第百四話ー戻ってきたあの日常
「……」
「ぐがー……すー……ぴー……」
周囲は沈黙で満たされていた。
完全吸血、ひいては悪夢や初代国王に関する王家の秘密。そんな秘密に加え、ユナが誕生した壮絶すぎる経緯を聞き、何も言葉を発せなくなってしまったのだ。
当事者以外が口を開くことが許されないような、そんな空気。
カイルの健やかな寝息と、鼻ちょうちんが膨らんだり萎んだりする音以外は、何の音もしない…….静寂。
「姫の……いえ、貴女の中にユリシアは……もういないのですね」
「はい……シアは八年前のあの日、死んでしまいました。魔力や人格、記憶は混ざりましたけれど、意識だけは混じり気のないルミナスです」
ジュリアスが重い重い沈黙の中で口を開いた。
姫と言いかけて止めたのは、厳密にはユナがルミナスとは別の存在であるから。完全吸血とは、そういうものなのだ。
もう、元のような人間関係にはなれない。なってはいけない--故の、禁忌。
「とりあえずユナは私たちの娘になった、ということですね」
「はい、そうで……ってええ!?」
そんな中で空気を一切合切読まないのんびりとした発言をするのはフェルルだ。それは自身が関わるような深刻な場面であっても全く関係がなかった。フェルルの天然は無差別、いついかなる時にも遺憾なく発揮されるのである。
「何を驚いているのですか? さっきはお母さんって呼んでくれたじゃないですか。ジュリアスさんのこともお父さんって呼んだのを、私は聞いているんですからね」
「いや、それはその……言葉のはずみというか、そのですね……」
にっこり、となんの邪気もない笑顔を向けられ、ユナは思わず視線を逸らして言葉を濁す。助けを求めてジュリアスの方をチラリと見るが、彼も今のユナと似たり寄ったりと言った様子。戦闘時の頼りになる男の姿はどこにもなかった。
「ジュリアスさんもユナも、難しく考え過ぎですよ。
ユナの中にはルミナス姫様も、ユリシアも確かに存在しています。
だったらもう、私たちの娘でいいではないですか」
フェルルはそんなことを、何でもなさそうに言い放つ。
ユリシアは自分たちの娘。
ユナの中にはユリシアがいる。
ならば、ユナは自分たちの娘。
そんな滅茶苦茶な三段論法。悪いところに目を瞑り、自分たちに都合の良い解釈。良すぎる、と言ったっていい。
「いや……それでも、構いませんか」
ジュリアスは、そう諦めたように苦笑する。都合の良い解釈、結構なことではないか。ルミナスも、ユリシアも生きている。娘が目を離した隙にイメチェンしていた。そんな風に緩く考えたっていいではないか。
誰に被害を与えるでもなく、むしろ皆が幸せになれるような考え方だ。
だったら……それが答えだ。
「ユナ・フェルナンデス」
「は、はいっ」
ジュリアスはユナのことを自分たちの家名を込めて呼ぶ。
強い語気の篭ったその言葉に、ユナは反論する間も無く返事をしてしまった。
「八年間、お疲れ様でした。私は貴女のことを誇りに思います」
ジュリアスは微笑む。それは、ユナの中のユリシアの記憶と全く同じ。ユリシアにだけ見せていた……親としてのジュリアスの顔だった。
「で、でもっ……わた、わたし、は……」
ユナはその言葉に思わず涙ぐむ。
本音は嬉しくて仕方がない。
今にでも泣き出して、ジュリアスの胸に飛び込みたくてしょうがないのだ。
だが、ユナはそれでも自分にそんな資格はない、自分はユリシアを殺したのだという自責の念に囚われて、そうすることができないでいた。
「もう、しょうがない子ですね。
カイルさんからも何か言ってあげてください」
「ふごっ!?」
フェルルは人差し指でカイルの鼻ちょうちんを割る。
突然起こされたカイルは寝ぼけ眼で何も状況を理解していない。
そんなカイルの目は、今にも泣きそうなユナを捉えた。
「何で……泣いてんだ……ユナ……?」
「いや、こっ、これは……」
カイルとユナは同時に目を擦る。
カイルは寝ぼけ眼を、ユナは涙を誤魔化すために、だ。
「その……目に、ゴミが入ったと言いますか….…」
「泣くんなら、父さんと母さんのところで泣いてこいよ……ふぁ〜ぁ。
折角会えたんだろ…….?
そういう時は、ユナみたいに突っ立って一人で泣くんじゃなくて、親子で泣くんじゃないのか……?」
「……っ!」
カイルの言葉には全く説得力はない。
そもそも寝ぼけているカイルの言葉が胸に響く方がどうかしている。
それでも、彼はいつだって純粋だ。
複雑な事情など理解できない。バカだから。
そんなカイルが口にするのは単純なことだけだ。
「わたしは、あの二人の……子供じゃ……」
「……そんなのどうでもいいんじゃね?
フェルルさんなんて手を広げて待ってるしさ。
うだうだ考えずに……飛び込んでこいよ」
考えなし。無知。バカ。常識なし。バカ。
カイルを形容する言葉があるとすればおおよそこんな感じだ。だからたまーに、極々ほんの僅かな頻度で……真理を突いたようなことを言う。凝り固まった頭では考えもしない単純な核心を突いたりする。
バカのクセに、だ。
そんなカイルの言葉に説得力を感じるとしたらそれはまやかしだ。カイルに説得されたんじゃねぇ、あのバカの言ったことで俺が真実に気が付いたんだ! とは実験場でカイルに諭された弟の言葉だ。
諭されたと言えば、彼は決まって上記のように反論するのだが。
実際、カイルは何も考えていないし、思い浮かんだことをただ喋っているだけに過ぎない。
まともに取り合うのはバカのすることだと、ユナはカイルとの旅路で学んでいた。
ただ、肩の力は抜けた気がする。
リュウセイがそうだったように、カイルの言葉で何か大切なことをちゃんと見落とさずにすんだと、そう思う。
振り返ると、満面の笑みでフェルルが手を広げ、ユナが飛び込んでくるのを待ち構えていた。
そんなフェルルを、全くこの人は……と呆れ顔で、けど微笑ましく見守るジュリアス。
どちらもとても郷愁の思いを沸き立たせる情景。
八年経っても変わらない……両親の姿だった。
「ユナ」
「ユナ」
名前を呼ばれる。
とても優し気な口調で、娘に語りかけるような口調で。
せき止めていた涙が、とうとう決壊する。
大粒の涙が頬を伝い、鼻や頬は赤らむ。
もう、娘は自分の想いを言葉にするのを抑えられなかった。
「お父さん……っ!!! お母さん!!!!」
一歩。
ユナは大きく地面を蹴る。
ユナの全身は宙に浮き、空を泳ぐように両親の下へ飛び込む。
そんなユナを、二人の親はしっかりと抱きとめる。
もう二度と、離すまいとするように。
ユナと同じように顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら。
言葉を交わす必要はない。
ただ抱き合うだけで全ては伝わるから。
親子とは……そういうものだから。
綻んでしまった家族の絆を直すように、三人は……しばしの間抱き合うのだった。
――――――――――――――――――――
「お父さんたちはミカゲさんたちのところにいたんですか!?」
「いた、というよりは彼の住まいを拠点としていました。我々はなにせ大所帯ですので一所にいると、どうしても露見しやすいのです。
ので、彼の集めた情報を元に放浪生活を繰り返していたんですよ」
ユナとジュリアスは座したまま、お互いの近況を話し合っていた。もう涙や鼻水は引いていて、周囲に漂う空気も穏やか。
現在はどうやって八年間帝国の手から逃れられてきたか、ということに焦点が置かれて話が進められている。
「地上に逃れてきた私に、彼はすぐさま接触を持ってきました。異様とも呼べる速度に最初は警戒したものですが……今ではよい関係になったつもりですよ。
ユナの救出作戦を考え、私たちに協力を求めてきたのも彼ですしね」
「私の救出作戦……?」
「……ええ、実のところを言うと、私はユナのことを見捨てるつもりでいたのです」
ユナの目が驚愕に開かれる。
しかし、現実にはジュリアスは助けに来た。
話の続きを聞くために、ユナは黙って次の言葉を待つ。
「救出に行ったとして、第二部隊長ジャンヌにアザロ――現在はハクシャクと名乗っているのでしたか。彼らに加え万を越える帝国兵がユナの処刑を防衛している。助けに行ったとて、助けられる保証はなく、こちらが全滅する可能性の方が高い。
暫定的な吸血鬼の代表となっている私は、自分の娘のために皆さんを死地に送るような決断を下せませんでした」
ですが、とジュリアスは続ける。
「彼に発破をかけられましてね。唆された、と言ってもいいでしょう。『誰も死なさずに、ユナちゃんを助けられる……そんな方法があるなら、アンタどうする?』そのようなことを、言われたと思います」
神影がジュリアスに提案したのは、簡単に言えば囮作戦だったと言う。
カイルが真っ正面から大暴れし、その隙にジュリアスたちが逆サイドからユナに近付き、解錠する。
ユナが自由の身になれさえすれば、【転移】で逃走が可能だ。
よしんば、ユナにそれをするだけの魔力がないとしても、カイルとジュリアスでジャンヌとアザロを抑えれば、逃走はできる。
犠牲はジュリアスとカイルだけで済む、と言われたそうだ。
「確かに、魅力的な提案でした。
皆さんは普通の帝国兵に遅れを取るような人ではありませんし、失敗の対価は私の命とよく知らない誰かの命だけ。
それで娘の命が救えるのなら安いものだと思いました。
ただ、一つその作戦には問題があったのです」
この作戦の要と言える存在……それはカイルだ。
カイルがたった一人で処刑場に突貫し、ハクシャクまたはジャンヌを引き付けるという陽動の役目を果たして、初めてこの作戦は正常に機能する。
「カイル君を、私は信用できなかったのです」
カイルの実力は聞き及んでいた。
ウィルに始まり、アジハド、ダンゾウを下し、海龍と単独で戦い、ヴァジュラを撃退した有翼族の少年。
彼ならば、ジャンヌやハクシャクと戦ってもすぐに負けることはないだろうと、そう思えた。
「信用できないのはカイル君の実力ではなく、カイル君自身でした。
本当にユナを助けるために戦ってくれるのか、いざという時、自分の命欲しさに逃げ出したりしないかと疑ったのです」
だからジュリアスは神影を通じ、カイルを試した。
あのシュードラにある神影邸の屋根の上での神影とカイルとの問答。
カイルを行かせようとしたり行かせようとしなかったりと煮え切らない神影の態度にはこのような訳があったのだった。
「まぁ……結果的に助かったんです。わたしは文句を言いませんが……カイルさんには謝っておいてくださいね」
ユナはそうふてくされたように言ってのける。
しかし、ユナは思う。
謝られたとて、カイルは謝られた理由を理解できるのだろうか? いや、無理だ。間違いなく無理だ。
カイルに謝意を伝えようとして伝わらず、やきもきする父の姿を想像し、ユナは思わず笑みをこぼす。
「笑うような話ではなかったように思いますが……」
「い、いえ……っ、こ、こっちの話なので……っ」
ひとしきり笑った後、ユナは今まで抱えていた疑問をジュリアスにぶつける。
「お父さんたちはどうやってフィルムーア王国から脱出したのですか?」
フィルムーア王国。地下にある吸血鬼の国。
脱出口は王城の地下に一箇所しかなく、その場所にはハクシャクや他の純血貴族がいたはず……。
そもそも、別れ際に父は四人の純血の吸血鬼族と戦っていた。
その状況から一体どのようにして……。
「姫とユリシアたちと別れてから、ゴンさんたちが私に加勢してくださったんですよ」
「ゴンさんたちがですか?」
「はい。異種族の方や彼らと結婚された吸血鬼族の方々が加勢してくださり、私はなんとか彼らを打倒するそのことができたのです」
四対一では厳しくても、一体一ならば。
いくら完全吸血した吸血鬼であろうと、ジュリアスの勝利は揺るがなかった。
ゴンさんたちは余計な吸血鬼をジュリアスから引き離し、その状況に持って行ったのだ。
「その四人を倒した後、私は天井の一部を破壊し、ハクシャクが追って来る前に地上へ逃げた、という次第です」
「天井の一部を破壊……?」
「フェルルも言っていたでしょう?
わたしが地上からフィルムーア王国に入る時、岩盤をぶち抜いたと。出る時だって同じことをしたまでですよ」
確かに、フェルルは言っていた。
ぐーっ、ばぁーんと岩盤をぶち抜いたと。
しかし、それは正規ルートの方の話だと思っていた。
王城の地下の岩盤を、ほんのちょっと殴り砕いた程度だと。
というか、そうだと確信していた。
王国全土を覆う岩盤を、一部分とは言えぶっ壊すなど……考えに入れてすらいなかった。
父の規格外さに、ユナは唖然とした表情を浮かべる。
「それからは、ただひたすらルミナス姫とユリシアを探す日々でしたね……。帝国を騙し続けてきただけあって、見つけるのに八年もかかってしまいました」
「お父さん……」
遠い目をした父に、ユナは申し訳ない気分に駆られた。
八年間、ひたすらに自分を探し続けるだけの日々は、一体どれほど辛い日々だったのだろう。
来る日も来る日も……、ただ自分を…….
「ああ、いえ、それだけではないですね。
クルミさんを弟子にしてみっちり鍛えました」
「……え?」
ユナはクルミの方を向く。
八年の月日はあの可愛らしく、言葉を話すのもたどたどしかった幼女を立派に成長させたようだ。
そして八年間で、彼女はジュリアスに鍛えられた。
ルミナスとユリシアの二人、さらに二年間という期間でさえ、思い出すと虚ろな目をしてしまうほどの厳しい訓練だった。
それを、一人で八年間。
ユナはクルミに心底同情した。
「でも、クルミさんには悪いですけど……良かったです。お父さんも、八年間を元気にやってこれたみたいですし」
きっと辛かっただろう。苦しかっただろう。ただ、一人ではなかった。フェルルもいるし、ストレス解消のはけ口――もといクルミもいた。
誰かが隣に居てくれるなら、どんなに辛い状況でもどうにかなる。
他にやることがあれば、一つのことに思い詰めることもなくなる。
ユナはカイルたちと出会ってから……そう思うようになった。
「そういうユナも……良い人たちと巡り会えたようですね」
ジュリアスは再び眠ったカイルの方を見やる。
ジュリアスとは違い、本当にたった一人でユナを助けに来たカイル。
損得勘定を抜きに、命を賭けてユナを助けようとする男。
そんな風にユナを想ってくれる仲間との出会い。
それがなければ、ユナはこうして笑顔を……見せることはなかっただろう。
「……あ」
と、ここでユナはあることを思い出す。
自分が出て行くことになった原因。
マリンの……自分を見つめる悲しそうな瞳を。
「カ、カイルさん!」
「ん……あ……? なんだ……お前、まだ泣いてんのか……? さっさと二人の胸で泣いて……」
「その段階はもう終わりましたから!
カイルさん、カイルさんはマリンさんに何と言ってここまで来たんですか!?」
「………………………………ぁ」
カイルの眠たそうな目が一瞬にして開かれる。
そして、小さな掠れ声と共に顔面を埋め尽くすほどの冷や汗。
マズイ、どうしようとユナに語りかけるような瞳。
勝手に抜け出してきましたね、とユナは最悪の想像が当たってしまったことを悟る。
「ど、どうすればいいユナ!?
俺はまだ死にたくねぇぞ!?」
「わたしだって死にたくなんかありませんよ!」
「じ、じゃあどうする……?」
「ど、どうしましょう……?」
二人は泣き出しそうな目で同時にジュリアスを見た。
どうしろというのか。
彼は全く事情を知らないというのに。
「はい……?」
とりあえず事情を説明してくださいと、ジュリアスはため息を吐きながら娘たちの助けに応じるのだった。
――――――――――――――――――――
「つまり、カイル君のお姉さんが怖いので、帰るに帰れないと」
「どうしましょう……わたし、マリンさんになんて謝れば……。それ以前に……わたしは、本当に帰ってもいいのでしょうか……?」
「だ、大丈夫だ! 俺が絶対にユナを独りになんてさせないから!」
カイルがなんの解決策にもなっていない慰めをしていると、ジュリアスは懐から折りたたみ式携帯電話を取り出した。
所謂、ガラケーというやつだ。
携帯電話のない世界にも関わらず、慣れた手付きで彼はある番号を入力していく。
数コール後、電話は繋がった。
「もしもし、こちらジュリアスです。ミカゲさんですか?」
どうやら相手は神影のようだ。
暫くはい、とか了解しました、などの応答が続き……。
「分かりました。それでは今からそちらに帰還します」
『おう、待ってるぜ』
ブツッ、とジュリアスは電話を切り、携帯を畳む。
「今のは……?」
「通信用魔具にちょっと手を加えただけのものですよ。ミカゲさんと通話してあちらの状況を聞いていました。
あちらに戻っても何の問題もないそうですよ」
「え……?」
一体それはどういうことなのか。
ユナが問いただす前に、ジュリアスはぱんっ、と手を叩いて周囲の注目を集める。
「皆さんこちらに寄ってきてください。
転移により、我々はシュードラの街に帰還します。
飛べる人は飛んで、できるだけブレスレットの拡大を小さく済むようにしてください」
「えっ、ちょっ……!」
吸血鬼やその他種族が入り混じった彼らはジュリアスの指示に素早く従う。
八年間の逃亡の経験が、彼らに命令遵守、迅速行動を植え付けていた。
結果、ユナの声は無視され、転移の準備が整ってしまう。
「さぁユナ、転移をお願いします」
「いや、だから、その……」
「お願いします」
「……はい」
ユナは自身の意見を諦め、ブレスレットを上空に転移させる。
ハクシャクから逃げた時と、転移の状況は似ている。
違うのは、あの時は鬼から逃げたのに対し、今回は鬼の前に飛び込むようなもの。
どんな罰でも受けよう、そんなことを思いながらユナは転移を開始するのだった。
――――――――――――――――――――
ユナが転移先に選んだのは、シュードラの街の目の前。平坦な地だ。
転移したユナたちはシュードラの街に向かって歩き始める。
その集団の中、ユナとカイルの足取りだけが重い。
負い目、引け目、恐怖。
様々な負の感情を感じながら、二人は地面を踏みしめ歩いた。
シュードラの街の目の前に立ついくつかの人影が、ユナたちの視界に入る。
ある人物がその中にいると分かると、ユナの足は止まり、つられて他の者も立ち止まる。
ある人物とは、勿論マリンのこと。
シュードラの目の前にいたのは、神影、マリア、ジャック、リュウセイ、マリンの五人。
マリンは……ジャックを盾に、隠れるようにしていた。
が、ジャックの小さな身体ではマリンの身体は全く隠れきれていない。
誰かと顔を合わせるのが気まずい、とそう述べている顔も衆目に晒されていた。
ユナも、マリンも、お互いに目を合わせることをしない。
吸血鬼たちと神影たちの両陣営は任侠たちの抗争前のように向かい合ったまま、動けないでいた。
ユナも、マリンも……言葉を発さないといけないことは分かっている。
だが、言葉が出ない。思うように、動いてくれない。
そんな沈黙を破ったのは……
「あれ? リュウセイいるじゃねーか。お前帰ってきてたのか?」
やはり、このバカしかいない。
沈黙を完全に無視し、久し振りに会う弟に歩み寄っていく。
リュウセイの額にはくっきりと青筋が浮かんでいた。
そんな空気をまるっと知らんぷりして寄ってくるカイル。リュウセイは【形態変化】で翼を広げた。
そして、さらに重ねて【形態変化】。
翼の周囲の上半身から頬の辺りまでを黄金の鱗が覆い、尻尾が生えてくる。
カイルを見る冷たい瞳は、縦長になっていた。
「こんっの、バカイルが!」
「うおおおおおおお!?」
一閃。
カイルはすんでのところで回避し、リュウセイから大きく距離を取った。
「何すんだ!!!」
「ハッ! こっちの台詞だバカイル!
テメェの頭ん中にゃ、なんにもつまってねぇのか!
詰まってねぇんだろうなぁ!」
「な・ん・だ・とぉ! このチビホシ!!!
人がせっかく心配してやってたかもしんねぇのに! ぶっ飛ばすぞ!!」
カイルも【形態変化】。不死鳥を模したあの姿に。
「ハッ! 来いよ、返り討ちにしてやんぜ!!」
「「上等だコラァ!!!!!」」
二人は変異状態のまま、喧嘩をおっぱじめる。
雷と炎が今までにないくらいの激しい衝突を見せ、大地が砕かれたり斬られたりで、地形が若干変化しそうである。
だが、バカが狙ってやったかどうかは別にして、空気は変わった。
それはつまり、二人が歩み寄るキッカケができたことに他ならない。
ジュリアスはユナの、ジャックはマリンの、肩を押し、前に出させる。
「わっ……」
「あう……」
よろめきから立ち直った二人は、この時初めて視線を合わせる。
お互いの瞳を、見つめる。
ユナの頭の中で、悲しみとか憎しみをないまぜにしたあのマリンの瞳が蘇ってくる。
マリンの頭の中にも、悲しくて、辛そうなあのユナの瞳が蘇る。
二人はやはり硬直してしまう。
何も言葉を交わしていない二人だが、既に泣き出してしまいそうな表情をしていた。
押し黙ったまま、時間だけが削られるように流れていく。
そして、
「ごめんなさい……っ」
最初に行動を起こしたのは、なんとマリンだった。
腰を直角に曲げ、ユナに向かって深く……謝罪の意を示した。
「酷いこと言って…….ごめんなさい。
あたし……本当に自分勝手で……フィーナが死んで……いっぱいいっぱいで……ユナちゃんのこと……傷つけた……っ」
マリンは、帰ってきた。
あの精神を病んでいたマリンはもういない。
悪戯好きで、人をからかうようなことが趣味で、強くて、ちょっぴり怖い皆の姉。
だが、その心根はとても真っ直ぐ。
“あの日”の、……フィーナが死ぬ前のマリンが帰ってきたのだ。
「そんな……原因は、やっぱりわたしだったんですよ……!
マリンさんが謝ることじゃ……ないです。
わたしの方こそ……ごめんなさい……っ!
わたしがいなければ……フィーナさんは……」
ユナは唇を強く噛み、マリン同様に腰を折る。
深い悔恨と、フィーナの死の原因となってしまった罪悪感が言葉の端々から感じられる。
するとマリンが起き上がり、
「違うわ! 見つかった原因は……ユナちゃんじゃなかったの!
ヴェンティアの時から……あたしたちは見張られていて……」
今度はユナが起き上がり、
「いえ、それでもわたしのせいです!
遅かれ早かれ……ハクシャクに目を付けられたわたしは……皆さんに危険を……」
「そーこまでや、お二人さん」
額をくっつけてまで謝罪合戦を続けようとする二人の間に、ジャックが割り込む。
低身長なジャックでは二人の間に割り込むのは困難であったので、地面を隆起させて足場にしていた。
「二人とも、自分を責めてもらいとーてしゃーないみたいやけどな。
ごめんなさいして、いえいえこっちの方こそ、をいつまでやってても終わらんて。
もう不和はなくなった。
お互いのことを恨んでへん。それでもうええやろう?
帰ろうや、ワイらの場所に」
ユナとマリンはお互いの瞳を見る。
そこには、一種のトラウマともなっているあの瞳はない。
ただ、涙を瞳の端に浮かべた少女がいるだけ。
二人はゆっくり、笑顔を浮かべた。
端から見れば、ぎこちなく写ったかもしれない。
それでも、笑いあえる。
そんな関係が戻ってきた、と二人は強く感じていた。
ジャックは二人に割り込むために伸ばした胸に当てた手を戻す。
もう大丈夫、もう……問題はない、とジャックが安堵の吐息と共に腕を組んだ瞬間、ジャックの頭に鋭い痛みが走った。
「あいだだだだ!!!?」
「それはいいんだけど……ねぇジャック?
今、あたしたちの胸を押して割り込む必要があったのかしら?」
マリンの悪魔じみたアイアンクロー。背筋に悪寒を感じる笑顔付き。
ジャックは引き笑いで、無様に弁明しようとする。
「い、いやぁ……ワイ小柄やから手を伸ばした位置に偶然胸があったっていうか……」
「こんな足場まで作っておいて?」
アカン、これは無理や。
とジャックは瞬間的に悟り、全てを吐露することにした。
「右手が幸せでした」
「一回死になさい! この女の敵!!」
「ジャックさんのエッチ!!」
右側(山脈)と左側(絶壁)からのぐーパンチ。
ジャックは錐揉みしながら飛んでいった。
「プロミネンス・マグナム!!」
「七星流・陸の型・天満星!!」
カイルとリュウセイの喧嘩は続き、
「ねぇ、ユナちゃんの胸はどうだったのよ」
「いや、もうなんか肋骨を触ってるみたいな感じで……感触とかは……」
「誰が絶壁ですか!」
「いや、そんなん言うてなごはぶっ!?」
ユナはジャックとマリンに弄られる。
騒がしくて、煩くて、懐かしい。
カイルが望んだ“あの日”の日常が、確かにそこにあった。
もう二度と、この日常を壊しはしない。
壊させてなるものか。
カイルたちは心の中で、そんな決意を固めるのだった。