼”とまで呼ばれ始めた。
“鬼”は生きるために武器を持った。
しかし、それを扱う技術は持ち合わせておらず、ただ血を浴びるためだけにがむしゃらに武器を振るった。
己の中の殺人への欲求を、血の渇望を満たす毎日だった。
狂い続ける歯車がいつまでも回っていた。
そんな日々が唐突に終わりを迎えた。
“鬼”が負けたのだ。
世界中を旅していた女剣士に。
“鬼”はそこで死ぬべき存在だった。
狂った“鬼”は淘汰されるべきだったのだ。
しかし何を思ったか、女は“鬼”を弟子とした。
自分のありったけの剣術を“鬼”に教えた。
同時に“人”であることも教えた。
“鬼”は才を発揮し、すぐさま師を追い抜いた。
だが、“鬼”はすでに“人”となっていた。
理を学び自分の中の“鬼”を封印した。
“人”は同種族であった師と結ばれた。
これが今から150年前の話。
既に人々は“鬼”のことなど忘れ去っていた。
そんな“人”が妻を無くした。
“人”は空っぽになってしまった。
“人”は何にも成長していなかった。
強くなっても、道徳を学んでも、殺人への依存が妻への依存に変わっていただけだった。
妻を亡くし、世界に希望を見いだせない“人”は世間から外れて細々と世界を廻りながら虫のように生きていた。
死ぬことは出来なかった。
赤子の頃に発揮された生への本能が消えてなかったからだ。
生きていくうちに世間では国が1つなった。
どうでもよかった。空っぽになって移ろう毎日。
そんな空っぽの男は自分が捨てられた谷へとたどり着いた。
相も変わらず赤子が捨てられていた。
しかし、男は驚いた。
赤子に対して、ではない。
赤子の横に花が咲いていたことに、だ。
自分が捨てられたこの場所は、血と狂気に溢れた場所だった。地獄に等しい場所だった。
そんな場所で咲く花は、とても美しく見えた。
空っぽだった心が埋められていく気がした。
妻の間際の言葉がそのとき頭をよぎった。
男はその子供を育てることにした。
咲いていた花の名前を子供に付けて………
「うぉぉぉおおぁあぁあ!!!」
「ハァァアァァアア!!!!」
忘れ去られた“鬼”の姿がそこにはあった。
妻に逢い、心の奥底に封印していた“鬼”が怒りによって揺り起こされた。
己の肉体がどれほど痛め付けられようと、
相手さえ殺せればよいという諸刃の戦法。
血を望み、殺人を楽しむ狂った存在がそこにいた。
既に周囲は血の海だった。
どの辺がお互いの血なのか、区別がつかなくなっている。
二人はひたすら刀を振るう。お互いの欲求を満たすために。
切斬舞とフェルムが、水と雷が、鬼と悪魔が、しのぎを削り、命を削りあう。
戦いの終着は近い。
「ハァ……ハァ……ここまでヤルなんて……正直……嬉しい誤算ダヨ……」
「ぅぅうがぁあぁあぁああ!!!」
「モウ……まともに……会話も、出来ないんダネ……」
「ぁあ゛ぁあ゛ぁ゛あ゛あ゛!!!」
人の生きられる限界などとうに振り切って、ただただ殺人欲のままに刀を振るうゲンスイは痛々しかった。“鬼”のようではあったが、折角手に入れた“人”らしさは加速度的に失われていた。
もはや今のゲンスイは“鬼”と呼ばれ始めた当初までたち戻っていた。
――コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス! コロス!
モット、モット、モット、モット、モット、チヲ!!
チヲ!!!!―――
「ゼノ!!」
雷が轟く。閃光が世界の色彩をモノクロに変える。
生まれた一瞬の世界でソロモンが光り輝いたかと思うと、光のごとき速さの技が放たれた。吸い込まれるようにゲンスイの胴へと刃が食い込む。深く、深く、どこまでも刃は食い込んでいく。
終わりはあまりに……あっけなかった。
ゲンスイの上半身が地面にずり落ちる。鈍い音と共に永遠の沈黙が訪れた。
「ハァ……ハァ……冥土の…土産ダヨ……。
今ノガ……ボクの〝ソロモン〟の【能力】……【バキューム】ダ。ありふれタ……【能力】だケド……ボクが使うと……中々のモノでショ……?
【バキューム】ハ……回りのモノを……引き寄せるダケの【能力】だ。
ソレで……一気に大気中のチリやラ……砂を集めテ……鞘を形作ル……。
つまり……〝ゼノ〟っていうのハネ……どんな場面デモ、ノーモーションで放てル光速の居合なん……ダヨ」
死した骸に対して、消えるように最後の言葉を告げた。
激戦を制したのは……トイフェルだった。
沈黙が流れ、雨と雷が音の空間を跋扈する。骸から、トイフェルから、血が流れ、大地を濡らしていく。
「キミとの勝負は楽しかったヨ」
「キミは本当に変異が現れるまで人類最強ダッタ」
「だケド、残念」
「届かなかったンダ」
「ボクらには」
「ボクは強いヤツは好きダヨ」
「ダから、キミに免じて、あそこの四人は見逃しテ上げるヨ」
「いイツか、ボクと渡り合えルくらい強くなってくれルと嬉しいヨ」
「じゃア」
バイバイ
踵を返し、悪魔は帰る。
「待…………て………」
その言葉が聞こえるまでは、そうするつもりだった。
――――――――――――――――――――
少しばかり時は遡る……
―――あぁ……死ぬな、これは……。流石にこれはどうしようもない。
ここまで……か。
結局、我輩は“人”ではなく“鬼”だったと言うことか……。死を目前にして理性を取り戻すとは情けない限りだ。
血に塗れ、殺人でしか、心を満たすことが出来ない“鬼”
支えがなくては“人”の振りを続けることも出来ぬのか……。
我輩の本質は“鬼”なのだな……。
『あんたはゲンスイだ』
これはまさか……走馬灯……か? フフ、懐かしい……我が師ではないか……。死に目に会いに来てくれるとは……いやはや、“鬼”の身でも嬉しいことよの。
『自分が“鬼”だって? アホらしい。何処からどうみても人間じゃないか。
いいかい、一度しか言わないから良く聞きな。お前は確かに殺人狂だが、それがあんたの全てじゃない。
お前が、世間が“鬼”というそれは、お前を構成する一要素でしかないんだ』
これは……我輩が負けたときの……
『愛も知らない、剣も知らない、誇りも知らない、世間も知らない、人を知らないお前はまだ産まれてさえいない。
ゲンスイ、私がお前を産んでやる。お前を産まれさせてやる。
“鬼”だなんだとひねくれて逃げ出すことは許さんぞ。
愛を知り、剣を知り、誇りを知り、世間を知り、人を知ってなお“鬼”であることを望むならそれもよかろう。
その時は私がお前を切ってやる。
いいか、覚えておけ。覚えてなくても死の間際で思い出せ。
“鬼”か“人”かを決めるのは自分自身だ。
お前が望めば、どちらにもなれる』
っ!!!!!!
我輩は……ワシは……どちらを望む?
“鬼”か“人”か。
決まっておるな。スミレがいるのじゃ……おじいちゃんが“鬼”などという不名誉なことは絶対にさせんぞ……。
ワシは“人”じゃ!!
ならば、人らしく、死に花を咲かせようではないかっ!!!
もう一振りだけ……もってくれ……! ワシの身体よ……!!
切られた箇所を魔力を糸状にして繋ぐ、神経の一本一本を魔力で繋いで、魔力で補強して、応急措置をする。
回復などは見込んでおらぬ。一太刀だけ刀を振るえるようになればよい……
繋がった……!!
後は……立ち上がるだけ……!
足がこれほどまでに頼りないとは……
手がこれほどまでに弱々しいとは……
切られた箇所から血が溢れでる。
もうこんなものに影響されたりはせん……!
さぁ……いくぞ……
「待…………て………」
出た声は小さかったが、ワシにとっては些細なことだ。この声が届けば、奴は振り向く。
振り向きさえすれば良い。後は、なるようになるじゃろう。
“鬼”ではなく“人”であることを選んだワシの……最期の戦いじゃ。情けない真似は絶対にせん……!!!
「……キミは本当に人間なのカイ?
さっきのキミの言葉だけレド、よっぽどキミの方が化物じみてるヨ。両断さレテなお立ち上がるなんテ……」
勿論……ワシは人間じゃよ。
「その目……キミはボクと似ていると思ったんたけど……違うみたいダネ。そんナに満ち足りた目なんかしちゃってサ……」
そうじゃのう……お主と違ってワシは空の心を埋めてしもうた。
「その身体ジャ、もう数秒の命なんだロウ?
……イイサ……来なヨ!!
最期の最期マデ、ボクと殺り合おウ!!」
「望…む………と、ころ……じゃ……ぁッ!!」
足を踏み出す。
それだけでワシの身体が悲鳴を上げる。
左手で幻海を握りしめる。
それだけで命の灯火が小さくなる。
けれど止まらない、止めれない。
最期の技だけは……最期の戦いだけは……止めるわけにはいかない。
全てがスローモーションのように見える。
空気中の塵芥が奴の刀、ソロモンに集められていく、圧縮されたそれらは居合いの鞘走りに十分な強度を持つ。
ゼノがくる。
ここで、ワシに避けないという選択肢はない。
そんな“鬼”のような戦いかたはしない。
“人”としての経験と技術で、ゼノを捌いて見せる!
「双葉流」
軌道は既に見切ってある。横凪ぎの太刀。
後はタイミング。その一太刀に合わせられなければ、全てが終わりじゃ。死に花を咲かせることなく、散ることになる。
左手で幻海を強く握り、右手は添えるだけ。余計な力は要らない。腰を少し内側に捻り、切り上げの姿勢になる。読まれたところで構いはしない。条件はトイフェルも同じ。
タイミングを外した方の負けじゃ。
「花の舞」
腰を捻り、身体を大きく開いて、右手をそっと振るう。虫を払うような動作で下から上に振り上げるようにして。
「ゼノ!!!!」
ワシの舞の動作に釣られ、とっさにゼノを繰り出してくる。
予想通りじゃ。
ゼノは圧倒的な速さを誇る居合い。どんな一瞬の隙でも突くことが出来る。技の開始点というのは分かりやすい隙じゃ。動作を開始しようと一瞬筋肉が硬直するからの。
その一瞬さえあれば、ヤツはゼノを放ち、敵を一刀両断できる。トイフェル程の腕なら、必ずこの隙を突いてくると思っていた。技を放つ為の予備動作、その動きが確認出来た時点で撃ってくるだろうと。
じゃが、ワシの選んだ技は剣舞。殺し合いの中の技と違って、流水のように流れ、舞う剣技。走り始めた時から、舞は始まっているのだ。
つまり、ワシの動きは予備動作ではない。右手を振り上げるこの動作は、まごうことなき、本動作。
タイミングは、ドンピシャじゃ。
振るわれる刀の腹に、手の甲を打ち付ける。横から加えられた力によって、両断するつもりの刀の軌道が……逸れた。
逸れた刀がワシの顔を切る。顔に斜めの線が入る。ほんの少しタイミングがずれていれば顔を両断されるところだった。
じゃが、ここで予想外のことが起きてしまう。顔から流れる血が目に入り、視界が閉ざされてしまった。怯んでいる時間も、引く時間もない。
ここで切ることが出来なければ、負けなのだ。勘でも経験でも気配でも、なんでもいいから切るしかなかった。
正真正銘、これが最期の一太刀。
そんな外すことは許されない場面だというのに、視界ゼロの闇の中で、孫の姿が浮かんだ。
谷で見つけた花のような紫の髪に紫の瞳。
可愛い、可愛いワシの宝。闇という属性に不憫しないように、大切に育ててきた。
そんな孫の姿が浮かんだだけで、目が効かなくとも、なんとかなるような気がする。我ながらなんとも現金なやつだ。
じゃが、それがワシという“人間”だ。
「菫ッ!!!!」
手応えは……あった……。死に花を……咲かすことが出来た。満足じゃ……これで、“人”として死ぬことが出来る……。
ただ、一つ……心残りはスミレのことじゃ。
帝国に捕まっておったことに気づけなくてごめんよ。こんな不甲斐ないおじいちゃんを許しておくれ……。
酷い目に会っていないかい?
辛い思いをしていないかい?
おじいちゃんはもう……助けに行くことはできないけれど……
もう少し、もう少しだけ……待っておくれ。
ワシの弟子が……きっと助けに行くから
あぁ、ひどく……眠たい……のう。
『“人”を選んだんだねあんたは』
『まぁのう』
『死んでそんなに嬉しそうな顔をしてんじゃないよバカ弟子が』
『嬉しいのじゃよ。“人”を選べたことが』
『そうかい……。ところであんたはこの場所がどんな風に見えてる?』
『なぜそんなことを?』
『ここは人の心を写す場所なんだ。あんたがどんな風に見えてるか、気になってね』
『山じゃな』
『山?』
『生き物の気配すらない険しい岩山じゃよ。
その山の頂にワシらは立っておる。
寂しい山じゃ……じゃが……あそこの岩影にの……』
キレイな菫が一輪……咲いておるんじゃ――