「お前みたいな地味な女、捨てて正解だった」と元婚約者に嘲笑された私ですが、実は『幻のギャンブラー』一族の末裔でした。ラスベガスで出会った氷の帝王と共に、裏切り者たちを叩き潰すことにします
「お前みたいな地味な女、捨てて正解だった」
VIPルームに響いた声に、私の手は微塵も揺らがなかった。
カードが弧を描いてテーブルに吸い込まれていく。完璧なディール。それが私、結城凛の仕事だ。
ゴールデン・エースのVIPルーム。琥珀色の照明が高級感を演出し、チップの積まれたテーブルには今夜も富裕層たちが集っている。
その中心に、見覚えのありすぎる男が座っていた。
柏木翔太。二十八歳。私の元婚約者。
そしてその腕に絡みつくように寄り添っているのは——
「りんちゃん、久しぶり〜」
白石美咲。かつての親友。今は翔太の恋人。
ふわふわの巻き髪を揺らしながら、美咲は「守ってあげたい系」の笑顔を浮かべている。その目の奥に、隠しきれない優越感が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
(……あー、なるほどね)
五年ぶりの再会。太平洋を渡ってアメリカまで来たのに、よりによってこの組み合わせ。神様って本当に意地が悪い。
「まさかラスベガスでディーラーなんてやってるとは思わなかったよ」
翔太が嘲るように言った。ブランドスーツを着込んで、腕には高級時計。見た目だけは立派な「成功者」のつもりらしい。
「地味な女は地味な仕事がお似合いってことか。なあ、美咲?」
「もう、翔太ったら〜。でも確かに、りんちゃんって昔から目立たないタイプだったもんね」
美咲が翔太の腕をぎゅっと抱きしめる。わざとらしく。見せつけるように。
(……この茶番、いつまで続くのかしら)
私は表情を変えずに、次のカードを配った。
氷の女王。それが私の異名。どんな客が来ようと、どんな言葉を投げられようと、完璧なポーカーフェイスを崩さない。
それがディーラーとしての矜持であり——過去を捨てた私の、唯一の生き方だった。
「ベットは?」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「おいおい、冷たいな。元婚約者に対してそれかよ」
「お客様、ベットをお願いいたします」
「……チッ」
翔太が舌打ちをして、チップを投げるように置いた。
マナーの悪さは相変わらず。いや、むしろ悪化している。成功者気取りが鼻につくようになった分、余計にタチが悪い。
(私、本当にこの人と結婚しようとしてたのよね……)
五年前の自分を殴りたい。いや、殴るだけじゃ足りない。正座させて三時間説教したい。
「ねえりんちゃん、翔太すごいんだよ? 今、投資で大成功してて、ラスベガスにも進出するんだって」
美咲が甘えた声で言う。自虐風自慢の天才。この五年で腕を上げたようだ。
「そうですか。おめでとうございます」
「……それだけ?」
翔太が目を細めた。期待していた反応じゃなかったらしい。
何を期待していたのだろう。悔しがる私? 泣き崩れる私? 「捨てないで」と縋る私?
残念だけど、そんな私は五年前に死んだ。
「りんちゃん、なんか変わったね。昔はもっと、こう……」
「地味だった?」
「う、ううん、そういうわけじゃ……」
美咲が言葉に詰まる。図星だったようだ。
「お客様、カードをオープンいたします」
私は淡々と手を動かした。
ディーラーの手が、ブラックジャック。
翔太の手が、バースト。
「は? 嘘だろ」
翔太が顔を歪める。負けたのが気に入らないらしい。
「おい、イカサマじゃないだろうな」
「お客様、当カジノは厳正な管理のもとで運営されております」
「俺は客だぞ。こんな端金で——」
「翔太」
不意に、低い声が割り込んだ。
振り向くと、VIPルームの入口に一人の男が立っていた。
プラチナブロンドの髪。北欧の海を思わせる深い青灰色の瞳。彫刻のように整った顔立ちには、どこか影を帯びた表情が浮かんでいる。
アレクサンダー・クロウ。
このカジノ、ゴールデン・エースのオーナーにして、ラスベガスの若き実業家。
通称「氷の帝王」。
(……なんでオーナーがここに?)
「アレックス、久しぶり」
翔太が急に愛想よく立ち上がった。さっきまでの横柄さが嘘のように消えている。
なるほど、この二人は知り合いらしい。
「ディーラーにイカサマ呼ばわりは感心しないな。彼女は、うちで最も優秀なスタッフだ」
アレクサンダーの声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。
「いや、その、冗談だよ。な、美咲」
「う、うん……」
翔太と美咲が萎縮している。権力の前では、彼らの虚勢など紙切れ同然だ。
「今夜はこの辺で切り上げたらどうだ。また来週、ビジネスの話をしよう」
「あ、ああ。そうだな」
翔太が席を立つ。逃げるように、と言い換えてもいい。
美咲が私をちらりと見た。勝ち誇った目——のはずだったのに、どこか不安げだった。
「じゃあね、りんちゃん。元気でね」
その言葉に、私は無言で会釈だけを返した。
二人が去った後、VIPルームには妙な静寂が降りた。
他の客もスタッフも、何事かと様子を窺っている。
「結城凛」
アレクサンダーが私の名を呼んだ。
振り向くと、彼は鋭い目で私を見つめていた。獲物を見定める猛禽のような——いや、違う。
それは、同類を見つけた者の目だった。
「少し、話がある」
彼の言葉に、私の心臓が一度だけ強く脈打った。
◇◇◇
オーナー室は、カジノの喧騒が嘘のように静かだった。
ラスベガスの夜景を一望できる窓。革張りのソファ。壁には抽象画がいくつか。成功者の部屋、という表現がしっくりくる。
「座って」
アレクサンダーがソファを示した。私は従った。今の私はただのディーラー。オーナーの命令には逆らえない。
「飲み物は?」
「いえ、結構です」
「そう硬くならなくていい。クビにするつもりで呼んだわけじゃない」
彼がグラスにウイスキーを注ぎながら言った。琥珀色の液体が照明を反射してきらめく。
「では、何のご用でしょうか」
「君のディーリングを見ていた」
アレクサンダーがソファに腰を下ろした。私と向かい合う形で。その青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「完璧だった。動き、タイミング、カードの扱い。五年間、毎日見てきたが、君ほどのディーラーは他にいない」
「恐れ入ります」
「——だからこそ、不自然だ」
空気が変わった。
「君の技術は、ただのディーラーが持つものじゃない。あれは——」
彼が言葉を切った。グラスを傾け、一口だけ飲む。
「『幻のギャンブラー』の技だ」
心臓が凍りついた。
「結城家。東洋の魔術師・結城誠一郎を輩出した伝説の一族。カードの動きを読み、相手の心理を見抜く天才たち」
アレクサンダーが淡々と語る。まるで調べ尽くしていたかのように。
「君は、その末裔だろう」
沈黙が降りた。
私は何も答えなかった。答える必要がなかった。彼の目は、すでに確信に満ちていたから。
(……バレた)
五年間、必死に隠してきた。普通のディーラーとして、目立たず、才能を見せず、ただ生きてきた。
「ギャンブラーの血なんて恥ずかしい。普通の女になれ」
翔太の言葉が脳裏をよぎる。あの言葉に傷つき、才能を封印し、逃げるように海を渡った。
それなのに——
「君の才能を、俺のために使わないか?」
アレクサンダーの提案に、私は目を見開いた。
「……どういう意味ですか」
「文字通りの意味だ。君の力が必要なんだ。俺の——復讐のために」
復讐。
その言葉に、彼の目が一瞬だけ暗く燃えた。
「ヴィクター・モローという男を知っているか」
「……ラスベガスの闘技場、モロー・カジノのオーナー。裏社会を牛耳る男と噂されていますね」
「その男が、俺の父を殺した」
アレクサンダーの声から、感情が消えた。いや、違う。感情を押し殺しているのだ。
「十年前、父はモローに騙された。イカサマで全財産を奪われ、借金を背負わされ、最後は——」
彼が言葉を切った。左耳のダイヤのピアスに、無意識に触れている。
「父の形見だ。これだけが、残された」
私は黙って聞いていた。
彼の痛みが、どこか自分と重なって見えた。大切なものを奪われた者の、静かな怒り。
「モローは今、日本からの投資資金を使ってさらに勢力を拡大しようとしている。その窓口になっているのが——」
「柏木翔太」
私の口から、その名前が滑り落ちた。
アレクサンダーが目を細めた。肯定の意味だとわかった。
「彼はモローの資金洗浄に協力している。表向きは投資家、裏では犯罪の片棒を担いでいる」
(なるほど、そういうこと)
翔太の「成功」の正体が見えた。結局この男は、他人の力を利用することでしか生きられない。昔は私の一族の情報網。今はモローの犯罪資金。
自分では何も生み出せない。何も築けない。空っぽの器に、借り物の成功を詰め込んでいるだけ。
「……それで、私に何をさせたいんですか」
アレクサンダーが身を乗り出した。
「モローは来月、非公式のポーカートーナメントを開催する。招待制の、ハイステークス。そこで奴を叩き潰したい」
「私を、プレイヤーとして出場させる?」
「ああ。君の腕なら、勝てる」
断定的な言い方だった。根拠のない自信ではなく、私の実力を見抜いた上での確信。
「勝てば、モローは信用を失う。金も、人脈も、すべてが崩れる。そうすれば——」
「翔太も、道連れになる」
私は彼の言葉を引き継いだ。
アレクサンダーが頷いた。
「利害は一致している。俺はモローを潰したい。君は——」
「私の復讐にも、協力していただけますか?」
私は真っ直ぐに彼を見つめた。
五年間、封印してきた感情が、ゆっくりと溶け出していく。
「あの男……柏木翔太も、あなたの敵と繋がっているわ。私の復讐にも協力して」
アレクサンダーが唇の端を上げた。笑っているのだとわかった。
「いいだろう」
彼がグラスを掲げた。
「ならば、共闘だ。結城凛」
私は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
ラスベガスの夜景が、宝石箱をひっくり返したように煌めいている。この街は、夢と欲望が渦巻く場所。勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。
五年前、私は敗者だった。
愛も、誇りも、自分自身さえも失って、逃げるようにこの街に来た。
でも——
「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ女じゃない」
振り向いて、アレクサンダーを見つめる。
彼の青灰色の瞳と、私の漆黒の瞳が交差した。
「自分の手で、自分の運命を切り開く」
左手首に、桜の花びら型の痣が熱を持った気がした。
一族の証。ギャンブラーの血。
ずっと恥ずかしいと思っていた。隠さなければいけないと思っていた。
でも、もう違う。
「協力します、アレクサンダー・クロウ」
私は手を差し出した。
「——賭けの勝敗は、カードが配られた瞬間に決まるんじゃない」
彼が私の手を取った。大きくて、温かい手だった。
「自分を信じた瞬間に、決まるのよ」
ラスベガスの夜空に、新しいゲームの幕が上がった。
◇◇◇
「で、ボスが女連れ込んだってマジ?」
翌日。ゴールデン・エースの従業員控室で、その噂は瞬く間に広まっていた。
「連れ込んだって言うか、話があるって呼び出したんでしょ」
「いやいや、夜の十一時にオーナー室に二人きりって、そういうことじゃん」
「氷の女王と氷の帝王って、お似合いじゃない? 二人とも冷たすぎて、一緒にいたら凍死しそうだけど」
ロッカーで着替えながら、私は同僚たちの会話を聞き流していた。
違う。そういうんじゃない。
言いたいけど言えない。言ったところで信じてもらえないし、何より説明が面倒くさい。
(復讐の共犯者になりました、なんて言えるわけないでしょ)
ため息を飲み込んで、ロッカーを閉めた。
「凛」
声をかけられて振り向くと、マルコ・ヴァレンティが立っていた。
アレクサンダーの右腕。元ボクサーという経歴に違わない、がっしりした体格。でも人懐っこい笑顔が特徴的で、スタッフからの人望も厚い。
「ボスが呼んでる。今すぐオーナー室に来てくれって」
「……わかりました」
また噂が加速するな、と思いながら、私は控室を後にした。
◇◇◇
「今日から、君には特別な訓練を受けてもらう」
オーナー室に入るなり、アレクサンダーはそう切り出した。
昨夜と同じソファに座り、彼は書類に目を通している。相変わらず隙のない佇まいだ。
「訓練?」
「モローのトーナメントまで三週間ある。その間に、君の実力を最大限まで引き出す」
彼が書類をテーブルに置いた。
「結城凛。君は間違いなく天才だ。だが、五年のブランクがある」
「……否定はしません」
「本気のギャンブルから離れていた。勝負勘が鈍っている可能性がある」
図星だった。
ディーラーとして働くのと、プレイヤーとして勝負するのは全く違う。前者は「見る」側、後者は「戦う」側。五年間、私は安全な場所から眺めているだけだった。
「俺が相手をする」
アレクサンダーが立ち上がり、部屋の奥に歩いていった。
そこには、私が昨日は気づかなかったものがあった。
プライベート用のポーカーテーブル。プロ仕様の、本格的なやつだ。
「ここで、毎晩練習する。勤務終了後、この部屋に来い」
「……あなたが直接?」
「不満か?」
「いえ」
不満というより、意外だった。
彼ほどの実業家なら、専門のトレーナーを雇うこともできるはずだ。それをわざわざ自分で、というのは——
「俺も、下手ではない」
アレクサンダーが振り向いた。その目に、挑戦的な光が宿っている。
「父から叩き込まれた。ポーカーの腕だけは、モローにも負けないつもりだ」
「そうですか」
「そうだ」
妙な沈黙が流れた。
お互いに、腹の探り合いをしているような空気。昨日は「協力者」として話をしたけど、今日からは「対戦相手」でもある。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ、私を選んだんですか」
アレクサンダーが目を細めた。
「他にもプロのギャンブラーはいるでしょう。モローを倒せる腕を持った人間は、世界中を探せば——」
「君がいい」
遮るように、彼が言った。
「君じゃないと駄目だ」
「……理由を聞いても?」
「昨夜、VIPルームで見た」
アレクサンダーが一歩、私に近づいた。
「元婚約者に罵倒されても、元親友に見下されても、君は瞬きひとつしなかった」
「それは——」
「普通なら、動揺する。怒りでも、悲しみでも、何かしらの感情が漏れる。だが君は、完璧だった」
彼の目が、私の奥深くを見透かすように光った。
「あれは『感情がない』んじゃない。『感情を完璧に制御できる』んだ。ポーカーにおいて、それは何よりも重要な資質だ」
息を呑んだ。
見抜かれている。私の本質を。隠してきたものを。
「それに——」
アレクサンダーが言葉を切った。わずかに表情が緩む。
「君は、俺と同じ目をしていた」
「同じ目?」
「復讐を誓った者の目だ」
心臓が、一度だけ強く脈打った。
「俺は十年間、この日のために準備してきた。金を稼ぎ、人脈を築き、力を蓄えた。全ては、モローを叩き潰すため」
「……」
「君も同じだろう。五年間、耐えて、隠して、機会を待っていた」
違う、と言いたかった。
私はただ逃げていただけだ。復讐なんて考えていなかった。傷つくのが怖くて、戦うことを放棄していただけだ。
でも——
「昨日、君は変わった」
アレクサンダーが、真っ直ぐに私を見つめた。
「『誰かに選ばれるのを待つ女じゃない』と言った。あの瞬間、君の目に火が灯った。俺は、あの炎と共闘したい」
不覚にも、胸が熱くなった。
こんな風に言われたのは初めてだった。私の才能を「恥」と言った翔太とは、真逆の言葉。
(……ずるいな、この人)
心の中でそっと呟く。こんな言葉を投げかけられたら、断れるわけがない。
「わかりました」
私は一歩踏み出し、ポーカーテーブルの前に立った。
「やりましょう。あなたの期待に応えてみせます」
アレクサンダーが頷いた。その顔に、かすかな笑みが浮かんでいる。
「今夜から始める。覚悟しておけ、結城凛。俺は容赦しない」
「望むところです」
氷の帝王と氷の女王。
二人の間に、静かな火花が散った。
◇◇◇
その夜。
勤務終了後、私は約束通りオーナー室を訪れた。
アレクサンダーは既にテーブルについていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり上げている。昼間の隙のない実業家とは違う、少しだけラフな雰囲気。
(……あ、この人、意外と腕の筋肉すごいんだ)
余計なことを考えている場合じゃない。私は向かい側の席に座った。
「ルールはテキサスホールデム。チップは無制限。降参は許さない」
「了解です」
「では——」
彼の手が、カードをシャッフルし始めた。
その動きに、私は目を見張った。
(上手い……)
無駄のない、流れるような手つき。プロのディーラーと比べても遜色ない。いや、それ以上かもしれない。「下手ではない」なんて謙遜だった。この人、相当な使い手だ。
「君の番だ」
カードが配られた。
私の手札——ハートのエースと、スペードのキング。
(……悪くない)
最初のラウンド。お互いに様子見で、小さくベットを重ねていく。
フロップが開かれた。ハートのクイーン、ダイヤの10、クラブの3。
私の手札と合わせると、ストレートの可能性がある。あと一枚、ジャックが来れば——
「レイズ」
アレクサンダーが、大きくチップを積んだ。
(……強気に来た)
彼の表情は完璧に無だ。何を考えているのか、全く読めない。
でも、だからこそ——
「コール」
私も応じた。ここで降りる理由はない。
ターン。クラブの7が開かれた。
状況は変わらない。私はまだストレートを狙える。
「チェック」
アレクサンダーが様子見に入った。
(何かある)
直感が囁く。この人は、ただ様子を見ているわけじゃない。何かを仕掛けようとしている。
「ベット」
私は強気に出た。揺さぶりをかける。
「コール」
彼は即座に応じた。迷いがない。
リバー。最後の一枚が開かれる。
——スペードのジャック。
ストレートが完成した。
(勝った)
心の中でそう思った瞬間——
「オールイン」
アレクサンダーが、全てのチップを押し出した。
……え?
私の思考が一瞬止まった。
ストレートは強い手だ。でも、彼がオールインしてくるということは——
(フルハウス? フラッシュ? いや、それとも——)
彼の目を見た。
青灰色の瞳は、深い湖のように静かだ。何も読み取れない。
(ブラフか、本気か)
汗が滲んだ。心臓が早鐘を打つ。
これが、本気の勝負。五年ぶりの、命がけの駆け引き。
「……コール」
私は、全てを賭けた。
「ショウダウン」
二人同時に、手札を開く。
私——ハートのエースと、スペードのキング。ストレート。
彼——ダイヤのクイーンと、ハートのクイーン。スリーカード。
「……私の勝ち、ですね」
息を吐いた。勝った。ギリギリだったけど、勝った。
「ああ」
アレクサンダーが頷いた。悔しそうな様子はない。むしろ、満足げにすら見える。
「やはり、君は天才だ」
「……ブラフでしたね、あのオールイン」
「気づいていたか」
「いいえ」
正直に答えた。
「最後まで迷いました。でも——」
「でも?」
「あなたの目が、ほんの一瞬だけ揺らいだ」
アレクサンダーが目を見開いた。
「オールインを宣言した直後。〇・一秒くらい、瞳孔が開いた。緊張していた証拠です。本当に強い手を持っていたなら、あんな反応はしない」
「……見ていたのか。あの一瞬を」
「私の一族は、相手の心理を見抜くことに長けています」
祖父の言葉が蘇る。
『カードを見るな。人を見ろ。勝負を決めるのは、手札じゃない。相手の心だ』
「五年のブランクは、思ったより影響していなかったようです」
私は少しだけ笑った。自分でも驚くくらい、自然な笑みだった。
「……なるほど」
アレクサンダーが椅子に深く座り直した。その顔に、今度こそはっきりと笑みが浮かんでいる。
「これは、予想以上だ」
「お褒めに預かり光栄です」
「もう一戦、いけるか?」
「もちろん」
私は新しいカードを手に取った。
長い夜が、始まった。
◇◇◇
訓練が始まって一週間。
私の生活は一変していた。
昼はディーラーとして働き、夜はアレクサンダーと勝負する。睡眠時間は削られ、体力的にはキツい。でも——
(楽しい)
不思議な感覚だった。
五年間封印していた才能を、全力で解き放つ快感。強敵と渡り合う緊張感。勝負の駆け引きに没頭する充実感。
忘れていた。この感覚を、ずっと忘れていた。
「凛、顔色悪いわよ。ちゃんと寝てる?」
控室で、同僚のサラが心配そうに声をかけてきた。金髪碧眼の陽気なアメリカ人で、数少ない「友人」と呼べる存在だ。
「大丈夫、ちょっと夜更かししてるだけ」
「夜更かしって……まさか、本当にボスと?」
「違う違う。そういうんじゃないから」
慌てて否定する。噂はまだ消えていないらしい。
「でも毎晩オーナー室に行ってるんでしょ? みんな見てるわよ」
「仕事の話をしてるだけ」
「仕事の話を、毎晩、二人きりで、深夜まで?」
「…………」
反論できなかった。客観的に見れば、確かに怪しい。
「まあ、羨ましいけどね」
サラがウィンクした。
「ボス、超イケメンだし。しかもあんたのこと、特別扱いしてるじゃない。もしかして、運命の恋?」
「ないない。絶対にない」
即座に否定した。アレクサンダーとは、あくまでビジネスパートナー。復讐の共犯者。それ以上でも以下でもない。
(……はず)
胸の奥が、微かにざわついた。
気のせいだ。きっと寝不足のせいだ。
「結城さん」
不意に、別の声がかかった。
振り向くと、支配人の田中が立っていた。日系三世の中年男性で、この店の古株だ。
「今夜、VIPルームに入ってくれ。指名が入ってる」
「指名?」
「柏木翔太様だ」
血の気が引いた。
「……私が、ですか」
「ああ。『結城凛を指名する。彼女以外は認めない』ってさ」
田中が困ったように肩をすくめた。VIP客の無茶な要求には慣れているのだろう。
「断れないのか、って顔だな。悪いが、あの客はボスの知り合いでもある。無下にはできん」
「……わかりました」
選択肢はなかった。私はただのディーラー。客の指名には応じるしかない。
(何を企んでるの、あの男……)
嫌な予感が、背筋を這い上がった。
◇◇◇
夜。VIPルームには、翔太と美咲が待っていた。
加えて、見知らぬ男が一人。銀髪をオールバックに撫でつけ、高価な葉巻を燻らせている。鋭い灰色の目が、猛禽類のように光っていた。
(この人が——)
ヴィクター・モロー。
アレクサンダーが追う、復讐の標的。ラスベガスの闘技場を牛耳る悪徳カジノ王。
まさか、こんな形で顔を合わせることになるとは。
「おお、君が結城凛か」
モローが、品定めするような目で私を見た。
「翔太から聞いているよ。腕のいいディーラーだとね」
「恐れ入ります」
「謙遜しなくていい。私は本物を見抜く目を持っている」
彼が葉巻を口元から離し、灰を落とした。
「君の動きは、並のディーラーとは違う。もっと……深いものを感じる」
「……」
「結城家。『幻のギャンブラー』の末裔。そうだろう?」
心臓が跳ねた。
この男も、知っている。私の正体を。
「翔太が教えてくれたよ。君の一族のこと。実に興味深い」
視線を翔太に向けた。彼は得意げな笑みを浮かべていた。
あの男は、私の全てを売り渡したのだ。過去も、血筋も、秘密も。自分の利益のために。
(……最低)
怒りが込み上げる。でも、表情には出さない。ここで感情を見せたら、この男たちの思う壺だ。
「それで、今夜は何をなさいますか?」
私は完璧な笑顔で尋ねた。
「ブラックジャックを」
モローが答えた。
「君のディーリングで、少し遊ばせてもらおう」
ゲームが始まった。
私はカードを配り、彼らは賭けた。普通のVIPプレイと何も変わらない。表面上は。
でも、空気が違う。
モローの目が、常に私を観察している。私の手つき、表情、呼吸——全てを分析しようとしているのがわかった。
(試されてる)
これはテストだ。私の実力を測ろうとしている。
「ねえりんちゃん」
美咲が甘えた声で口を開いた。
「最近、アレクサンダーさんと仲良いんだって? 羨ましいな〜」
「お仕事の話をしているだけです」
「えー、本当に? 毎晩二人きりなんでしょ?」
美咲がニヤニヤしている。わざと挑発しているのだ。
「あ、でもりんちゃんって恋愛に興味ないんだっけ。昔からそうだったもんね。地味で、真面目で、つまんない女——」
「美咲」
翔太が制止した。意外だった。彼が美咲を止めるなんて。
「……何よ、翔太」
「今日は遊びじゃない。ビジネスの話だ」
翔太がモローに目配せした。何か、企んでいる顔だ。
「凛」
翔太が、私に向き直った。
「お前に、提案がある」
「……何でしょうか」
「モローさんの下で働かないか」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「ディーラーとしてじゃない。プレイヤーとしてだ。お前の腕があれば、もっと稼げる。ゴールデン・エースみたいな二流のカジノにいる必要はない」
「…………」
「俺が口を利いてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
翔太が自信満々に言った。まるで、恩を売っているつもりのようだ。
(この男、本当に何もわかってない)
呆れを通り越して、笑いそうになった。
かつて私の才能を「恥」と呼んだ男が、今度はその才能を利用しようとしている。自分の都合で、手のひらを返して。
そして何より——この男は気づいていない。自分が「駒」に過ぎないことを。
モローの目を見た。
この男は、翔太を対等なパートナーだと思わせているだけだ。実際は使い捨ての道具。利用価値がなくなれば、容赦なく切り捨てるつもりでいる。
「お申し出はありがたいのですが」
私は、にっこりと微笑んだ。
「私はゴールデン・エースが気に入っておりますので。お断りいたします」
翔太の顔が歪んだ。予想外の返答だったらしい。
「は? 何言ってんだお前。こんなチャンス——」
「お気持ちだけ、頂戴いたします」
「おい、待て——」
「翔太」
モローが、静かに翔太を制した。
「無理強いはよくない。彼女には彼女の考えがあるのだろう」
「しかし——」
「いいんだ」
モローが私を見た。その目に、不気味な光が宿っている。
「人は、追い詰められれば必ず選択を変える。焦る必要はない」
その言葉は、警告のように響いた。
「また会おう、結城凛。君のような才能が、埋もれているのは惜しい」
モローが立ち上がった。翔太と美咲も、慌ててそれに続く。
彼らが去った後、VIPルームには私だけが残された。
手が、微かに震えていた。
モローの圧力は、想像以上だった。あの男は危険だ。翔太や美咲とは、格が違う。
でも——
「負けない」
私は、誰もいない部屋で呟いた。
「あの男にも、誰にも。もう二度と、負けない」
左手首の、桜の花びら型の痣が熱を持った気がした。
◇◇◇
その夜、オーナー室で全てを報告した。
「なるほど。モローが直接接触してきたか」
アレクサンダーが、眉をひそめた。
「予想より早い。君の存在に、相当興味を持っているようだ」
「……すみません。余計な接触を——」
「君が謝る必要はない。むしろ、よく耐えた」
彼が、テーブル越しに私を見た。
「あの男は、人を追い詰めるのが上手い。その場で折れなかったのは、大したものだ」
「お褒めに預かり恐縮です」
「皮肉じゃない。本心だ」
アレクサンダーが立ち上がり、窓際に歩いた。
夜景が、彼の横顔を照らしている。
「モローは必ず、また仕掛けてくる。今度は、もっと直接的な方法で」
「……脅迫、ですか」
「あるいは、懐柔。金か、地位か、あるいは——」
彼が振り向いた。
「君の大切なものを、人質に取るかもしれない」
「大切なもの……」
「日本に、祖父がいるだろう」
心臓が凍りついた。
「結城誠一郎。伝説のギャンブラー。君が最も大切にしている人だ」
「どうして、それを——」
「調べた。君のことを、全て」
アレクサンダーが、真っ直ぐに私を見つめた。
「敵対する可能性のある相手は、徹底的に調べる。それが俺のやり方だ」
「……なるほど」
「怒っているか?」
「いいえ」
私は首を振った。
怒りよりも、納得が勝った。彼は、生き残るために必要なことをしているだけだ。敵の情報を集めるのと同じように、味方の情報も集める。合理的な判断だ。
「祖父には、連絡を入れておきます。気をつけるように」
「それがいい。必要なら、こちらで護衛を手配する」
「……そこまでしていただく必要は」
「君が安心して戦えるなら、安い投資だ」
アレクサンダーが、淡々と言った。
でも、その目には——なんだろう。温かい、と言うには硬いけど、冷たくはない。不思議な光が宿っていた。
「君は、俺の切り札だ。最高のコンディションで、トーナメントに臨んでもらいたい」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない。さあ——」
彼がテーブルに戻り、カードを手に取った。
「訓練を続けよう。今夜は、三時まで付き合ってもらう」
「了解です」
私も席についた。
カードが配られ、ゲームが始まる。
彼の青灰色の瞳と、私の漆黒の瞳が交差する。
この一週間で、何度この光景を繰り返しただろう。
毎晩、毎晩、向かい合って、カードを交わして、心理を読み合って。
(不思議だな)
こんなに長い時間、一人の人間と向き合ったのは初めてだった。翔太とは、こんな風に過ごしたことがない。彼はいつも自分の話ばかりで、私のことなんて見ていなかった。
でも、アレクサンダーは違う。
彼は、私を見ている。私の全てを、見抜こうとしている。
それは、恐ろしくもあり——心地よくもあった。
「何を考えている」
アレクサンダーの声で、我に返った。
「いえ……何でもありません」
「嘘だな」
彼が、かすかに笑った。
「君の目が、少し揺らいだ。今、何か考えていただろう」
「……相変わらず、鋭いですね」
「君ほどじゃない」
カードが、テーブルに置かれた。
「集中しろ。今夜の勝負は、まだ始まったばかりだ」
「はい」
私は、目の前のゲームに意識を戻した。
余計な感情は、後だ。今は、勝つことだけを考える。
でも——心のどこかで、小さな炎が灯ったのを感じた。
それが何なのか、今はまだわからないけれど。
◇◇◇
トーナメントまで、あと一週間。
「凛、今夜は出勤しなくていい」
アレクサンダーの言葉に、私は目を丸くした。
「……どういう意味ですか」
「今日から本番まで、君はディーラーの仕事から離れる。トーナメントの準備に専念しろ」
「でも、そんな急に——」
「支配人には話を通してある。休暇扱いだ」
彼が、書類を差し出した。受け取ると、そこには私の「有給休暇届」が既に承認されていた。
(勝手に決めないでほしいんだけど……)
とは思ったものの、反論はしなかった。正直、助かる部分もあった。ディーラーの仕事をしながらの訓練は、体力的にかなりキツかったのだ。
「それと、今日から住む場所も変わる」
「は?」
「安全のためだ。モローが何を仕掛けてくるかわからない。君のアパートは、監視されている可能性がある」
「……どこに住めと?」
「俺の家だ」
今度こそ、声が出なかった。
「誤解するな。別棟がある。そこを使え」
「いや、でも——」
「マルコも住んでいる。何かあればすぐに対応できる」
アレクサンダーが、淡々と説明した。
合理的だ。確かに、一人暮らしのアパートより安全だろう。でも——
「あの、普通に考えて、独身男性の家に女性が住むのは——」
「世間体を気にしている場合か?」
「気にします」
「命より大事か?」
「それは……」
言い返せなかった。
「今日の午後、マルコが荷物を取りに行く。必要なものをリストアップしておけ」
「…………はい」
強引だ。傲慢だ。自分勝手だ。
でも——全部、私のためを思ってのことなのもわかる。だから、余計にタチが悪い。
(本当に、ずるい人……)
心の中で呟きながら、私は諦めてリストを書き始めた。
◇◇◇
アレクサンダーの家——というより、屋敷だった。
ラスベガス郊外にある白亜の豪邸。広大な庭園。プール。テニスコート。まるで映画のセットのようだ。
「ようこそ、凛」
マルコが、陽気に出迎えてくれた。
「こっちだ。君の部屋は、別棟の二階。オーシャンビュー……じゃなくてデザートビューだけど、悪くないぞ」
「ありがとう」
「緊張してる?」
「……少し」
「大丈夫。ボスは見かけによらず紳士だからな。夜這いなんてしないさ」
「そういう心配はしてない」
「本当に?」
マルコがニヤニヤしている。からかわれているのはわかっているけど、上手い返しが思いつかない。
「マルコ」
背後から、冷たい声が響いた。
「余計なことを言うな」
「へいへい、ボス」
アレクサンダーが現れた。カジュアルな服装——ジーンズに白いシャツ——は初めて見る。仕事モードとは違う、少しだけ柔らかい雰囲気。
(……似合ってる)
余計なことを考えた。
「部屋の案内は俺がする。マルコ、君は荷物を運んでおけ」
「了解」
マルコがウィンクして去っていった。意味深な目つきはやめてほしい。
「こっちだ」
アレクサンダーに導かれ、別棟へと向かった。
途中、庭園を抜ける。手入れの行き届いた芝生、色とりどりの花々、中央には噴水。美しいけど、どこか寂しい印象を受けた。
「一人で住むには、広すぎますね」
思わず口に出た言葉に、アレクサンダーが足を止めた。
「……ああ。父が建てた家だ。あの人は、大家族で暮らすことを夢見ていた」
「……」
「結局、叶わなかったが」
彼の声が、少しだけ沈んだ。
私は何も言えなかった。何を言っても、軽薄になる気がした。
「着いた」
別棟は、本棟より小さいものの、それでも十分な広さがあった。二階建て、おそらく四部屋以上。
「二階の奥が君の部屋だ。バス・トイレ付き。何か必要なものがあれば言ってくれ」
「……ありがとうございます」
「それと——」
アレクサンダーが振り向いた。
「今夜、ディナーを一緒にどうだ」
予想外の提案に、目を瞬かせた。
「訓練も兼ねて。食事をしながら、相手の心理を読む練習をする」
「……なるほど」
「嫌か?」
「いいえ。喜んで」
私の返事に、彼の表情が少しだけ緩んだ。
「では、七時に本棟のダイニングで。ドレスコードはスマートカジュアルで構わない」
「わかりました」
彼が去っていくのを見送りながら、私は胸の鼓動が少し速くなっているのに気づいた。
(訓練よ。ただの訓練)
自分に言い聞かせる。でも、どこかワクワクしているのは否定できなかった。
◇◇◇
七時。本棟のダイニング。
私は、持ってきた中で一番マシなワンピースを着て現れた。黒のシンプルなAライン。髪はいつものシニヨンを下ろして、軽くウェーブをつけている。
「来たか」
アレクサンダーが、既にテーブルについていた。
黒のニットに、グレーのスラックス。カジュアルなのに、やはりどこか気品がある。この人は何を着ても絵になるのだろう。
「座って」
向かい合って座ると、ワインが注がれた。深い赤色。香りからして、高級品だとわかる。
「今夜のメニューは、コース料理だ。シェフが腕を振るってくれた」
「シェフがいるんですか」
「週に三回だけ来てもらっている。普段は外食か、マルコの手料理だ」
「マルコさん、料理もできるんですね」
「イタリア系だからな。パスタだけは、プロ級だ」
前菜が運ばれてきた。サーモンのマリネと、彩り豊かな野菜。見た目も味も、完璧だった。
「美味しい……」
「良かった」
アレクサンダーが、グラスを傾けた。
「さて、訓練を始めよう」
「はい」
「今夜は、質問に答える形式だ。俺が質問し、君が答える。嘘をついても構わない」
「嘘を?」
「ああ。俺が見抜けるか、試させてもらう」
なるほど。逆パターンの訓練か。
「いいですよ。どうぞ」
「では、最初の質問」
彼の青灰色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「君は今、幸せか?」
不意を突かれた。
もっと軽い質問を予想していた。好きな食べ物とか、趣味とか。
「……幸せ、ですか」
「ああ。正直に答えてくれ」
しばらく考えた。幸せとは何だろう。五年前の私は、幸せだと思っていた。婚約者がいて、親友がいて、未来が約束されていると信じていた。
でも、それは全部嘘だった。
「今は……わかりません」
正直に答えた。
「でも、不幸ではないです。今の私は、五年前より強い。それだけは、確かです」
「……なるほど」
「嘘、見抜けましたか?」
「嘘じゃなかった」
アレクサンダーが、小さく笑った。
「君は、正直だな。ポーカーには向いてないんじゃないか」
「失礼な。私だって嘘くらいつけます」
「そうか? では、次の質問」
彼が身を乗り出した。
「俺のことを、どう思っている?」
また、不意を突かれた。
今度は、すぐに答えられなかった。
「どう、とは……」
「信用しているか。利用しているだけか。あるいは——」
「あるいは?」
「それ以外の感情があるか」
心臓が跳ねた。
彼の目が、私の奥を覗き込んでいる。
「……利用、だけではないです」
「それは?」
「信用は、しています。あなたは、約束を守る人だと思う」
「それだけか?」
「…………」
答えられなかった。
それ以外に、何かあるのかと問われれば——わからない。わからないのだ、自分でも。
「難しい質問ですね」
逃げるように言った。
「もう少し、時間をください。答えが見つかったら、お伝えします」
「……いいだろう」
アレクサンダーが、グラスを傾けた。その表情は読めない。満足なのか、不満なのか。
「俺からも、一つ言っておくことがある」
「何ですか」
「俺は——」
彼が言葉を切った。何かを言いかけて、やめたように見えた。
「いや、今はいい。トーナメントが終わってから、話そう」
「……気になりますね」
「そうか?」
「ええ。とても」
私の言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。そして——初めて見る、柔らかい笑みを浮かべた。
「君は、時々、俺を驚かせるな」
「お互い様では?」
「違いない」
ワインを飲み干し、彼が立ち上がった。
「今夜は、これで終わりにしよう。明日から、本格的な訓練に入る。早めに休んでくれ」
「わかりました」
「おやすみ、凛」
「おやすみなさい、アレクサンダー」
名前を呼んだのは、初めてだった。
彼が少し驚いた顔をして、それからまた笑った。
「アレックス、でいい」
「……アレックス」
「ああ。そっちの方が、しっくりくる」
彼が去っていく背中を見送りながら、私は胸に手を当てた。
心臓が、まだ少し速く打っている。
(これは……何なの)
わからない。でも、不快じゃない。
むしろ——温かい。
夜空を見上げた。ラスベガスの星は、あまり見えない。でも、確かにそこにある。
明日から、最後の一週間が始まる。
勝負の時は、近い。
◇◇◇
トーナメント当日。
会場は、モローが所有する「モロー・カジノ」の地下。表向きは存在しない、招待制のみの秘密の空間。
「緊張しているか?」
アレックスの声に、私は首を振った。
「いいえ。むしろ、楽しみです」
「……相変わらず、肝が据わっているな」
「お褒めに預かり光栄です」
三週間の訓練を経て、私は変わった。
封印していた才能は完全に目覚め、かつてないほど研ぎ澄まされている。今の私なら、誰にでも勝てる——そんな自信が、体の奥から湧き上がっていた。
「参加者は十二名。招待制で、全員が腕利きのギャンブラーだ」
アレックスが、リストを見せた。
知らない名前ばかり。でも、一つだけ見覚えがある。
「柏木翔太……参加するんですね」
「ああ。モローの後ろ盾で、特別枠だ。腕は大したことない。早々に脱落するだろう」
「そうですか」
正直、どうでもよかった。翔太は、もう私の敵ではない。本当の敵は——
「ヴィクター・モローも、参加する」
アレックスの声が、低くなった。
「優勝候補だ。奴は、ただの悪党じゃない。ギャンブラーとしても、一流だ」
「知っています」
「勝てるか?」
「勝ちます」
断言した。
アレックスが、私の目を見つめた。数秒の沈黙。そして——
「信じている」
短い言葉だった。でも、その重みは十分に伝わった。
「ありがとう。行ってきます」
私は、会場へと歩き出した。
◇◇◇
地下会場は、まるで異世界だった。
煌びやかなシャンデリア。高級な調度品。そして、中央に鎮座する大きなポーカーテーブル。
参加者が、続々と集まっている。国籍も年齢も様々。でも、全員に共通しているのは——「勝負師の目」だ。
「おや、結城凛さん」
聞き覚えのある声に振り向くと、モローが立っていた。白いタキシード。胸にはルビーのブローチ。完璧な「主催者」の出で立ち。
「来てくれて嬉しいよ。期待しているからね」
「恐縮です」
「翔太から聞いたよ。君の一族のこと。『幻のギャンブラー』の末裔がこのテーブルに着くとは、歴史的な夜だ」
モローが、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔の裏に、何が隠されているのかはわからない。
「健闘を祈るよ。もっとも——」
彼が、声を落とした。
「優勝するのは、私だがね」
「どうでしょうね」
私は、微笑み返した。
「やってみないと、わかりませんよ」
モローの目が、一瞬だけ鋭くなった。でも、すぐにまた穏やかな笑顔に戻った。
「……面白い女だ。君のような人間は、好きだよ」
「光栄です」
彼が去っていくのを見送りながら、私は内心で呟いた。
(好きとか嫌いとか、どうでもいい。私はあなたを、叩き潰しに来たのよ)
◇◇◇
ゲームが始まった。
テキサスホールデム。長丁場のトーナメント形式。最後まで生き残った者が、優勝となる。
最初の数ラウンドは、様子見だった。他の参加者の癖を観察し、パターンを分析する。
私の得意分野だ。
三時間後。参加者は十二名から六名に減っていた。
残っているのは——私、モロー、翔太、そして三人の外国人ギャンブラー。
「やるじゃないか、凛」
翔太が、嫌味ったらしく言った。
「まさか、ここまで残るとはな」
「お褒めに預かり光栄」
「褒めてねえよ。運がいいだけだ」
「そうかもしれませんね」
私は涼しい顔で答えた。内心では、彼のチップの山を眺めていた。
(残り少ない。あと二、三ラウンドで脱落するわね)
予想通り、翔太は次のラウンドで大きく賭けて——負けた。
フルハウスを自信満々に見せたら、相手はフォーカード。基本中の基本のミス。
「くそっ……!」
翔太が、テーブルを叩いた。
「イカサマだ! こんなの、ありえない!」
「柏木さん、落ち着いて」
ディーラーが冷静に制止した。
「カードは全て、正規の手順で——」
「うるさい! こんな——」
「翔太」
モローの声が、静かに響いた。
「みっともない真似はよせ。負けは負けだ」
「しかし——」
「退場しろ。これ以上、恥を晒すな」
冷たい声だった。使い捨ての駒を見る目だった。
翔太の顔が、真っ青になった。
「ま、待ってくれ、モローさん。俺はまだ——」
「もういい。用済みだ」
モローが、手を振った。すると、スーツの男たちが翔太を取り囲んだ。
「おい、何だよ、これ——」
「君には、まだ『返済』が残っている。私の資金を、いくら使い込んだと思っている?」
「そ、それは……」
「後で、ゆっくり話し合おう。連れていけ」
翔太が、引きずられるように連行されていった。
「待って、翔太!」
ギャラリー席から、美咲の悲鳴が聞こえた。
でも、誰も彼女を相手にしない。翔太が消えた瞬間、彼女の存在価値もなくなったのだ。
(因果応報、ね)
冷たいようだけど、同情する気にはなれなかった。自分で蒔いた種だ。自分で刈り取るしかない。
「さて」
モローが、私を見た。
「邪魔者はいなくなった。これからが、本番だね」
「そうですね」
私は、カードを手に取った。
◇◇◇
さらに二時間後。
参加者は、二人だけになっていた。
私と、ヴィクター・モロー。
「素晴らしい」
モローが、感嘆の声を上げた。
「予想以上だよ、結城凛。いや——『幻のギャンブラー』の末裔」
「ありがとうございます」
「最後の勝負だ。全てを賭けよう」
彼の目が、ギラリと光った。
「このトーナメントの賞金だけじゃない。私の全てを賭けてもいい。その代わり、君も——」
「何を賭けろと?」
「君自身を」
モローが、身を乗り出した。
「私の下で働け。君の才能は、この程度の場所に埋もれさせるには惜しい。私と組めば、世界中のカジノを支配できる」
「お断りします」
「即答か。考えもしないのか?」
「考える必要がありません」
私は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「私は、自分の意思で生きると決めました。誰かの道具になるつもりはない」
「……なるほど」
モローの目が、冷たくなった。
「ならば、勝負で決めよう。君が勝てば、好きにしろ。だが、私が勝てば——」
「勝ちます」
断言した。
「私が、勝ちます」
カードが配られた。
最後の勝負が、始まった。
◇◇◇
私の手札——ハートのエースと、スペードのエース。
ポケットエース。最強のスターティングハンド。
(来た)
心臓が高鳴る。でも、顔には出さない。これが、最後の勝負だ。
フロップが開かれた。
ハートのキング、ダイヤのキング、クラブの10。
私の手札と合わせると、ツーペア——エースとキング。強い手だ。
「チェック」
モローが、様子見に入った。
「ベット」
私は、強気に出た。
「コール」
彼が応じる。
ターン。スペードの3が開かれた。
状況は変わらない。
「チェック」
「ベット」
「コール」
同じやり取りが繰り返される。
お互いに、相手の出方を窺っている。
リバー。最後の一枚。
——ハートのエース。
私のツーペアが、フルハウスに変わった。エースのスリーカードと、キングのペア。
(これは……勝った)
確信した。フルハウスは、非常に強い手だ。これに勝てるのは、フォーカードかストレートフラッシュくらい。
でも——
「オールイン」
モローが、全てのチップを押し出した。
その目が、私を見つめている。自信に満ちた、獲物を仕留める直前の猛禽の目。
(……何かある)
直感が警鐘を鳴らす。この男は、ブラフでオールインするタイプじゃない。何か、確信を持っているはず。
テーブルのカードを見る。
ハートのキング、ダイヤのキング、クラブの10、スペードの3、ハートのエース。
彼が持っている可能性のある最強の手は——
(キングのフォーカード……!)
あり得る。もし彼がキングのペアを持っていたら、フォーカードが成立する。それなら、私のフルハウスは負ける。
彼の顔を見た。
完璧なポーカーフェイス。何も読み取れない。
でも——
ほんの一瞬。本当に微かな、瞬きの乱れ。
それを、私は見逃さなかった。
(嘘だ)
確信した。彼はブラフをしている。キングのペアは、持っていない。
なぜわかるのか。理屈じゃない。三週間、アレックスと毎晩向き合ってきた。何百回、何千回と、相手の目を見てきた。
その経験が、今、答えを教えてくれる。
「コール」
私は、全てのチップを押し出した。
「ショウダウン」
二人同時に、手札を開く。
私——ハートのエースと、スペードのエース。フルハウス。
彼——スペードのキングと、クラブのクイーン。ツーペア。
沈黙が、会場を包んだ。
「……私の、勝ちですね」
静かに、そう言った。
モローの顔が、初めて歪んだ。驚愕、怒り、そして——恐怖。
「馬鹿な……どうして……」
「どうして、でしょうね」
私は立ち上がった。
「でも、一つだけ言えることがあります」
「何だ……」
「賭けの勝敗は、カードが配られた瞬間に決まるんじゃない」
彼を、真っ直ぐに見下ろした。
「自分を信じた瞬間に、決まるのよ」
ギャラリーが、一斉に湧いた。
◇◇◇
トーナメント終了後。
モローは、その場で警察に逮捕された。資金洗浄、詐欺、脅迫——数え切れないほどの罪状が、一気に明るみに出たのだ。
アレックスが、全てを準備していた。証拠を集め、関係機関に根回しし、この瞬間を待っていた。
「おつかれさま」
会場の外で、彼が待っていた。
「見ていたよ。最後の勝負」
「どうでした?」
「——完璧だった」
彼が、微笑んだ。今まで見た中で、一番穏やかな笑顔だった。
「君のおかげで、父の仇を取れた。ありがとう」
「私も、自分の復讐を果たせました。おあいこです」
「そうか」
沈黙が流れた。
でも、不快な沈黙じゃない。むしろ、心地いい。
「凛」
「はい」
「前に、言いかけたことがある」
「……覚えています」
「今、言ってもいいか」
「どうぞ」
アレックスが、一歩近づいた。
ラスベガスの夜風が、二人の間を吹き抜ける。
「俺は、君を道具として使うつもりだった」
「知っています」
「でも、今は違う」
彼の手が、私の手を取った。大きくて、温かい手。
「君と一緒に、この先も——」
「アレックス」
私は、彼の言葉を遮った。
「私にも、言いたいことがあります」
「……何だ」
「前に聞かれました。あなたのことを、どう思っているか」
「ああ」
「答えが、見つかりました」
彼の青灰色の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、私を見てくれた。私の才能を、私の強さを、私の弱さを。全部、受け止めてくれた」
「……」
「初めてです。こんな風に、誰かに向き合ってもらったのは」
胸が熱くなる。でも、今度は逃げない。
「だから——もし、あなたさえよければ」
「凛」
「私も、あなたと一緒に——」
言葉は、最後まで言えなかった。
彼の腕が、私を引き寄せた。
そして——唇が、重なった。
ラスベガスのネオンが、二人を照らしている。
長い夜が、ようやく明けようとしていた。
◇◇◇
後日。
私は、日本にいた。
祖父の家——結城家の本宅を、久しぶりに訪れていた。
「おかえり、凛」
祖父——結城誠一郎が、縁側で出迎えてくれた。
七十八歳とは思えないほど、背筋がまっすぐだ。「東洋の魔術師」の威厳は、今も健在だった。
「ただいま、おじいちゃん」
「聞いたぞ。モローを倒したそうだな」
「……知ってたの?」
「ギャンブルの世界は狭い。噂はすぐに広まる」
祖父が、穏やかに笑った。
「よくやった。誇りに思うぞ」
「……ありがとう」
胸が熱くなった。ずっと、この言葉を待っていた気がする。
「それで、隣にいるのは誰だ」
祖父の視線が、私の後ろに向いた。
アレックスが、緊張した面持ちで立っている。
「アレクサンダー・クロウと申します。凛さんとお付き合いさせていただいております」
「ほう」
祖父の目が、鋭くなった。品定めするような視線。
「ギャンブルは、できるのか」
「……はい。父から叩き込まれました」
「ならば、一局付き合え」
「え?」
「凛の伴侶として認めるかどうか、その腕で決める」
祖父が、どこからともなくカードを取り出した。
「おじいちゃん、ちょっと待って——」
「いや、受けて立ちます」
アレックスが、真剣な顔で答えた。
「俺の本気を、見てください」
「面白い」
祖父が、ニヤリと笑った。
私はため息をついた。
この二人、似た者同士かもしれない。
でも——悪くない。
いや、むしろ、最高だ。
窓の外を見た。春の陽射しが、桜の花びらを照らしている。
左手首の痣が、ほんのりと温かかった。
「さあ、勝負だ」
祖父の声が響く。
新しい物語が、始まろうとしていた。




