第百三十四話ー家族という脆弱な絆
栗色の髪と上下一体の神父服を風になびかせ、片翼の青年は機械仕掛けの翼を使って空を漕ぐ。
右手につがえた六連装リボルバーの銃口を前方に向け、彼は一息で装填された全てを撃ち放った。
無音の銃声。込められた六つの烈風の弾丸が文字通り空を裂きながら、一直線に標的に向かう。
「深淵の亡霊――っく!」
その弾丸は主人を守らんとする無数の亡霊の身体を貫き、あっさりと標的の太ももを貫通した。
彼女の烏の濡れ羽のように艶やかで美しい黒のドレスに、赤い斑点が書き足される。
痛みを堪えつつ憎悪の感情を露わにする黒衣の魔女――帝国軍第二部隊長ジャンヌ・ド・サンスは接近を拒むため、後方へ引きつつ扇を構える。
「相も変わらず……馬鹿げた魔力量じゃ……っ! 変異である妾の魔法を、こうも容易く……!」
「キミの変異は強者との戦闘には向いてない。たとえキミの目の前にいるのが僕じゃなくてリュウセイだったとしても、結果は同じだったよ。
そしてそもそも……僕を相手にして五分の勝負にまでなるのは……帝王くらいだ」
苦し紛れに放った闇は栗毛の青年の周囲を渦巻く風によって呆気なく払われる。ジャンヌの攻撃は、青年の首にかかる十字のロザリオを揺らすことさえ叶わない。
「カッ! まさに天上の存在たる傲慢さよ。随分と天使の振る舞いが身についておるではないか!」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
天使と呼ばれた少年――シュウは左手の剣を、彼女の首元目がけて振りぬいた。鋭い一閃。空を切った手応え。
――躱された。後方へのステップ。一歩分。
シュウはそれを知覚した瞬間、右手のリボルバーの引き金を引いた。
持ち主の魔力を吸い、自動装填された弾丸が銃身を走り、一歩の距離にいたジャンヌのドレスの右裾を貫く。
――そう。右足のすぐ横を弾丸が通ったんだ。常人なら、反射的に左に逃げる――!
自らの周囲を付かず離れずの距離で飛行する小型遊撃ピット八機。
見惚れる程の統制された動きで正八角形を形作ったピットは、全機を以って攻撃を開始。
太陽光をレンズで捻じ曲げたように、八本の風のレーザーがジャンヌの膝に焦点をピタリと合わせて照射される!
「ぐっ、ぬ……黄泉の鬼哭!」
八本の緑の線がジャンヌの膝で一点に重なる。関節に風穴を開けられ、膝が地面に落ちる寸前、ジャンヌは握りしめた黒扇を一振う。
闇色をしたジャンヌの扇――闇属性の魔具から闇が具現化。人間の腕の形をした闇が心臓を狙って伸びる。
戦闘に一切関与してこない……マリアの心臓を目がけて、伸びる。
蛇のように地面を這いずる亡者の手。変異であるマリアと言えど、戦闘能力は皆無。
有する【チカラ】が活かせない場では、彼女はただの白い幼女だ。
反射神経でさえも並の幼女……否、それ以下であるマリアはジャンヌの攻撃に反応することさえできない。
暗黒の手が彼女の胸元へ到達し――、
「はッ!」
手首の部分で、切断される。
マリアに戦闘能力は無い。ゼロを通り越してマイナスと言ってもいい。ジャンヌの攻撃を防いだのはマリアではない。
切ったのは……シュウだ。
ほんの瞬き一つする前までジャンヌの眼前にいたシュウが、マリアを守ったのだ。
数十メートルもあった距離を無いものとして。左手の剣でジャンヌの魔法を切り裂いたのだ。
「クカカカカカ! 儂を殺そうとしても無駄じゃ無駄じゃ! 儂への危害は全てシュウが排除するからのう!」
「ふん。天使を介護に使うとは流石母様。名案じゃのう。死後もそうして世話をされておれば、妾らも手間が省けて助かると言うものじゃ」
「マリア。できるだけ僕とジャンヌを結んだ直線上に立つようにしてくれるかな。何処にいても守ってあげるけど、一々マリアの傍まで戻るのは時間のロスだからね」
「二人揃って煩いわい! 妾とシュウは将来を誓い合った仲なのじゃ! 介護などではない! それにシュウ! 無茶を言うな! 儂は足腰が弱いのじゃーーーーっ!!!」
うがーっ、と両手を振り上げて自己主張する白い物体に、シュウとジャンヌは目もくれない。彼らの意識はお互いだけに向けられている。一触即発の戦場の空気。ピリピリと肌を刺す緊迫した空気がこの場に充満していた。
「――貴様は何故、母様の味方をするのじゃ」
そんな空気の中で、ジャンヌは静かに口を開いた。砕かれた左脚を庇うように右脚に体重を預け、それでも背筋は真っ直ぐ……凛とした佇まいを崩さない黒衣の魔女。
苦痛に顔を歪めながらも、魔女は射殺さんほどの鋭い視線をシュウへと向ける。その表情の中に多く見えるのは……憎しみ。彼女の中にある、根源たる感情だ。
彼女の疑問は理解できる。彼女の立場からすれば、どうして自分がマリアの味方をするのか理解に苦しむだろう。天使としてこの世に生を受け、全てを知っているはずの自分が……マリアの境遇について知らないはずがないのだから。
シュウは彼女の感情と、その裏に企んでいる思索を察して、ほんの少し逡巡する。彼女の質問に答えるか否かを思案する。
悩んだ末……シュウは腰を落とし、遊撃の構えを取った。
「キミの思惑には乗らないよ、ジャンヌ。キミの操る手駒が来る時間なんて与えない。その前に……決着を着けさせて貰おう」
拒絶。シュウは問答を拒否することに決め、たった一度、その脚で床を蹴りつけた。その一足の躍進は、シュウとジャンヌの間にあった距離をゼロにする。左手を振りぬけば、剣によってジャンヌの首を刈り取ることのできる間合い。必殺の間合いにまで、シュウは瞬時に距離を詰めたのだ。ジャンヌの機動力は既に殺してあり、攻撃の回避は不可能。
シュウの瞳に写るジャンヌは、ここまで接近されてもなお動く気配を見せない。反応すらできないのか、抵抗することさえ諦めてしまったのか。
彼女の浮かべる表情は、シュウに質問を投げかけた時のままだ。苦痛からくる汗を浮かべ、憎しみに包まれた鋭い剣幕のまま――
「さよならだ、ジャンヌ」
シュウは別れの言葉を告げ、左手を振りぬいた。肉を切った確かな手応え。首から流れ出す血がジャンヌのドレスを真紅に染めていく。傾く肢体。崩れ落ちていくジャンヌの表情が、シュウの位置から垣間見える。
憎しみに包まれ、鋭い剣幕をしていた彼女の表情に……笑みが浮かんでいた。
「暗殺剣・影縫」
「っぐ……っ!?」
老成した声が響くと同時に腹に感じる異物感。血が逆流し、シュウの口から漏れ出る。
――刺された……っ! 下かっ!
床を突き破り、階下から伸びるレイピア。それがシュウの脇腹を刺し貫いていた。今の今まで、針の先ほども感じなかった魔力の気配。唐突に出現した強い魔力を感じた瞬間、シュウの足元の床に切れ込みが入る。
「獣剣・蛇塒」
ずん、という突き上げるような衝撃と共に、切れ込みに合わせて床下が崩落。石造りの床を突き破って現れたのは……水の大蛇。天を昇り、龍と成る大蛇の伝説。かの伝説の大蛇と遜色ない怒涛の勢いで、大蛇はシュウを一呑みにする。
「大蛇伝説……神影の世界では龍に至るのは魚だったかな!」
蛇の中から無音の銃声が二発。一発が蛇そのものを吹き飛ばし、もう一発が水と瓦礫を吹き飛ばして視界を確保。しかしシュウは未だ動きを止めない。流れるような動きでヘソの下に左手を置き、剣を立てる。そして己の剣で額を切らぬように、右手の銃を即座に頭と剣先の間に差し込み――人体急所の正中線を完全に防御。
衝撃がシュウを襲ったのは……防御の完成と同時だった。
ギィン、という金属音が首元で鳴り、シュウは衝撃に逆らわずに後方へ飛ぶ。脚を地面に擦らせ、勢いを殺して着地。ドクドクと流れ出る血を手で押さえ、高密度の魔力によるテーピングで止血。
応急処置を終えたシュウは、戦塵に写る影を納得の表情で見つめた。
「……ぐ、ぅ……っ。やっぱり、いるとは思ってたけど……。封化石で魔力を完全に隠してからの奇襲……か。確かに……あなたほどの使い手なら、魔力を使えない状態でも僕に傷を負わせられる。
僕らがこの場に来た時からずっと……機を伺ってたのか。
してやられたよ……ゲンスイさん」
一陣の風と共に戦塵が晴れ、影の全容が明らかになる。濃紺の剣道着に、長く蓄えた白い髭。目は閉じられているのかと思うほど細く……全身に刀剣を携えた翁。
数多の流派を創った伝説の剣豪――斬影・ゲンスイ。
カルト山で死んだはずの彼が、悲しげな表情でそこに立っていた。
「シュウ君……ワシのことなど気にするでない。
ワシなどよりよっぽど蘇らせてはならん二人が――」
「分かってるよ。ゲンスイさん。……ずっと前から、十一年前から、分かっていたことだ」
ゲンスイの背後。床に転がるジャンヌの死体と……生きたジャンヌ。
そして……
「父さん……母さん……」
彼女の側に控える……緑眼で槍を構えた精悍な男性、全身に黒々とした魔具を取り付けられた栗色の髪の女性――ロウルとルオーラ。
シュウの、カイルたちの実の両親が……闇色の瞳をして、そこに立っていた。
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「ふむ……妾が死んで刺傷一つ、か。まぁ、よかろう。たった一つ骸を生み出しただけでそこまでの深手を負わせることができたのじゃ。戦果は上々、と言えるじゃろうのう」
ばん! と扇を開き、ジャンヌは口を大きく歪める。両の足で立つ彼女には傷一つ見受けられず、ドレスは一切の混じり気のない黒。足元に転がる自らの死体を一瞥し、ジャンヌはシュウを見やった。
「この状況の説明は……必要かの?」
「要らないね。終わってみれば何もかも……明白だよ」
「カッ! まっこと、至極その通りじゃな」
ジャンヌは魂を操る闇属性の使い手。人の魂を死体に入れ、蘇らせることのできる女だ。
ゲンスイと同時に奇襲を仕掛けてこなかったロウルとルオーラ。傷一つないジャンヌと死体が一つ。……状況がこれだけ揃えば、ジャンヌの立てた作戦など容易に想像がつくというものだ。
ゲンスイが遊撃の役を担っていたというのなら、ロウルとルオーラは運搬の役を担っていたのだろう――ジャンヌが蘇るための、新たな肉体の運搬の役を。そうしてジャンヌは自らの魂を肉体に入れ、蘇ったのだ。
生前と全く変わらない姿で。傷一つない……健全な姿で。
「さて、主を得た天使よ。思い出すのう。貴様と妾が初めて会敵した時のことを。
かつての日よりも少々役者が増え、変わった部分もあるが……やることは同じじゃ。十一年前の再現といこうではないか。貴様に家族を殺せるか? ……つまらない演目だけには、せんでくれよの。
さぁ、〝 コ ロ シ ア エ 〟」
冷徹で無感情な開戦の合図。ジャンヌが扇を振り下ろした瞬間、死人である三人が動き始める。
まず、シュウに一番近いところにいたゲンスイが攻撃を開始。左手には先ほどシュウを刺したレイピア。右手には大きく湾曲した三日月のような形状のククリ刀。二種の異なる刀剣を両手に、ゲンスイは摺り足でシュウに肉薄する。静かに、けれど素早く、重心を一切ブレさせない摺り足。完成されたその歩法はシュウの攻撃のタイミングを惑わせる。
「騎士剣・バルシャイン――――夜盗術・ドルア」
「ははっ。かつての王国の正統剣術とマリンたちの睡蓮以前の大義賊の扱うククリ剣術を同時に見れるなんて……世の剣術家が見たら目を疑うだろうね!」
音速を超える突き。視界の外から迫る首狩りの薙ぎ。競合するはずの無い二つの剣術、それらの創始者である剣聖は二種の技を殺すことなく、技のポテンシャルを最大限発揮させる。
が、攻撃の機会を失い、防御に徹したシュウに攻撃を加えることなど不可能だ。
音速を超える突きには、リボルバーの銃身で。首狩りのククリ刀には、左手の剣で。激突の火花と共に、甲高い金属音が鳴り響く。
「シュウ君――ワシらは意識こそ明瞭じゃが、身体の自由は全く効かん。器である肉体は強靭……その癖、剣の技術は晩年のものじゃ。ワシらは全盛期を遥かに超える力を以て、君を殺そうとする。心するのじゃ」
薄青の発光、ゲンスイの武器から水が炸裂する。顔面付近での水飛沫。水が瞳に入り、シュウの視界を歪ませる。
「暗殺剣・貫殺飛剣二連」
「炎槍・焔!」
水を払ったシュウの目に飛び込んできたのはゲンスイの手を離れた二種の刀剣と、炎を纏った槍の穂先。今から全ての攻撃を捌くのは困難だと判断したシュウは機械仕掛けの鋼鉄の翼に風を纏わせ、羽ばたき、強引に全てを吹き飛ばした。
そうして……新たに戦闘に参画してきた人物に目を向ける。
「父さん……」
「シュウ………………。大きく、なったな……」
苦悶と、悲痛。見ていて痛々しいほどに悔恨の表情を浮かべたシュウの父――ロウルは、心情に反して槍を構えた。
「そうだね……あれから、十一年経った。あの頃よりは強くなったし、大きくなった。そういう父さんは――変わらないね。十一年前のままだ」
「俺は死んでるからな。変わるはずもないだろう。……そうだ、シュウ。俺は……死んでるんだ」
「分かってる。分かってるよ、父さん。心配しないで。覚悟はできてる。でも……末期の会話を交わすくらいは…………いいでしょう?
話したいことが……たくさん、たくさんあるんだ」
ゲンスイ、ロウルが同時に動く。寂しげで、親を失った子供のような表情をしたシュウに対して……攻撃を行う。
身体の倍ほどもある巨剣と、炎を纏う槍。そして、
「シュウっ! 避けてぇっ!!」
心臓を狙った闇の光線。それはシュウの母……【創造】の闇属性の使い手であるルオーラが放った魔法だ。
全身を拘束するように取り付けられた痛ましい魔具。母が何をされたのか、どういう風にして、使えない魔力を取り出されたのか。
それを察したシュウは嫌悪感を露わにした後、母に向かって微笑む。
「〝大丈夫〟だよ、母さん。心配しないで。僕は――」
三位一体の攻撃がシュウに直撃。ロウルの爆炎がシュウの姿を覆い隠す。不気味な静寂。戦いの経験の無いルオーラが、息子を殺めてしまったと顔を青くする。
だが、
「でよったな……!」
爆炎の奥で燦然と輝く天使の輪。栗色の髪と緑の瞳を白に変え、非対称の翼を掲げる影。
【天使化】。
神父服と十字のロザリオを身に纏う異色の天使ーーシュウ。変化したシュウは暴風を生み出し、近距離にいたゲンスイとロウルを吹き飛ばしていた。膨れ上がる魔力。元々あるシュウの膨大な魔力がさらに肥大化。人の手におえる限界を超えていく。
「――僕は、あなたの産んだ天使だから」
清廉で、厳かな雰囲気。神聖な空気を纏うシュウ。異色な風貌ながら、絵画の中から抜け出たように美しく、淀みない姿に……ロウルとルオーラは息を飲む。銀縁の眼鏡を押し上げ、シュウは武器を構える二人を通り越し、ふわり、とルオーラの眼前に降り立った。
「シュウ……?」
「黙っててごめんなさい。この【チカラ】が、父さんと母さんから、家族から恐怖されてしまうんじゃないかって思って、言えなかった。
もし、ジャンヌが来る前に【チカラ】のことを明かしていたら……初めから全力で戦っていたら……結果は変わっていたかもしれない」
シュウは敵に囲まれたこの状況で、謝った。背後にはゲンスイとロウル。目の前にはルオーラ、ジャンヌがいる状況で。最低限の警戒は行っているものの、軽く頭を下げるという行為をしてまで、シュウは謝った。
それは、彼の抱える大きな後悔だったから。
シュウという男の人生には、常人には計り知れない後悔が幾つか存在する。その内の一つがこれだ。
あの日、有翼族という種族が滅んだ日、シュウは全力で戦っていなかった。家族が殺されるまで、シュウは己の天使としての【チカラ】を隠して戦っていた。
「僕は強かった。この天使としての【チカラ】を使わなくても……十分に。十分過ぎるほどに。
……僕は驕っていたんだ。
だから、母さんや父さんを殺してしまった。
僕の驕りで僕の愛する家族が失われたあの日のことを、僕は忘れたことはない。謝ってどうにかなることじゃないことは分かってる。それでも、言わせて欲しい。魂があり、意思がある父さんと母さんに聞いて欲しい。
…………ごめんなさい。父さんと母さんは、僕が殺したも同然なんです」
シュウは頭を下げ続ける。ロウルとゲンスイに動きは無く、粛々とシュウの謝罪を聞いていた。
ロウルは、ただ困惑していた。この状況での息子の謝罪に、終わったことだ、気にするなと流すにはあまりにも重い謝罪に……どう応えるのが正解なのか悩んでいるのだ。
昔から、そうだった。ロウルは戦うことは教えることはできても、それ以外の質問になるとからっきし。ダメなことを叱ることはできても、上手な許し方が分からなかった。
そして、ロウルのできない部分を補うのは……
「〝大丈夫〟」
いつだって、彼の選んだ妻だった。
「全部……〝大丈夫〟よ。〝大丈夫〟。
私たちはそんなことであなたのことを恐れたりしないし、責めたり……憎んだりしない。
天使になる……そんな【能力】のどこに怖がればいいのかしら? 素敵じゃない。天使みたいな私たちの子供が、本物の天使だなんて。遥か昔に滅んだ天使族……御伽噺の中にしかいない、とっても美しい種族だなんて。
それから……確かに【チカラ】を使っていたら、結果は変わっていたかもしれない。私たちや村の人も死ななかったかもしれない。自分は多くの人を殺めてしまった。そう思っているから、あなたは自分を責めているけれど、私たちは決して……あなたを責めたりしない。
あなたは真面目だもの。きっともう……充分過ぎるほどの罰を自分に与えて、贖罪をしているはず。それで充分よ。それ以上、苦しまなくていいの。憎むなんてもっての他よ。そんな感情、子供に対して持てるわけないもの。
不安なら何度でも言ってあげる。
あなたのことを、私たちは恐れない。
私たちの死の原因が本当にあなただったとしても、責めない。憎まない。
〝大丈夫〟。
私たちはずぅーっと、生きていた頃も死んでいる今でも……あなたのことを愛しているわ、シュウ」
場面が場面なら、ルオーラはシュウを抱きしめていただろう。彼女の無償の愛を、存分にシュウに注ぎ込んだだろう。
だが、今のルオーラはジャンヌの支配下に置かれている。己の意思で動くことはできず、その胸の内に息子と抱きかかえることもできない。不安がる子供に温もりを与えることもできない。
「……ありがとう、母さん。僕はずっと――――――――」
だとしても……ルオーラの愛情がシュウに伝わらないことにはならない。シュウにとってはその言葉だけで十分だった。
彼女の口から出るその言葉が救いだった。安心だった。望みだった。
ずっとずっと、シュウが求めていた言葉だった。
シュウの右眼から、澄んだ涙が一滴。
涙を流すべきではないと理解している。そんな資格もないことなど承知の上。
けれど、それは自然と零れ落ちた。無意識の内に涙を流すほど、渇望した言葉だったから。
天使の流した涙が頬を伝い、ふわりと空気に溶ける。
愛の証明は……シュウの後悔を一つ、消し去ったのだ。
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「素晴らしい劇じゃ。生温くて。上っ面で。とてもとても正視できぬ……素晴らしい見世物じゃったよ」
ぱち、ぱち、ぱち。三拍子の乾いた拍手。シュウとルオーラのやり取りを静観していたジャンヌが不躾に割り込む。
あからさまな皮肉を浴びせた後、ジャンヌはシュウたちに背を向ける。
そして黒のヒールで床を鳴らしながら、もったいぶった足取りで帝王の座っていた玉座のあった場所へ赴く。
「あまりにも稚拙で、幼稚じゃったゆえに、思わず手を出すのを忘れてしまっておったわ。
しかし……なんじゃ。喜劇というのはどうにも妾の性に合わんのう」
ジャンヌが足を止める。大きく損壊してはいるが、この部屋は玉座の間で、彼女の立ち位置が王の居た場所。
ヒールの踵を支点に回転し、玉座の間を一望するジャンヌは、黒扇を閉じてシュウを指し示す。
「――積年の苦悩は氷解し、家族の絆はより強固になった。
素晴らしい! 愛は全てを解決した! 愛の勝利! 愛! 愛! 愛! 愛による終幕じゃ!
愛はなんだって解決する! 愛があれば誰もが救われ! 愛があれば幸せになれる!」
言葉を唾棄するように吐き捨て、ジャンヌはシュウを睨む。重荷を一つ捨て、どこか清々しさを漂わせる天使に憎悪を向ける。
誰よりも憎悪が似合う黒衣の魔女は、さらに言葉を紡いだ。
「そんな平凡で現実味のない劇などつまらぬ。悲劇こそがこの世の現実。愛などどこにも存在しない!」
手に血管が浮き出るほど、ジャンヌは扇を握りしめる。無意識のうちに込めた魔力が具現化し、ジャンヌの憎しみに呼応するかのように、闇は激しく揺らめく。
「――――じゃから、劇を続けようではないか。喜劇でなど終わらせぬ。初めから……最初から決まっておったのじゃ。ここまでは前座。劇を盛り上げる……第一幕に過ぎぬのじゃよ」
憎悪を衣のように纏うジャンヌが笑みを浮かべた。
瞬間。
シュウの視界は反転した。
「っ!!!」
それは、反射的行動だった。
首を狙った斬撃を躱さんとして、大きく体を傾け、勢い余って一回転した結果だった。
ジャンヌに気を取られていたとはいえ、知覚できなかった。それほどまでに高速で鋭い斬撃。反射で対処する以外に対応できないほど、切羽詰まった一撃。後方へ退避し、攻撃の主を目にした瞬間、シュウの瞳は見開かれた。
「父さん……っ!?」
「初めに妾が言った通りじゃ。これは、十一年前の再現じゃと。多少役者は増えたがの」
攻撃してきたのは、ロウル。技術だけならばシュウよりも高みにいる斬影・ゲンスイではない。
シュウが驚いたのは、自らの父がここまでの脅威となる一撃を放ったことと、もう一つ。父の使っている【能力】にである。
大気中に散布されている魔力と己の魔力を合成することで魔力の鎧を作り、強大な魔力と常軌を逸した身体能力を手にできる【能力】。
ロウルの翼から頭までを覆う、赤く燃え盛る炎の全身鎧こそ、シュウも冷や汗を流すかの【能力】であることを明確に裏付ける。
戦闘系最強の【能力】――【龍醒】。
龍種のみが扱える【能力】を完璧に発動させた父が、そこにいた。
「脆弱な家族の絆に囚われた天使よ。もう一度問おう」
ジャンヌは闇で豪奢な椅子を生成し、深く腰掛ける。
あの日有翼族の村を襲った悪夢が、今再び訪れる。死んだ仲間と戦って、家族が家族を殺し合う地獄の演目。絶望という名の狂宴。
黒衣の魔女は扇を広げ、天使をも殺しうる己の手駒を見て、凄惨な笑みを浮かべた。
「貴様に家族を……殺せるか?」
二重の意味を持つ言葉と共に、第二幕が幕を開けた。