第九十七話ー失った翼を
通算100話目!
「どれほど魔力が膨れ上がったとて、この私の魔力量には届かん。【再生】があったとて、私に有効撃を与えられねば、何の意味もない……!!」
二段階目の【形態変化】。変異と呼ばれる状態に……不死鳥を模した姿に変化したカイル。ただならぬ存在感。生物としての格が違う存在へと……カイルは変貌を遂げた。
だが、格が違うのはジャンヌやハクシャクも同じ。
カイルはやっと、その領域に足を踏み込んだのだ。
「魔力……だけじゃねぇ」
「……なに?」
カイルはフェルプスから今までよりも質の高い炎の魔法を具現化させる。そして右拳を引き、再度突撃の構えを取った。
「学習能力がないのか……貴様は。そんな単調な攻撃など、この私には――」
「私には、なんだよ?」
「っ!?」
ハクシャクの目の前には拳を大きく振りかぶったカイルの姿。
――どうやって……【転移】か!?
そう推測するハクシャクだが、すぐにそれが誤りであることに気が付く。
――っ、そうか! 奴の【能力】は……!
【形態変化】とは、人ならざるものに変化する亜人族の【能力】だ。有翼族のように翼を生やすだけの亜人族もいれば、悪魔族のように全身を変化させるものもいる。
そして……どの【形態変化】の種族にも共通する点が一つある。それは、身体能力の向上。【形態変化】前と後では基礎身体能力に大きな差が出る。
それは……例え二段階の【形態変化】であろうと例外ではないのだ。カイルの身体能力は、一段階目の変化からさらに跳ね上がる――!
「っだらぁっ!!!!」
「っく!」
振り抜いたカイルの拳を……ハクシャクは辛うじて受け止めた。超高密度の炎の魔法はハクシャクの闇の魔力だけで受け止めるには少々難がある。じりじりと腕が焼かれていく感覚。それだけでも問題であるというのに……
――重い……っ!
底上げされたカイルの身体能力は、予想以上に高い。ハクシャクは吸い尽くした誰かの経験で拳の衝撃を流しつつ、受け止めていた。だというのに……受け流しているにも関わらず、腕に伝わってくる痛烈な衝撃。素で受けていたら、一体どうなっていたのか……。ハクシャクの頬を、冷や汗が伝う。
「俺の取り柄は……一撃の強さだ!」
カイルは拳の勢いを殺すことなく、受け止めたハクシャクの腕をさらに突き抜き、吹き飛ばした。黒く染まった大地を滑るように背後に下がるハクシャク。
その顔が……狂気に染まりかけた時、
「それから、魔力の多さと……」
ハクシャクの目の前には再度、拳を振りかぶったカイル。
その左拳の内には……煌々と光る、今までの魔法とは比較にならないほど超圧縮された炎の球。カイル最大の広域破壊自爆魔法、ビックバンだ。
「打たれ強さっ――だぁ!!」
カイルの拳がハクシャクを穿った瞬間、手の内の魔法が……爆発した。
「ビックバン・メテオ!!!」
――――――――――――――――――――
カイルとハクシャクを中心にした爆発。
その余波は、ジャンヌが防いでいなければ確実に処刑台をも破壊していただろう。
周囲にいた黒い目の帝国兵たちが木の葉のように吹き飛び、より中心部に近い位置にいた者はあっという間に消失していく。
それほどの超熱魔法、それほどの爆発魔法。
肌を焼く熱波が通り去った後、平坦な黒い地面の爆心地に立っていたのは……二人。
「……結構、強めにいったんだけどな」
大火傷を負った体を【再生】しつつ、カイルは身体の残ったハクシャクを睨む。ハクシャクは爆発の寸前、魔力の具現化による壁と、高密度の魔力を交互に積み重ねることで、ビックバンの爆発を緩衝し、防いでいたのだ。
それでも、ハクシャクの身体の至る所には防ぎきれずに負った火傷の跡がいくつも見受けられる。一撃の強さが取り柄と言ったカイルの言葉は……伊達ではない。
「劣等種風情が……このわたし、私にわた、ガ、ぐぁぁあああああああああ!!!」
カイルに対する興奮が引き金となったのか、ハクシャクの理性が……消えていく。
意識が消え……淀みきった理性の残滓が現れる――!
「分ヲ弁えろッ! 下等種族がッ!!!」
ハクシャクは血の入った小瓶を取り出し、瓶を噛み砕いて血を飲む。
瞬間、ハクシャクの姿がカイルの眼前から消えた。
「なっ!? ぐぁぁあああああああああ!!!?」
視界を泳がせる間も無く感じる肩口の鋭い痛み。
ちらり、と目をそこに向けると……
ハクシャクが、カイルの肩を食い破らんとするほどに噛み付いていた。
「っの、フレア!!!」
とっさの反応でカイルはフレアを放つ。
手足のフェルプスに魔力を流し、爆発と錯覚するほどの勢いで炎が噴出する。
至近距離からその炎を浴びせられたハクシャクは堪らずカイルから離れた。
カイルと同じ、【再生】の白炎を身体から放ちながら。
ハクシャクは肩に噛み付いた際、カイルから吸血していたのだ。
「……ククク。これは興味深い【能力】だな」
ハクシャクはカイルの【能力】で傷を全快させると、理性的な顔で笑みを浮かべた。
「傷ばかりでなく、この私の精神まで回復させる【能力】とは……貴様、劣等種にしては役に立つではないか」
カイルの【再生】が及ぶ範囲は、どうやら肉体的なものに留まらないようだ。
【再生】の炎に身を包んだハクシャクはその精神までも回復させた。
カイル自身も気付いていなかったその事実に、ハクシャクは口角を釣り上げる。
「喜べ、劣等種。貴様を王剣ダーインスレイヴが手に入るまで、私の家畜にしてやろう」
ハクシャクは自身の不安定な精神を保つため、自らの王としての地位を確固たるものにするため、王剣ダーインスレイヴを欲している。
特に前者の理由は逼迫している。
理性が完全に失われてしまえば、王になるどころではないからだ。
だから、ハクシャクはカイルの【能力】に目をつけた。
カイルの血を定期的に吸うことで、ハクシャクは理性を保とうとしている。
完全吸血を行わないのは、純血の吸血鬼族として、劣等種の血を混ぜたくはないという傲慢なプライドだ。
カイルは、ハクシャクに噛まれた傷を【再生】させ、口の中に溜まっていた血を黒い地面に吐き捨てて、顔を上げる。
「死んでもゴメンだ。そんなもん」
カイルは白炎を纏いつつ、三度ハクシャクに向かって突撃していくのだった。
――――――――――――――――――――
――そんな……
ユナは、ハクシャクとカイルの戦いを悄然とした表情で見つめていた。
カイルが不死鳥の【形態変化】を発動させた時は、もしかしたらカイルが勝って、生き残るかもしれないと考えていた。
しかし、それもすぐに消え去った。
――戦いの相性が……悪すぎます……!
カイルの戦法は、端的に言えば肉を切らせて骨を断つ。
攻撃を受けても、さらなる強撃で相手を沈めるのがこれまでのカイルの戦い方であった。
その意味で、カイルの新たな【再生】の力はもってこいだったと言える。
相手が……純血の吸血鬼族でさえなければ。
カイルがどれだけの威力を秘めた一撃をハクシャクに浴びせかけても、吸血した【再生】でその傷はすぐに癒えてしまう。
牙を警戒しても、先程のように【身体強化】されてしまえば意味はないし、そもそもカイルの戦闘では攻撃を受けるのが前提。
牙を避け続けるという選択肢はカイルにはないのだ。
ジリ貧もここに極まれり、といったところか。
これでは、先に魔力が尽きた方が負けてしまう。
その肝心の魔力量で勝てないのは明白。
カイルは徐々に、そして確実に負けに近づいていた。
「クハハ、なんともまぁ滑稽なことよ。
折角の変異も、アレではのう……」
ユナの横に座するジャンヌは、漆黒の扇を優雅に仰ぎつつ、楽しげに呟く。
ユナはそんなジャンヌの様子を横目で見て、思考を巡らせる。
このままでは……カイルは殺されてしまう。
自分のせいで……また人が死ぬ。
それは、イヤだ。それだけは、ダメだ。
――もう……わたしのせいで大切な人が死んでいくのは……見たくありません。
「ジャンヌ……わたしを殺して下さい」
ユナはジャンヌに対し、そう懇願する。
カイルがどうしても引かないことは、これまでの付き合いで分かる。
ユナがこの処刑台の上で生きている限り、例えカイル自身が死ぬことになってもカイルは戦い続ける。
そんな人なのだ。そんなバカなのだ。
そんなカイルを……ユナは死なせたくなかった。
自分が死ねば、カイルの戦う理由はなくなる。
カイルはこの戦いから逃げ出すことができる。
「それを妾が聞き入れると……本気で思うとるのか?」
「あなたは……わたしの【チカラ】が欲しいのですよね?
だったら……わたしを殺して、早く手に入れてしまえばいいじゃないですか」
「クッ、ハハハ。愚問じゃな。
確かに妾はそなたの【チカラ】が欲しい。
だが、それは今すぐにでも手に入れたいという訳でない。
そなたの【チカラ】はいつでも妾のものとすることができる。
だというのに、わざわざこの余興を止めるような無粋な真似を……妾がすると思うか?」
ユナは強く唇を結ぶ。
何もできない悔しさ、歯痒さ。
カイルを殺してしまうことへの罪悪感。
それらがユナを追い詰めていた。
――いえ、そうです……ジャンヌにやってもらうまでも、ないじゃないですか。
ユナは元々ここで死ぬつもりだった。
使命を果たせなかった無意味な生に終止符を打つつもりであった。
だから……
――自分で……舌を噛み切れば……!
自分で、死んでしまえばいい。
誰かの死の原因となるくらいなら……
もう、終わらせてしまえばいい。
ユナはゆっくりと口を開く。
震える口を、ゆっくりと。
そうは言っても、死ぬのは怖い。
自分で自分の介錯をするなど……なおさらだ。
だが、それでもやらなければならない。
怖いなどと言ってられないのだ。
自分のために誰かが死ぬのは見たくない。
こんな自分のために……死ぬなんてことはあってはならないのだ。
「ジャンヌ様、報告ガ」
「……なんじゃ、折角面白うなってきたところであるのに……」
黒い目の帝国兵が処刑台に登ってきて、なにやらジャンヌに耳打ちをしているが、ユナはそれに気付かない。
着々と……黙々と死へ歩みを進める。
ゆっくりと、小刻みに震える舌を出す。
後は、その口を思いっきり閉じるだけ。
そうすれば、歯がユナの舌を切り落としてくれる。
――さようなら……カイルさん。
お父様、お母様……ゴメンなさい。
わたしは使命を果たせませんでした……。
ユナは……静かに涙を零した。
後悔と、自責が……ユナの中を埋めていた。
「ふん、放っておけ。もし、数万の有象無象の壁を越えることができた者がいたなら……妾が相手をしてやろう」
――……今まで、ありがとう……ございました。
喧騒に包まれた戦場の処刑台。
ユナは誰に裁かれるでもなく、自らの命を……
「では、相手をしてもらいましょうか。ジャンヌ・ド・サンス第二部隊長」
――……え?
突然、あまりにも突然に処刑台に乱入してきた声。
青天の霹靂。ユナは思わず自殺を思いとどまり、その声のした方を向く。
――え……? え……?
ユナの頭に浮かぶのは、疑問。困惑。
そして……懐かしさと、喜びだった。
ユナの前に立っていたのは……死んだはずの人物。
あの時……死んだはずの人物。
「お待たせしました。助けに来ましたよ、ユリシア。
だから、そんなくだらないことは止めてください」
白髪混じりの黒髪。優しい、紳士的な声。
そして……漆黒の蝙蝠のような翼に……血のような赤い瞳。
あの時、ユリシアとルミナスを逃がして、死んだはずの人物……。
ユリシアの実父にして歴代最強の監察官。
ジュリアス・フェルナンデスが悠然とジャンヌの前に立ちはだかっていた。
――――――――――――――――――――
「貴様……どうやってここまで」
「残念ですが、あの程度の雑兵では足止めにもなりませんよ。
なにやらユリシアが早まった真似をしそうでしたので……私だけ先にここまでやって来た、というわけです」
先にやってきた。ジュリアスのその言い方は、まるで……。
「他にも……誰か来ているんですか?」
「勿論です。フェルルやゴンさん、私の意志に賛同してくださった吸血鬼族の方たち……。
皆さんが、ユリシアを救いに来ています」
「生きているん……ですか……?
皆さん……生きて……?」
全員、死んだと思っていた。
あの悪夢のような革命で、あの区画の人たちは皆殺されたと思っていた。
八年探して痕跡さえも見つからなかった。
そして……駄目押しとなったハクシャクの言葉。
だから、ユナは全員が殺されてしまったものだと思っていたのだ。
「……確かに、あの暴動で少なくない方々が命を落としました。
しかし、全員が命を落とした訳ではありません」
――あぁ、なんていう、ことでしょう……。
こんな、こんなことがあっていいんでしょうか。
ユナは静かに俯き、震える。
それは喜びからくるものであり、瞳から落ちる雫も……喜びからだ。
まだ、終わっていない。
ユナの使命はまだ、終わってしまっていなかったのだ。
果たせなくなどなっていない。
全員が死んでしまったわけではない。
そう、ユナが考えていると、
「どぉっせぇええええい!!
ったらぁ! よっ、と!
ジュリアスはん速すぎるわ!!
ウチらのペースも考えてもらわんと!」
また一人、誰かが処刑台に登ってくる。
ユナと同じように腰まで伸ばした栗色の髪。
蝙蝠のような翼……狐の尻尾と、耳。
背は高く、ジュリアスと並び立つ……いや、それ以上の背丈。
だが、その面影は……
「クルミ……ちゃん……?」
「お姉! ウチのこと覚えとってくれたん!?」
ふさふさの尻尾が犬のように左右に揺れる。
間違いない……彼女は、あの区画にいた、吸血鬼族と狐の獣人族のハーフの少女……クルミだ。
知り合いが生きていたことに、ユナは再び打ち震える。
こんな状況なのに、嬉しくて涙が止まらなかった。
「クルミ、ユリシアの封化石の錠を解いてあげてください。
私はジャンヌの足止めをしますので」
「りょうかいっ! ジュリアスはんも無理せんとってな!
コンなに可愛い弟子と娘置いて死ぬなんて許さへんよ!」
クルミが魔具を使って解錠作業をしている間に、ジュリアスはジャンヌと向かい合う。
「妾を足止めするじゃと……?
クッ、ハハハ! これはまた異なことを申す男よ!
確かに、貴様は超人と呼ばれるに足る実力者なのじゃろう。
しかし、それでも変異には届かん。
貴様程度の実力では……妾を足止めすることなど……できはせぬ」
扇から顕現する闇。
密度も、量も、ジュリアスの出せる魔法を遥かに超えている。
いくらジュリアスが突出した実力者だからと言って、変異とそうでない者との間には……決定的に差がある。
その差を埋めるには、トイフェルと互角に戦ったゲンスイのように、多くの人の血を吸い尽くしたハクシャクのように、“経験”や“完全吸血”……それに類する特別なナニかが必要なのだ。
ただ、強いだけの“ニンゲン”では、変異には決して届かない。
「確かに、普通に戦えば、私は貴方の足元にも及ばないでしょう。
ですが……私は吸血鬼族。
吸血鬼族には、吸血鬼族の闘い方があるのです」
ジュリアスは、懐から血の入った小瓶を取り出す。
「ふん、吸血か……無駄じゃ。
ハクシャクのように完全吸血を繰り返さん限り……」
「その台詞は、この魔法を受けてからにして欲しいですね」
ジュリアスは血を一息に飲み干し、魔法を紡ぐ。
両肩に嵌められたバックルが、光り輝く。
色は茶と緑。属性は……地と風。
そして、
「なっ……!?」
両手首の腕輪からも、溢れ出す光。
色は赤と青。属性は……火と水!
「八年前は三属性が限界でしたが……それではダメなのだと、悟りました。
私もまだまだ甘かった……。
折角のフェルルの二属性を、全く活かせていなかったのですから――!」
先程ジュリアスが飲んだ血。
それは彼の妻、フェルルのもの。
彼女もまた……火属性と水属性の二属性保有者だったのだ。
そして、ジュリアスは風属性と地属性の二属性保有者。
ジュリアスは彼女の血を飲んだことで、一時的に雷以外の四属性を扱えるようになったのだ。
両腕の四色の光を、ジュリアスは紡ぐ。
相反する四色を織り交ぜ、一つの魔法を組み上げていく。
「四職魔法――輝晶時雨!!!」
この世界唯一の四属性合成魔法が、変異に匹敵する威力を内包して、ジャンヌに向かって牙を剥く――!
――――――――――――――――――――
「――ユリシア!」
「ユリシアちゃん!」
狐の獣人族の男が人族の女性を担いで処刑台に登ってくる。
狐の獣人族はゴンドゥルヴィッチ――ゴンさん。
人族は……勿論、フェルルだ。
「うっしゃ! お姉の錠、解けたで!」
「ようやったクルミ!
自分はまだ戦こうとる人らの加勢に行き!
フェルルはんは、おとんに任せぇ!」
「はいよ! じゃ、お姉! また後でな!」
ユナを拘束していた封化石の錠が……取れた。
数十日ぶりに拘束から解放されたユナ。
その手首は鬱血して濃青紫に染まり、筋肉は硬直して上手く立ち上がることもできない。
そんなユナを……フェルルは力強く抱き締めた。
「ぁ……」
彼女は、何も言わない。
何も言わずにユナを抱きしめる。
持ち前の包容力で、ただユナを抱き締める。
だが、
――わたしは……。
ユナの表情には陰りがあった。
使命を果たすことができるようになった。
自由にもなれた。
もうユナを苦しめるようなことは何もないはずだ。
だというのに、彼女の顔は暗い。
泣きっぱなしだったユナの瞳も、今は涙を止めていた。
「あの……」
「何も言わなくても大丈夫です。
私は全部……分かりましたから」
ユナが一瞬にして硬直する。
その顔に浮かぶのは……恐怖だ。
彼女は……フェルルの言葉を、とても恐れていた。
自分の腕の中で固まるユナを、恐怖に慄くユナを、フェルルはゆっくりと離し、額を重ねる。
恐怖で目を見開いていたユナからは……フェルルの顔がよく見えた。
自分と同じ艶やかな黒い髪。
そして同じ漆黒の瞳からは、涙が流れていた。
「本当に……お疲れ様でした。
今までたった一人で……辛かったでしょう」
だが、浮かべている表情は穏やかな笑顔。
その慈愛の表情と、言葉に……
「ふ、ぅう………っ!」
気が付けば、ユナも涙を流していた。
大粒の涙が、血も枯れたはずのユナの瞳から溢れ出る。
「忘れないでください。あなたは私の娘です。
あなたが否定しても、それは絶対に変わりません。
だから、怖がらないでいいんですよ」
――敵わない、ですね……
これが、母親の強さというやつなのだろうか。
ユナは、今のフェルルに逆らえる気がしなかった。
フェルルの言葉はユナの心の奥深くに眠っていた……本人しか知り得ない最後のしこりを……取り払った。
――もう何も思い悩むことはありません。
もう何も……怖がることなどありません。
「お母さん」
「はい、何でしょう」
ユナは、涙を拭いて立ち上がる。
彼女を縛り付けるものは何もない。
行かなくてはいけない。
彼女のために、命を削って戦ってるバカがいるのだ。
彼女のために、たった一人で乗り込んできたバカがいるのだ。
「いってきます」
「はい、必ず帰ってきてくださいね」
傷だらけで、ふらふら。
今のユナは……普通の帝国兵にさえ敵わないだろう。
弱々しくて、吹けば倒れてしまいそうだ。
それでも、ユナは行く。
処刑台を降り、バカの元へ走る。
『侵入者を迎撃せよ』と命令された黒い瞳の帝国兵はユナに対して全く注意を向けない。
ただカイルを迎撃しようと走る帝国兵をかき分け、押しのけ、間を縫うようにユナは進む。
「きゃぁ!」
ユナは不自然に隆起していた黒の地面に気付かず、転倒する。
身体を打つ衝撃が、ボロボロのユナを破壊してしまいそうなほど強く、響く。
それでも、ユナは立つ。
手足のほとんどが言うことを聞かなくても、傷口が熱を持ち、燃え上がりそうな痛みが襲ってきても、ユナは足を動かす。
――この程度、皆さんが死んだと聞かされた時に比べたら……なんでもありません!
ユナの心に、もう迷いはない。
抱え込んでいた闇は存在しない。
肉体的な痛みなど存在しないとばかりに、ユナは駆ける。
「っぐ、おらぁ!!!」
駆けていたユナの目と鼻の先に、カイルが吹き飛ばされてきた。
【再生】により、身体に一切傷は見当たらないが、その顔には色濃く疲労が浮かんでいた。
カイルの猛禽類のような鋭い瞳にはユナは写っておらず、自身に迫るハクシャクのみを捉えていた。
――カイルさん……!
何回打ちのめされても、敗北を認めない。
ユナは何度も、そんなカイルの姿を見てきた。
何度も、そんなカイルに助けられてきた。
――今度は、わたしが。
ユナは覚悟を決め、ハクシャクとカイルの交錯する視線の間に、自身の身体を滑り込ませた。
「っ、ユナ!?」
「半吸血鬼……!
あの女は一体何をしているのだ……!」
唐突に現れた渦中の人物に、二人は思い思いに狼狽える。
向けられる二つの視線に対し、ユナは、
「もう、隠さないと決めました」
顔を前に向け、胸を張って、この場の二人に向かって宣言する。
「もし、あの時……こうしていれば、フィーナさんは死なずに済んだのかもしれません。
それができなかったのは……わたしが自分のことしか考えられない最低な女だからです。
マリンさんの言っていたことは……正しいです。
フィーナさんは……わたしが殺したも同然なんです」
申し訳なさそうに、泣き出しそうな顔をするユナ。
だが、彼女はもう……
「だから、二度目は起こさせません」
それでも、決意を固めたのだ。
「こんなわたしを、助けようとしてくれる人がいる。
こんなわたしのために、命を懸けてくださる人たちがいる。
だから……わたしもそれに応えます」
ユナは、右手を天に向かって伸ばす。
二対の黒いブレスレットの片方が……大きく輪を広げ、ユナの頭の上に展開する。
そのブレスレットの輪の中は……闇。
暗く、暗く……どこまでも深い闇。
「【転移】など、今の貴様が使って何になるというのだ。
翼を失い、魔力をも失った地を這う半吸血鬼が……気でも違えたか?」
ハクシャクは、ユナのことを全く脅威だと認識していなかった。
身体は自分が痛めつけて満身創痍。
魔力は雀の涙ほどもない。
そんなナリで、脅威になるだとは微塵も考えていなかった。
ユナは、その広がったブレスレットを、自分の頭の上から落とした。
暗黒面がユナを通過し……ユナの身体が消えていく。
頭、肩と順番にユナの身体は消えていき、ついに闇はその全てを飲み込んだ。
「っ、がっ、ァ!!!!???」
次の瞬間、ハクシャクが吹き飛ばされる。
背後に現れた一人の人間の手によって。
その人物はハクシャクの方を向いて口を開く。
「あなたはルミナスを探していましたね……残念ですが……彼女はもう、この世に存在しません」
その人物は、少女。
ただ、その風体は異様だった。
「それでも、敢えて名乗らせて貰うならば……」
翼がある。だが、左右でその色が異なる。
左が白で、右が黒。
どこまでも白い純白と、どこまでも黒い漆黒。
瞳も、左右で色が異なっていた。
左が赤で、右が黒。
血のような赤と、闇のような黒。
そして、口元から覗く鋭い犬歯。
「わたしの旧名はルミナス・ヴィルヘルム・ヴァンパイア。
第二十九代フィルムーア王国女王……ルミナスです!!」
彼女は……ユナは、はち切れんばかりの膨大な魔力を身に宿し、ハクシャクを指差す。
「ハクシャク。
あなただけは……わたしがどーんと、倒します」
二人分の黒髪が、風に揺らされてたなびいた。