第百三話ー命の味、魂の味、シアの味
転移。
ユリシアはルミナスとゲッズウルフの間に転移した。なけなしの魔力を全て振り絞り、ほんのわずかな距離を跳んだのだ。
それは、父が伝えた役目を果たす為。
国王が念押しした役割を果たす為。
ルミナスを、守る為。
彼女は大きく手を広げ、自身の意志でゲッズウルフの前に立ちはだかったのだ。
三体の炎に包まれたゲッズウルフ。その牙が、深々とユリシアの身体に食い込んだ。右肩、腹、左太腿。
牙が肌を突き破り、肉を捉えていく感覚をユリシアは感じていた。それは、間近で見ていたルミナスも同じ。
筋繊維を突き破る音、ミシミシと鳴る骨、熱気、溢れ出る血。知覚情報は脳に伝達され、伝達された情報はリアルな感覚となってルミナスに降りかかる。
それは共感覚と呼ばれるものだ。
他人がタンスの角に頭をぶつけるのを見て、自分も痛みを感じたように顔を顰めてしまう感覚と同じ。
知覚が鋭いルミナスは、その共感覚も強く、ユリシアの痛みを強く感じているのだ。
しかし、それでもそれはあくまで共感覚。
いくらルミナスが震えていようと、怯えていようと、実際に傷ついているのは……ユリシアだ。
急激に血液が失われたことで、ユリシアの頭は朦朧としていた。
元々ユリシアは体力も魔力も限界まで枯渇していた。
いつ倒れてしまってもおかしくなかった。
そんなユリシアにダメ押しするかのようにゲッズウルフはその口を閉じていく。
炎に包まれたゲッズウルフの牙はまるで焼きゴテのように熱い。
牙がユリシアの身体の奥にまで突き刺さり、周囲の肉を焼く。
まるで熱された五寸釘を身体に打ち付けられているよう。
肉の周りの神経が焼かれ、とんでもない激痛がユリシアを襲う。
血は焼かれたことで固まっていく。
しかし、それをものともしない速度で破れてはいけない動脈が裂かれ、大量の血が滴り落ちる。
――あ、これはもう……ダメ……
咄嗟にユリシアがそう思うのも、仕方がないほどの出血量。
だからユリシアは、ゲッズウルフに噛まれたまま、ルミナスの方を振り返る。
唯一無二の、
最高の、
最愛の、
親友の姿を見て、微笑む。
「シア……シアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」
ゲッズウルフが、絶命する。
ユリシアにもたれかかるように命を散らした狼たちの重さで、彼女は地面へと倒れこんだ。
――――――――――――――――――――
「シアっ! このっ、邪魔よ!!!」
ルミナスはユリシアに噛み付いたまま死んだゲッズウルフを引き剥がす。
ジュウッ、とルミナスは自分の手が焼ける音を聞いたが、構わない。
血だらけになったユリシアをルミナスは抱える。
「シアっ、シアっ!!
待ってて、今……止血するから!!
魔力もあげなきゃ……絶対、絶対助けるから……っ!!」
――止血、止血……、っ!
傷口が焼けて、血はどーんと止まってる!
良かった! これならなんとか…….!
ルミナスはユリシアの魔力を回復させようと首元に噛み付こうとする。
まだ助かる、酷い怪我ではあるが、命まで失うことはない。
そう思い、そう思い込んで、ルミナスは魔力を送ろうと牙を首筋に突き立てた。
と、そのルミナスの額を誰かの手が押さえる。
「っ、シア!」
「……め、…………す……」
すぐさまルミナスは牙を離し、ユリシアの顔を覗き込む。
その黒い目はまだ光を携えていて、ユリシアという意識を保っているようだった。
「シア! どーんと大丈夫よ!
血は止まってるから、助かるの!
今すぐ魔力を送るから、ちょっとだけ待って―――」
「ダメ……です、ルナちゃん。ダメ……です……」
「……え?」
ユリシアの口から出たのは、否定の言葉。
ルミナスからの魔力譲渡を拒否する言葉だ。
今にも死にそうなほど苦しそうな顔をしておいて、どうしてそんなことを言うのかルミナスは理解できなかったが……。
「血を、流しすぎました。もう……無理です。
それに……わたし……水が怖いん、です。
この、意味が……分かり……ますか?」
「……まさか」
ルミナスは震えながら顔を上げ、あるものを見る。
それは、一番初めに仕留めたゲッズウルフ。
不自然なほど水を怖がり、決して水に触れたまま死のうとしなかった狼だ。
「精霊、病……そんな、そんなの……」
モンスターが発生させるという、珍しい種類の伝染病がある。
その内、最も有名なものは精霊病と呼ばれる病だ。
この世界の精霊とはモンスターのこと。
水精霊、風精霊、火精霊、土精霊、雷精霊の五大属性の精霊のことだ。
この五種のモンスターのいずれかを体内に取り入れることで、精霊病は発病する。
体内に入った精霊の一部は、宿主の魔力を糧に成長し、やがてその精霊のカケラは宿主の体内で完全な姿となり、宿主の命と引き換えに体外に現れるのだ。
精霊病とは、要するに精霊たちの繁殖行動である。
精霊たちは近くのモンスターに自らを食わせ、そのモンスターの体内で精霊のカケラが成長し、新たな精霊が誕生する。
しかし、精霊を直接食らうだけでなくとも、精霊が体内に侵入することはある。
それは感染したモンスターにより、移されること。
今回の例で言えば、精霊病に感染したゲッズウルフがユリシアを噛んだことにより、精霊病が発病した。
そして、精霊病の最も大きな特徴はその繁殖力である。
精霊病に感染した生き物は他の生物に精霊病を感染させることにより、多少自身の症状が軽減される。
自身の中の精霊のカケラの一部を移すことによってだ。
その為、感染した野生のモンスターは死に物狂いで獲物に噛み付こうとするのだ。
例え、火達磨になろうとも。
「水が……怖いということは……この、精霊は……水精霊、ですかね」
もう一つの大きな特徴、それは体内の精霊の属性に対する恐怖感である。
体内の精霊に命を蝕まれていることを本能的に察し、その精霊の属性に対する過剰な恐怖が引き起こされるのだ。
故に、ゲッズウルフたちは水を怖がった。
火達磨になっても、水に入ろうとしなかった。
「ば、バカなこと、言うんじゃないの!
待って、精霊病のお薬を、どーんと取ってきてあげるから……っ」
しかし、そんな恐ろしい精霊病にも、治療方は存在する。
むしろ存在していなければ、この大陸は精霊に占拠されてしまうだろう。
精霊は身体のほとんどを五大属性の魔力で形成されている。
【魔力喰い】などで魔力を喰えば、精霊のカケラは消失し、精霊病は完治するのだ。
が、
「む、だ……です、よ」
ユリシアは、力無く首を横に振る。
穏やかで、全てを受け入れた表情だった。
「な、何が無駄なのよ!! 精霊病は治る病気なのよ!!
何なら今から私がどーんと吸い出したって……」
「精霊病が治っても……わたしは、もう……ここまで、ですから。
言った、でしょう? 血を……流しすぎました……。
助かり…….ませんよ」
「助かるの!! 助かるの、よ!!!
や、よ……死なないで……お願い、お願いよ、シアぁ……っ!!」
ルミナスの瞳から、とうとう涙が零れる。
ルミナスだって理解してしまっているのだ。
彼女だって吸血鬼……ユリシアの出血量が致死量かそうでないかぐらい……分かる。
それでも、認めたくない。信じたくないのだ。
「どうすれば、どうすれば、いいのよっ! 独りは嫌! 独りはどーんと嫌!!
死なないで!! 死なないでよ!!
死なないでよぉ……シアぁ……っ!!!
お願いだから、側に居てよ……私独りじゃ……何にもできないの……っ!!」
飴玉のような大粒の涙が頬を伝い、ユリシアの顔に落ちていく。
それはユリシアを失ってしまうという恐怖の他に、もう一つの感情が込められていた。
もし、あの時ちゃんとゲッズウルフにトドメをさせていたら。
もし、ユリシアに守られることなく対処できていたら。
そんな自責の念がルミナスを追い詰める。
「私が、もっとちゃんと戦えてたら……こんな……こんな、ことには……っ!」
「過ぎたことを……嘆いたって仕方ありません、よ……それより、ルナ、ちゃん……最期に二つ、お願いが」
「最期なんて言わないで!! 死なない……シアは絶対、死なないんだから!!」
ルミナスは、ユリシアの話を聞こうとしない。
かと言って、命を繋ごうとする努力もしない。
泣いて、喚いて、嘆くだけ。
黒髪を振り乱して、涙を流して、顔を歪ませて、悲しむだけ。
――なんて、感情豊かな人でしょう……。
わたしのために、こんなに泣いてくれる。
でも、わたしが死ぬことは、ちゃんと理解してます。
受け入れられないだけで、ルナちゃんは、分かっています。
優しくて、懐が深くて、お転婆で、笑顔が素敵で、時々強引で、わたしの自慢の親友。
とっても立派なお姫様……いいえ、女王様。
ルナちゃんが治める国は……きっと幸せな国になります……。だから……
「わたしは、ルナちゃんの……力になりたいです。これからも、ずっと……」
「あた、当たり前じゃない! ずっと、ずっと一緒に―――」
「……だからわたしを、吸い尽くしてください」
動きが止まった。ルミナスの目が見開かれ、大粒の涙を流したまま、信じられないものをみるかのようにユリシアを見つめる。
だが、ユリシアは目を逸らさない。
覚悟を称えた黒目が、ルミナスを写す。
「完全吸血は……相手の力を、得る術だった……わたしの認識、合ってますよね?
わたしの闇は……必ず、ルナちゃんの助けになります……。
たった、一回きり……守って死ぬより……わたしは、これからもルナちゃんを守り続けていきたいん、です……。
ずっとずっと……誰よりも近くで……。
だから、ルナちゃん……お願い、します。
わたしを、完全吸血してください」
完全吸血。
相手の力を、記憶を、経験を、そっくりそのままーー否、それ以上に自らのものとする吸血鬼族の秘術。
しかし、その実態は……
「ダメ、ダメよ、シア……。それだけは……ダメ……っ!
わたし、お母様から聞いたの……完全吸血っていうのは……」
吸血とは血を吸うものではなく、相手の魂を喰らうもの。
完全吸血とは……相手の魂と自分の魂を混ぜ合わせる禁忌の術。
そのようなことを、ルミナスが母親から教わったことを、話す。
「完全吸血は、絶対にしちゃいけない禁忌。
もし、それをしてしまえば……私は私じゃなくなる。
ルミナスでもあって、シアでもある。
ルミナス・ヴィルヘルム・ヴァンパイアでなくて、ユリシア・フェルナンデスでもない……そんな、曖昧でよく分からない存在に……どーんと……」
尻すぼみに声が小さくなっていく。
絶対にしてはいけない禁忌。
母親とした約束。
魂に刻んだ……絶対に完全吸血をしないという約束が、ユリシアの願いを拒絶する。
「王様は……その禁忌を犯してでも、国を守ろうと……しましたよ?」
「っ!」
脳裏に浮かぶ、両親の最期の姿。
父親であり、母親であり……。
アダムであってエリドーラでない存在の姿を思い返す。
死の覚悟を持ち、ハクシャクに挑んだ二人の背中を。
禁忌を犯してまで国を守ろうとし……ルミナスとユリシアを守り抜いた二人の背中を。
「ルナ、ちゃん……っ。 わたしを完全吸血しても、意識の混同なんて……起こさせません。
わたしは……“ユリシア”という意識はここで死にます。
わたしが、ルナちゃんに悪い影響を与えるなんて……絶対にありませんから。
これで……王妃様の心配するようなことは起こりませんよ。
だから、安心して……吸ってください。」
「そーいう問題じゃないの!
違うのよ! 私はシアを吸いたくなんかない!
お母様との約束がなくても!
どんな人にやれって言われても!!
そんなのっ、どーんと嫌なんだから!!!!」
ルミナスは両手で瞳を押さえて咽び泣く。
親友を見殺すか、自分の手で殺すか。
ルミナスに委ねられているのはこの二択だ。
どちらにしても、ユリシアは死ぬ。
だが、後者なら……ルミナスは途方もない力を手に入れられるが……。
「そんな、親友を殺して得る力なんて、私は嫌!!
そんなの……私……耐えられないっ!!」
ルミナスは、優しい。
慈愛に満ちて、天真爛漫で、国民のことを誰よりも親身に考えている。
こんな答えの決まった二択にも、答えを決めきれずにいる。
だから、だからこそユリシアは……
「最期のお願いの……二つ目を言いますね」
血を吐きながら、死に瀕していながらでも……落ち着いていられる。
後を任せられるから、安心できる。
「嫌、嫌よシア!!
そんなのって、ない……!!
そんなの、できるわけ―――」
「皆さんを、助けてください。
それがわたしの、最期のお願いです」
「―――っ!」
ズルい。卑怯だ。
ルミナスはそう思った。
そんな言い方をされてしまっては、ルミナスは決断するしかなくなる。
王族として、国民を守ることは自分の命を賭して実行しろと言われてきた。
ルミナスはそれを信じているし、アダムは実行して見せた。
ハクシャクの前で、国は渡さないとさえ宣言した。
必ず国を取り返すと誓った。
王は私だと啖呵をきった。
ルミナスにとって、ユリシアの言う“皆さん”はどんな手段を使ってでも守らなければいけない存在なのだ。
ユリシアがルミナスを最優先にしたように。
ルミナスは国民を最優先としなければならない。
それが、ルミナスの役割だから。
それこそが、父が、母が、ジュリアスが、ユリシアが……ルミナスに望んだことだから。
だから、ズルい。卑怯だ。
国民を持ち出されてしまっては、ルミナスは自分の感情を優先できなくなる。
自分を犠牲にしてしまう。
為政者としての教育を受けたルミナスは、国民を引き合いに出されてしまうと合理的な決断をしてしまうのだ。
ユリシアは、何も言わずにルミナスの瞳を見つめる。
そして、目だけで語りかける。
『皆さんを、頼みます』
それはルミナスを焚きつけ、自身を吸血するように仕向ける言葉であったが……何より、ユリシアの本心を表していた。
涙で瞳を潤ませながらも、ルミナスは瞳を反らせない。
ユリシアの意志を、願いを……聞かなかったことになどできない。
「うっ、ふっ、ぅ……うううううう!!」
だからルミナスはユリシアの首筋に……
牙を、差し込んだ。
――――――――――――――――――――
――“哀しい”。
シアの血の味は相変わらず“哀しい”。
胸が締め付けられて、どうしようもなく“哀しい”。
そこに不純な要素は何一つなくて、たった一つの“哀しい”だけが、どーんと喉の奥を通って行く。
これが、シアの魂の味。
『誰も……かない……』
な、なに……この声……誰?
『もう耐え切れん。もう限界じゃ。
儂はもう……ここで終わりじゃ。
【空間】を捨て、【時間】を捨てて……儂は―――』
っ、頭の……中に、なに、この情報……!
誰よ……この声っ!!
違う………………違うっ!!!
シアじゃない!! この魂はシアじゃない!!
どうしてだろう、そんなこと、今まで考えたこともなかったのに……。
こんな、こんな時になって……なんで?
知りたい。どーんと知りたい。
シアのことを、もっと……。
もっと奥に、もっと深く……シアを本当のシアのところにまで……私の牙を……っ!!!
私の牙がその内奥に届いた瞬間、“哀しみ”は消え、鮮やかな味が口いっぱいに広がった。
多分、魂の表層を吸い尽くして、人格や経験を含んだ部分にまで、牙が届いたのだろう。
記憶が、私の中に流れこんでくる。
護身柔拳が私の身体に蓄積されていく。
シアの気持ちが……わたしと同化していく。
きっともう、性格も混ざり始めてる。
何もかもがないまぜになって、ルミナスでもシアでもない何かになっていく。
それでも、わたしはそんなことを歯牙にも掛けない。
シアの血を、シアの命を、噛み締めるように吸う。
多分、これが本当のシアの血の味。
本当の……魂の味。
あぁ、心地良い。
なんて落ち着く味なんだろう。
儚くて、芯の強い、どこか矛盾した最高の親友の味。
すとん、とわたしの中に落ちてくるよう。
もう……後戻りはできない。
だからせめて、しっかりと味わおうと思った。
シアの血の味を。
命の味を。
魂の味を。
絶対、絶対忘れないように。
わたしの親友の献身を、想いを、絶対、絶対忘れないように。
絶対、絶対……どーんと。
おいしくて、悲しくて、辛い。
泣きながら、血を吸う。
吸った分と同じ量の涙が流れていく。
終わったら、立ち上がるから。
今だけ、今だけは……いいでしょ?
……きっと、皆さんを救ってみせますから。
――――――――――――――――――――
洞窟の中で一人、蹲っていた少女が起き上がる。
先ほどまで涙で顔を腫らし、魂合成の痛みに呻いていた彼女だが……その佇まいは凛としていて、万全の様子と言ってよかった。
純白の翼と対をなす漆黒の翼。
烏の濡れ羽のように艶やかな黒髪。
闇の色と血の色のオッドアイ。
鋭く尖った犬歯。
そんな誰かと誰かを継ぎ接ぎしたような風貌をした彼女は……美しかった。
凛とした出で立ちだが、纏う空気は儚げ。
触れてしまうと壊れてしまいそうでありながら、気品ある強さも感じる。
矛盾を体現したような吸血鬼は、自身の手を見て、呟く。
「【転移】……じゃ、ありませんでした。
シアの【チカラ】は……もっと強力なもので……っ!」
少女は自分の胸を押さえる。
息は荒くなり、押さえている胸が青く輝き始める。
「精霊病……! 水精霊……っ!」
ルミナスはユリシアの血を口にした。
つまり、精霊病に感染してしまったのだ。
それだけなら問題はなかった。
問題は急激に増えた魔力と、それを糧とする精霊のカケラだ。
本来、宿主の魔力を少しずつ、数%ほどずつ侵食していく精霊のカケラ。
しかし、今回の場合その数%で精霊と成るのに十分過ぎるほどの魔力量だったのだ。
このままでは、少女の胸を突き破って水精霊が出てくるだろう。
「【転移】」
が、それは常人だったらの話。
ユリシアの闇属性を手に入れた少女はブレスレットを媒介せずに水精霊だけを体外に出した。
「キュュゥォァああァアああぁアあ!!!!」
現れた水精霊は、巨大だった。
少女の大量の魔力を摂取したことにより、通常ではあり得ないサイズとなったのだ。
体長、約十m。身体はスライムのような水性のナニか。
頭、とそう呼べるような物体から地面に向かって細い触手が何本も絡まりあって太い一本の触手となり、足の役目をしている。
その胴体とか足とか呼べそうなよく分からないものからも触手が大きく広がり、少女を囲む。
頭には目がなく、球状の下部がぱっくりと裂け、口のようになっていた。
横に広げた触手も体長に加えるなら、五十mはくだらないだろう。
普通の精霊が人間と同サイズであることを鑑みれば、このモンスターの異質さが分かるというものだ。
そしてこの馬鹿げたモンスターは、目の前の少女を捕食するつもりだった。
「シアを最後に苦しめた水精霊……あなたは、どーんとわたしが……」
常人なら、怯えて一目散に逃げ出すような場面。
命すら、諦めてしまうような場面。
ゲッズウルフ程度では比べようもないほどのモンスター。
それが今の水精霊だ。
恐らく、竜種とも互角に戦えるだけの力があるだろう。
それでも、そんな状況でも……少女は全く、これっぽっちも動じていなかった。
ただ、少し悲しげな表情で水精霊を見つめるだけ。
ユリシアを追い詰めた原因の一つである相手だ。
普通なら、憎しみの一つも向けそうなものである。
普通なら……である。
つまり、少女はそう思っていない。
「いいえ、あなたに当たるのは筋違いですね……シアを殺したのは、わたしなんですから」
少女は、ユリシアの死を自分の所為だと思い込んでいる。
自分が不甲斐ないせいでユリシアが死に、こんな結末になってしまったと、そう本気で思っているのだ。
ゆえに水精霊は憎しみの対象ではなく、自らの無様を思い出させる相手にしか、なり得ないのだ。
「それでも、あなたを生み出してしまった不始末は……わたしがどーんと着けます」
少女は腰の斜め前あたりに両手を出し、掌を上に向ける。
少女の腕には元々身に付けていた腕輪と……ユリシアのものだったブレスレットが嵌められている。
次の瞬間、少女の腕輪とブレスレットが同時に光を放つ。
火の赤色と、闇の黒色。
その二つの光は糸状になり、ゆっくりと絡まり合っていく。
少女の顔は険しい。
生まれて初めて行う魔法の合成にかなり苦心しているのだ。
本来、合成魔法という超高難度の魔法は一発では成功しない。
が、それでも魔法が紡がれ、完成に近づいているのは……ジュリアスがいたおかげだろう。
彼の操る合成魔法をユリシアとルミナスはずっと見てきた。
その経験が、見様見真似であっても合成魔法を紡がせているのだ。
ましてその経験は二人分ある。
才能も二人分ある今の少女なら……
「……できました」
一発で成功させるのも、納得と言えるだろう。
両掌の上に燃ゆる黒炎。
炎という器に闇というものを押し込めたような魔法。
不定形ながら闇に器が与えられた。
闇の合成魔法……大陸で初めて行われたその絶技は放ったときにどうなるか、想像もつかない。
現在、放たれる対象となっている水精霊は怯えていた。
あの手乗りの黒炎に込められた……常軌を逸した魔力に。
しかし、自分は空前絶後の水精霊。
歴史から見ても間違いなく最強の精霊だ。
その矜恃が、折れかけていた水精霊に闘争心を与えた。
「キュュウォアぁあアぁあァアあッ!!!」
五十本あまりの触手、一本一本が丸太のように太いそれを、水精霊は一斉に少女に向かって叩きつける!
舞う粉塵、砕ける岩盤。
天井もひび割れ、水滴が滴っていた場所から水が滝のように流れ出てくる。
くしくも、ルミナスの言うとおりだった。
天井をぶち抜けば、手っ取り早く水が手に入る。
どうやら地底湖のようなものの下にルミナスたちはいたようだ。
みるみるうちに水位が上がっていく。
水精霊に有利な戦場になっていく。
そんな中、水精霊の猛攻に晒された少女は……
「……終わりにしましょう、どーんと」
水精霊の、懐にいた。
いつの間に、と人間ならそう言いそうな反応をする水精霊。
だがいつの間にも何も、少女はただ直線で突っ切ってきただけだった。
左手の黒炎を盾に、全ての水鞭を蒸発させながら。
そして彼女は右手を引く。
その拳に灯る黒炎が……一度大きく輝いた。
左手は前に、壁のように構え、右手は腰の位置で固定……両方の掌を、水精霊に向ける。
これは、ユリシアが最も得意とした技。
その経験を以って、少女は鋭い気合の声を上げ……
腰に溜めた右手を一気に解き放った!
「護身柔拳・奈落頸!!」
少女の掌底が水精霊の体内に突き刺さる。
黒炎が一気に内部に透徹し、内部から水精霊の全身を焼く。
いや、黒炎は焼くにとどまっていない。
全身余すところなく透徹した黒炎、その勢いは全身を焼くだけでにはとどまらなかったのだ。
結果、断末魔の叫びを上げる間も無く、史上最強の精霊は黒炎によって内部から爆散し、その短い生をとじた。
まるで爆発でも起こったかのように弾ける水精霊。
それでもなお勢いを失わない黒炎は爆発した後も天井や壁、床にぶつかる。
そうして、それがトドメになったのであろう。
天井が崩落し、地底湖の水が一気に流れ込んできて……
その広場は、完全に水没するのだった。
――――――――――――――――――――
「シアの言う通りでしたね。天井をぶち抜くのは、やっぱりダメでした」
言うまでも無いことだが、少女は無事だ。
完全吸血により跳ね上がった魔力を使い、親友の【チカラ】で地上に転移したのだ。
空を見上げれば満点の星空。
ゾッとするほど美しい満月。
頬を撫でる生暖かい風。
どこまでもどこまでも続く地平線。
全て幼き日に自身が渇望したものなのに、対した感慨も湧かなかった。
「……そりゃあ、そう……ですよね……。
わたしはもう、ルミナスではないんですから」
ルミナスであってユリシアでない存在。
自身の存在の曖昧さに、少女は自嘲する。
「そう、ですね……だったら、名前を付けましょう。
いつまでも名前のないままでは不便ですから。
どんな名前がいいでしょう?
自分で自分の名前を決めるだなんて……変な感覚です」
少女はしばらくうんうんと考え込み、そして……
「ユナ」
そんなことを、呟いた。
「ユリシアと、ルミナスから一文字ずつ貰って……ユナ。
家名のない、ただのユナ。
うんっ、いいですね。これからわたしはユナです!」
ユナは、そう独り呟き、歩き始めた。
行く当ての無い旅、決して終わりの見えない旅だ。
ユナの、たった独りの八年間はこうして幕を開けたのだ。
『皆さんを、助けてください。
それがわたしの、最期のお願いです』
シアの声が、ユナの頭の中で響く。
間際の言葉が、シアの最期の願いが、響く。
「任せてください、シア。
わたしは絶対に皆さんを救って見せます」
ユナは夜の闇の中に溶けて消えていく。
ぽっかりと空いた闇の中、先の見えない闇の中を……ユナは独りで進んで行くのだった……。
これから先、カイルと出会うまでの八年間を…….ずっと………ずっと独りで……。