表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「お前みたいな地味な女、捨てて正解だった」と元婚約者に嘲笑された私ですが、実は『幻のギャンブラー』一族の末裔でした。ラスベガスで出会った氷の帝王と共に、裏切り者たちを叩き潰すことにします

作者: アウラ

「お前みたいな地味な女、捨てて正解だった」


 VIPルームに響いた声に、私の手は微塵も揺らがなかった。

 カードが弧を描いてテーブルに吸い込まれていく。完璧なディール。それが私、結城凛の仕事だ。


 ゴールデン・エースのVIPルーム。琥珀色の照明が高級感を演出し、チップの積まれたテーブルには今夜も富裕層たちが集っている。

 その中心に、見覚えのありすぎる男が座っていた。


 柏木翔太。二十八歳。私の元婚約者。

 そしてその腕に絡みつくように寄り添っているのは——


「りんちゃん、久しぶり〜」


 白石美咲。かつての親友。今は翔太の恋人。

 ふわふわの巻き髪を揺らしながら、美咲は「守ってあげたい系」の笑顔を浮かべている。その目の奥に、隠しきれない優越感が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。


(……あー、なるほどね)


 五年ぶりの再会。太平洋を渡ってアメリカまで来たのに、よりによってこの組み合わせ。神様って本当に意地が悪い。


「まさかラスベガスでディーラーなんてやってるとは思わなかったよ」


 翔太が嘲るように言った。ブランドスーツを着込んで、腕には高級時計。見た目だけは立派な「成功者」のつもりらしい。


「地味な女は地味な仕事がお似合いってことか。なあ、美咲?」

「もう、翔太ったら〜。でも確かに、りんちゃんって昔から目立たないタイプだったもんね」


 美咲が翔太の腕をぎゅっと抱きしめる。わざとらしく。見せつけるように。


(……この茶番、いつまで続くのかしら)


 私は表情を変えずに、次のカードを配った。

 氷の女王。それが私の異名。どんな客が来ようと、どんな言葉を投げられようと、完璧なポーカーフェイスを崩さない。

 それがディーラーとしての矜持であり——過去を捨てた私の、唯一の生き方だった。


「ベットは?」


 私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「おいおい、冷たいな。元婚約者に対してそれかよ」

「お客様、ベットをお願いいたします」

「……チッ」


 翔太が舌打ちをして、チップを投げるように置いた。

 マナーの悪さは相変わらず。いや、むしろ悪化している。成功者気取りが鼻につくようになった分、余計にタチが悪い。


(私、本当にこの人と結婚しようとしてたのよね……)


 五年前の自分を殴りたい。いや、殴るだけじゃ足りない。正座させて三時間説教したい。


「ねえりんちゃん、翔太すごいんだよ? 今、投資で大成功してて、ラスベガスにも進出するんだって」


 美咲が甘えた声で言う。自虐風自慢の天才。この五年で腕を上げたようだ。


「そうですか。おめでとうございます」

「……それだけ?」


 翔太が目を細めた。期待していた反応じゃなかったらしい。

 何を期待していたのだろう。悔しがる私? 泣き崩れる私? 「捨てないで」と縋る私?


 残念だけど、そんな私は五年前に死んだ。


「りんちゃん、なんか変わったね。昔はもっと、こう……」

「地味だった?」

「う、ううん、そういうわけじゃ……」


 美咲が言葉に詰まる。図星だったようだ。


「お客様、カードをオープンいたします」


 私は淡々と手を動かした。

 ディーラーの手が、ブラックジャック。

 翔太の手が、バースト。


「は? 嘘だろ」


 翔太が顔を歪める。負けたのが気に入らないらしい。


「おい、イカサマじゃないだろうな」

「お客様、当カジノは厳正な管理のもとで運営されております」

「俺は客だぞ。こんな端金で——」


「翔太」


 不意に、低い声が割り込んだ。


 振り向くと、VIPルームの入口に一人の男が立っていた。

 プラチナブロンドの髪。北欧の海を思わせる深い青灰色の瞳。彫刻のように整った顔立ちには、どこか影を帯びた表情が浮かんでいる。


 アレクサンダー・クロウ。

 このカジノ、ゴールデン・エースのオーナーにして、ラスベガスの若き実業家。

 通称「氷の帝王」。


(……なんでオーナーがここに?)


「アレックス、久しぶり」


 翔太が急に愛想よく立ち上がった。さっきまでの横柄さが嘘のように消えている。

 なるほど、この二人は知り合いらしい。


「ディーラーにイカサマ呼ばわりは感心しないな。彼女は、うちで最も優秀なスタッフだ」


 アレクサンダーの声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。


「いや、その、冗談だよ。な、美咲」

「う、うん……」


 翔太と美咲が萎縮している。権力の前では、彼らの虚勢など紙切れ同然だ。


「今夜はこの辺で切り上げたらどうだ。また来週、ビジネスの話をしよう」

「あ、ああ。そうだな」


 翔太が席を立つ。逃げるように、と言い換えてもいい。

 美咲が私をちらりと見た。勝ち誇った目——のはずだったのに、どこか不安げだった。


「じゃあね、りんちゃん。元気でね」


 その言葉に、私は無言で会釈だけを返した。


 二人が去った後、VIPルームには妙な静寂が降りた。

 他の客もスタッフも、何事かと様子を窺っている。


「結城凛」


 アレクサンダーが私の名を呼んだ。

 振り向くと、彼は鋭い目で私を見つめていた。獲物を見定める猛禽のような——いや、違う。

 それは、同類を見つけた者の目だった。


「少し、話がある」


 彼の言葉に、私の心臓が一度だけ強く脈打った。



◇◇◇



 オーナー室は、カジノの喧騒が嘘のように静かだった。

 ラスベガスの夜景を一望できる窓。革張りのソファ。壁には抽象画がいくつか。成功者の部屋、という表現がしっくりくる。


「座って」


 アレクサンダーがソファを示した。私は従った。今の私はただのディーラー。オーナーの命令には逆らえない。


「飲み物は?」

「いえ、結構です」

「そう硬くならなくていい。クビにするつもりで呼んだわけじゃない」


 彼がグラスにウイスキーを注ぎながら言った。琥珀色の液体が照明を反射してきらめく。


「では、何のご用でしょうか」

「君のディーリングを見ていた」


 アレクサンダーがソファに腰を下ろした。私と向かい合う形で。その青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「完璧だった。動き、タイミング、カードの扱い。五年間、毎日見てきたが、君ほどのディーラーは他にいない」

「恐れ入ります」

「——だからこそ、不自然だ」


 空気が変わった。


「君の技術は、ただのディーラーが持つものじゃない。あれは——」


 彼が言葉を切った。グラスを傾け、一口だけ飲む。


「『幻のギャンブラー』の技だ」


 心臓が凍りついた。


「結城家。東洋の魔術師・結城誠一郎を輩出した伝説の一族。カードの動きを読み、相手の心理を見抜く天才たち」


 アレクサンダーが淡々と語る。まるで調べ尽くしていたかのように。


「君は、その末裔だろう」


 沈黙が降りた。

 私は何も答えなかった。答える必要がなかった。彼の目は、すでに確信に満ちていたから。


(……バレた)


 五年間、必死に隠してきた。普通のディーラーとして、目立たず、才能を見せず、ただ生きてきた。

 「ギャンブラーの血なんて恥ずかしい。普通の女になれ」

 翔太の言葉が脳裏をよぎる。あの言葉に傷つき、才能を封印し、逃げるように海を渡った。


 それなのに——


「君の才能を、俺のために使わないか?」


 アレクサンダーの提案に、私は目を見開いた。


「……どういう意味ですか」

「文字通りの意味だ。君の力が必要なんだ。俺の——復讐のために」


 復讐。

 その言葉に、彼の目が一瞬だけ暗く燃えた。


「ヴィクター・モローという男を知っているか」

「……ラスベガスの闘技場、モロー・カジノのオーナー。裏社会を牛耳る男と噂されていますね」

「その男が、俺の父を殺した」


 アレクサンダーの声から、感情が消えた。いや、違う。感情を押し殺しているのだ。


「十年前、父はモローに騙された。イカサマで全財産を奪われ、借金を背負わされ、最後は——」


 彼が言葉を切った。左耳のダイヤのピアスに、無意識に触れている。


「父の形見だ。これだけが、残された」


 私は黙って聞いていた。

 彼の痛みが、どこか自分と重なって見えた。大切なものを奪われた者の、静かな怒り。


「モローは今、日本からの投資資金を使ってさらに勢力を拡大しようとしている。その窓口になっているのが——」

「柏木翔太」


 私の口から、その名前が滑り落ちた。


 アレクサンダーが目を細めた。肯定の意味だとわかった。


「彼はモローの資金洗浄に協力している。表向きは投資家、裏では犯罪の片棒を担いでいる」


(なるほど、そういうこと)


 翔太の「成功」の正体が見えた。結局この男は、他人の力を利用することでしか生きられない。昔は私の一族の情報網。今はモローの犯罪資金。

 自分では何も生み出せない。何も築けない。空っぽの器に、借り物の成功を詰め込んでいるだけ。


「……それで、私に何をさせたいんですか」


 アレクサンダーが身を乗り出した。


「モローは来月、非公式のポーカートーナメントを開催する。招待制の、ハイステークス。そこで奴を叩き潰したい」

「私を、プレイヤーとして出場させる?」

「ああ。君の腕なら、勝てる」


 断定的な言い方だった。根拠のない自信ではなく、私の実力を見抜いた上での確信。


「勝てば、モローは信用を失う。金も、人脈も、すべてが崩れる。そうすれば——」

「翔太も、道連れになる」


 私は彼の言葉を引き継いだ。


 アレクサンダーが頷いた。


「利害は一致している。俺はモローを潰したい。君は——」

「私の復讐にも、協力していただけますか?」


 私は真っ直ぐに彼を見つめた。

 五年間、封印してきた感情が、ゆっくりと溶け出していく。


「あの男……柏木翔太も、あなたの敵と繋がっているわ。私の復讐にも協力して」


 アレクサンダーが唇の端を上げた。笑っているのだとわかった。


「いいだろう」


 彼がグラスを掲げた。


「ならば、共闘だ。結城凛」


 私は立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 ラスベガスの夜景が、宝石箱をひっくり返したように煌めいている。この街は、夢と欲望が渦巻く場所。勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。


 五年前、私は敗者だった。

 愛も、誇りも、自分自身さえも失って、逃げるようにこの街に来た。


 でも——


「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ女じゃない」


 振り向いて、アレクサンダーを見つめる。

 彼の青灰色の瞳と、私の漆黒の瞳が交差した。


「自分の手で、自分の運命を切り開く」


 左手首に、桜の花びら型の痣が熱を持った気がした。

 一族の証。ギャンブラーの血。

 ずっと恥ずかしいと思っていた。隠さなければいけないと思っていた。


 でも、もう違う。


「協力します、アレクサンダー・クロウ」


 私は手を差し出した。


「——賭けの勝敗は、カードが配られた瞬間に決まるんじゃない」


 彼が私の手を取った。大きくて、温かい手だった。


「自分を信じた瞬間に、決まるのよ」


 ラスベガスの夜空に、新しいゲームの幕が上がった。



◇◇◇



「で、ボスが女連れ込んだってマジ?」


 翌日。ゴールデン・エースの従業員控室で、その噂は瞬く間に広まっていた。


「連れ込んだって言うか、話があるって呼び出したんでしょ」

「いやいや、夜の十一時にオーナー室に二人きりって、そういうことじゃん」

「氷の女王と氷の帝王って、お似合いじゃない? 二人とも冷たすぎて、一緒にいたら凍死しそうだけど」


 ロッカーで着替えながら、私は同僚たちの会話を聞き流していた。

 違う。そういうんじゃない。

 言いたいけど言えない。言ったところで信じてもらえないし、何より説明が面倒くさい。


(復讐の共犯者になりました、なんて言えるわけないでしょ)


 ため息を飲み込んで、ロッカーを閉めた。


「凛」


 声をかけられて振り向くと、マルコ・ヴァレンティが立っていた。

 アレクサンダーの右腕。元ボクサーという経歴に違わない、がっしりした体格。でも人懐っこい笑顔が特徴的で、スタッフからの人望も厚い。


「ボスが呼んでる。今すぐオーナー室に来てくれって」

「……わかりました」


 また噂が加速するな、と思いながら、私は控室を後にした。



◇◇◇



「今日から、君には特別な訓練を受けてもらう」


 オーナー室に入るなり、アレクサンダーはそう切り出した。

 昨夜と同じソファに座り、彼は書類に目を通している。相変わらず隙のない佇まいだ。


「訓練?」

「モローのトーナメントまで三週間ある。その間に、君の実力を最大限まで引き出す」


 彼が書類をテーブルに置いた。


「結城凛。君は間違いなく天才だ。だが、五年のブランクがある」

「……否定はしません」

「本気のギャンブルから離れていた。勝負勘が鈍っている可能性がある」


 図星だった。

 ディーラーとして働くのと、プレイヤーとして勝負するのは全く違う。前者は「見る」側、後者は「戦う」側。五年間、私は安全な場所から眺めているだけだった。


「俺が相手をする」


 アレクサンダーが立ち上がり、部屋の奥に歩いていった。

 そこには、私が昨日は気づかなかったものがあった。

 プライベート用のポーカーテーブル。プロ仕様の、本格的なやつだ。


「ここで、毎晩練習する。勤務終了後、この部屋に来い」

「……あなたが直接?」

「不満か?」

「いえ」


 不満というより、意外だった。

 彼ほどの実業家なら、専門のトレーナーを雇うこともできるはずだ。それをわざわざ自分で、というのは——


「俺も、下手ではない」


 アレクサンダーが振り向いた。その目に、挑戦的な光が宿っている。


「父から叩き込まれた。ポーカーの腕だけは、モローにも負けないつもりだ」

「そうですか」

「そうだ」


 妙な沈黙が流れた。

 お互いに、腹の探り合いをしているような空気。昨日は「協力者」として話をしたけど、今日からは「対戦相手」でもある。


「一つ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「なぜ、私を選んだんですか」


 アレクサンダーが目を細めた。


「他にもプロのギャンブラーはいるでしょう。モローを倒せる腕を持った人間は、世界中を探せば——」

「君がいい」


 遮るように、彼が言った。


「君じゃないと駄目だ」

「……理由を聞いても?」

「昨夜、VIPルームで見た」


 アレクサンダーが一歩、私に近づいた。


「元婚約者に罵倒されても、元親友に見下されても、君は瞬きひとつしなかった」

「それは——」

「普通なら、動揺する。怒りでも、悲しみでも、何かしらの感情が漏れる。だが君は、完璧だった」


 彼の目が、私の奥深くを見透かすように光った。


「あれは『感情がない』んじゃない。『感情を完璧に制御できる』んだ。ポーカーにおいて、それは何よりも重要な資質だ」


 息を呑んだ。

 見抜かれている。私の本質を。隠してきたものを。


「それに——」


 アレクサンダーが言葉を切った。わずかに表情が緩む。


「君は、俺と同じ目をしていた」

「同じ目?」

「復讐を誓った者の目だ」


 心臓が、一度だけ強く脈打った。


「俺は十年間、この日のために準備してきた。金を稼ぎ、人脈を築き、力を蓄えた。全ては、モローを叩き潰すため」

「……」

「君も同じだろう。五年間、耐えて、隠して、機会を待っていた」


 違う、と言いたかった。

 私はただ逃げていただけだ。復讐なんて考えていなかった。傷つくのが怖くて、戦うことを放棄していただけだ。


 でも——


「昨日、君は変わった」


 アレクサンダーが、真っ直ぐに私を見つめた。


「『誰かに選ばれるのを待つ女じゃない』と言った。あの瞬間、君の目に火が灯った。俺は、あの炎と共闘したい」


 不覚にも、胸が熱くなった。

 こんな風に言われたのは初めてだった。私の才能を「恥」と言った翔太とは、真逆の言葉。


(……ずるいな、この人)


 心の中でそっと呟く。こんな言葉を投げかけられたら、断れるわけがない。


「わかりました」


 私は一歩踏み出し、ポーカーテーブルの前に立った。


「やりましょう。あなたの期待に応えてみせます」


 アレクサンダーが頷いた。その顔に、かすかな笑みが浮かんでいる。


「今夜から始める。覚悟しておけ、結城凛。俺は容赦しない」

「望むところです」


 氷の帝王と氷の女王。

 二人の間に、静かな火花が散った。



◇◇◇



 その夜。

 勤務終了後、私は約束通りオーナー室を訪れた。


 アレクサンダーは既にテーブルについていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり上げている。昼間の隙のない実業家とは違う、少しだけラフな雰囲気。


(……あ、この人、意外と腕の筋肉すごいんだ)


 余計なことを考えている場合じゃない。私は向かい側の席に座った。


「ルールはテキサスホールデム。チップは無制限。降参は許さない」

「了解です」

「では——」


 彼の手が、カードをシャッフルし始めた。

 その動きに、私は目を見張った。


(上手い……)


 無駄のない、流れるような手つき。プロのディーラーと比べても遜色ない。いや、それ以上かもしれない。「下手ではない」なんて謙遜だった。この人、相当な使い手だ。


「君の番だ」


 カードが配られた。

 私の手札——ハートのエースと、スペードのキング。


(……悪くない)


 最初のラウンド。お互いに様子見で、小さくベットを重ねていく。

 フロップが開かれた。ハートのクイーン、ダイヤの10、クラブの3。


 私の手札と合わせると、ストレートの可能性がある。あと一枚、ジャックが来れば——


「レイズ」


 アレクサンダーが、大きくチップを積んだ。


(……強気に来た)


 彼の表情は完璧に無だ。何を考えているのか、全く読めない。

 でも、だからこそ——


「コール」


 私も応じた。ここで降りる理由はない。


 ターン。クラブの7が開かれた。

 状況は変わらない。私はまだストレートを狙える。


「チェック」


 アレクサンダーが様子見に入った。


(何かある)


 直感が囁く。この人は、ただ様子を見ているわけじゃない。何かを仕掛けようとしている。


「ベット」


 私は強気に出た。揺さぶりをかける。


「コール」


 彼は即座に応じた。迷いがない。


 リバー。最後の一枚が開かれる。

 ——スペードのジャック。


 ストレートが完成した。


(勝った)


 心の中でそう思った瞬間——


「オールイン」


 アレクサンダーが、全てのチップを押し出した。


 ……え?


 私の思考が一瞬止まった。

 ストレートは強い手だ。でも、彼がオールインしてくるということは——


(フルハウス? フラッシュ? いや、それとも——)


 彼の目を見た。

 青灰色の瞳は、深い湖のように静かだ。何も読み取れない。


(ブラフか、本気か)


 汗が滲んだ。心臓が早鐘を打つ。

 これが、本気の勝負。五年ぶりの、命がけの駆け引き。


「……コール」


 私は、全てを賭けた。


「ショウダウン」


 二人同時に、手札を開く。


 私——ハートのエースと、スペードのキング。ストレート。

 彼——ダイヤのクイーンと、ハートのクイーン。スリーカード。


「……私の勝ち、ですね」


 息を吐いた。勝った。ギリギリだったけど、勝った。


「ああ」


 アレクサンダーが頷いた。悔しそうな様子はない。むしろ、満足げにすら見える。


「やはり、君は天才だ」

「……ブラフでしたね、あのオールイン」

「気づいていたか」

「いいえ」


 正直に答えた。


「最後まで迷いました。でも——」

「でも?」

「あなたの目が、ほんの一瞬だけ揺らいだ」


 アレクサンダーが目を見開いた。


「オールインを宣言した直後。〇・一秒くらい、瞳孔が開いた。緊張していた証拠です。本当に強い手を持っていたなら、あんな反応はしない」

「……見ていたのか。あの一瞬を」

「私の一族は、相手の心理を見抜くことに長けています」


 祖父の言葉が蘇る。

 『カードを見るな。人を見ろ。勝負を決めるのは、手札じゃない。相手の心だ』


「五年のブランクは、思ったより影響していなかったようです」


 私は少しだけ笑った。自分でも驚くくらい、自然な笑みだった。


「……なるほど」


 アレクサンダーが椅子に深く座り直した。その顔に、今度こそはっきりと笑みが浮かんでいる。


「これは、予想以上だ」

「お褒めに預かり光栄です」

「もう一戦、いけるか?」

「もちろん」


 私は新しいカードを手に取った。


 長い夜が、始まった。



◇◇◇



 訓練が始まって一週間。

 私の生活は一変していた。


 昼はディーラーとして働き、夜はアレクサンダーと勝負する。睡眠時間は削られ、体力的にはキツい。でも——


(楽しい)


 不思議な感覚だった。

 五年間封印していた才能を、全力で解き放つ快感。強敵と渡り合う緊張感。勝負の駆け引きに没頭する充実感。

 忘れていた。この感覚を、ずっと忘れていた。


「凛、顔色悪いわよ。ちゃんと寝てる?」


 控室で、同僚のサラが心配そうに声をかけてきた。金髪碧眼の陽気なアメリカ人で、数少ない「友人」と呼べる存在だ。


「大丈夫、ちょっと夜更かししてるだけ」

「夜更かしって……まさか、本当にボスと?」

「違う違う。そういうんじゃないから」


 慌てて否定する。噂はまだ消えていないらしい。


「でも毎晩オーナー室に行ってるんでしょ? みんな見てるわよ」

「仕事の話をしてるだけ」

「仕事の話を、毎晩、二人きりで、深夜まで?」

「…………」


 反論できなかった。客観的に見れば、確かに怪しい。


「まあ、羨ましいけどね」


 サラがウィンクした。


「ボス、超イケメンだし。しかもあんたのこと、特別扱いしてるじゃない。もしかして、運命の恋?」

「ないない。絶対にない」


 即座に否定した。アレクサンダーとは、あくまでビジネスパートナー。復讐の共犯者。それ以上でも以下でもない。


(……はず)


 胸の奥が、微かにざわついた。

 気のせいだ。きっと寝不足のせいだ。


「結城さん」


 不意に、別の声がかかった。

 振り向くと、支配人の田中が立っていた。日系三世の中年男性で、この店の古株だ。


「今夜、VIPルームに入ってくれ。指名が入ってる」

「指名?」

「柏木翔太様だ」


 血の気が引いた。


「……私が、ですか」

「ああ。『結城凛を指名する。彼女以外は認めない』ってさ」


 田中が困ったように肩をすくめた。VIP客の無茶な要求には慣れているのだろう。


「断れないのか、って顔だな。悪いが、あの客はボスの知り合いでもある。無下にはできん」

「……わかりました」


 選択肢はなかった。私はただのディーラー。客の指名には応じるしかない。


(何を企んでるの、あの男……)


 嫌な予感が、背筋を這い上がった。



◇◇◇



 夜。VIPルームには、翔太と美咲が待っていた。

 加えて、見知らぬ男が一人。銀髪をオールバックに撫でつけ、高価な葉巻を燻らせている。鋭い灰色の目が、猛禽類のように光っていた。


(この人が——)


 ヴィクター・モロー。

 アレクサンダーが追う、復讐の標的。ラスベガスの闘技場を牛耳る悪徳カジノ王。


 まさか、こんな形で顔を合わせることになるとは。


「おお、君が結城凛か」


 モローが、品定めするような目で私を見た。


「翔太から聞いているよ。腕のいいディーラーだとね」

「恐れ入ります」

「謙遜しなくていい。私は本物を見抜く目を持っている」


 彼が葉巻を口元から離し、灰を落とした。


「君の動きは、並のディーラーとは違う。もっと……深いものを感じる」

「……」

「結城家。『幻のギャンブラー』の末裔。そうだろう?」


 心臓が跳ねた。

 この男も、知っている。私の正体を。


「翔太が教えてくれたよ。君の一族のこと。実に興味深い」


 視線を翔太に向けた。彼は得意げな笑みを浮かべていた。

 あの男は、私の全てを売り渡したのだ。過去も、血筋も、秘密も。自分の利益のために。


(……最低)


 怒りが込み上げる。でも、表情には出さない。ここで感情を見せたら、この男たちの思う壺だ。


「それで、今夜は何をなさいますか?」


 私は完璧な笑顔で尋ねた。


「ブラックジャックを」


 モローが答えた。


「君のディーリングで、少し遊ばせてもらおう」


 ゲームが始まった。


 私はカードを配り、彼らは賭けた。普通のVIPプレイと何も変わらない。表面上は。


 でも、空気が違う。

 モローの目が、常に私を観察している。私の手つき、表情、呼吸——全てを分析しようとしているのがわかった。


(試されてる)


 これはテストだ。私の実力を測ろうとしている。


「ねえりんちゃん」


 美咲が甘えた声で口を開いた。


「最近、アレクサンダーさんと仲良いんだって? 羨ましいな〜」

「お仕事の話をしているだけです」

「えー、本当に? 毎晩二人きりなんでしょ?」


 美咲がニヤニヤしている。わざと挑発しているのだ。


「あ、でもりんちゃんって恋愛に興味ないんだっけ。昔からそうだったもんね。地味で、真面目で、つまんない女——」

「美咲」


 翔太が制止した。意外だった。彼が美咲を止めるなんて。


「……何よ、翔太」

「今日は遊びじゃない。ビジネスの話だ」


 翔太がモローに目配せした。何か、企んでいる顔だ。


「凛」


 翔太が、私に向き直った。


「お前に、提案がある」

「……何でしょうか」

「モローさんの下で働かないか」


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。


「ディーラーとしてじゃない。プレイヤーとしてだ。お前の腕があれば、もっと稼げる。ゴールデン・エースみたいな二流のカジノにいる必要はない」

「…………」

「俺が口を利いてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」


 翔太が自信満々に言った。まるで、恩を売っているつもりのようだ。


(この男、本当に何もわかってない)


 呆れを通り越して、笑いそうになった。

 かつて私の才能を「恥」と呼んだ男が、今度はその才能を利用しようとしている。自分の都合で、手のひらを返して。

 そして何より——この男は気づいていない。自分が「駒」に過ぎないことを。


 モローの目を見た。

 この男は、翔太を対等なパートナーだと思わせているだけだ。実際は使い捨ての道具。利用価値がなくなれば、容赦なく切り捨てるつもりでいる。


「お申し出はありがたいのですが」


 私は、にっこりと微笑んだ。


「私はゴールデン・エースが気に入っておりますので。お断りいたします」


 翔太の顔が歪んだ。予想外の返答だったらしい。


「は? 何言ってんだお前。こんなチャンス——」

「お気持ちだけ、頂戴いたします」

「おい、待て——」

「翔太」


 モローが、静かに翔太を制した。


「無理強いはよくない。彼女には彼女の考えがあるのだろう」

「しかし——」

「いいんだ」


 モローが私を見た。その目に、不気味な光が宿っている。


「人は、追い詰められれば必ず選択を変える。焦る必要はない」


 その言葉は、警告のように響いた。


「また会おう、結城凛。君のような才能が、埋もれているのは惜しい」


 モローが立ち上がった。翔太と美咲も、慌ててそれに続く。


 彼らが去った後、VIPルームには私だけが残された。


 手が、微かに震えていた。

 モローの圧力は、想像以上だった。あの男は危険だ。翔太や美咲とは、格が違う。


 でも——


「負けない」


 私は、誰もいない部屋で呟いた。


「あの男にも、誰にも。もう二度と、負けない」


 左手首の、桜の花びら型の痣が熱を持った気がした。



◇◇◇



 その夜、オーナー室で全てを報告した。


「なるほど。モローが直接接触してきたか」


 アレクサンダーが、眉をひそめた。


「予想より早い。君の存在に、相当興味を持っているようだ」

「……すみません。余計な接触を——」

「君が謝る必要はない。むしろ、よく耐えた」


 彼が、テーブル越しに私を見た。


「あの男は、人を追い詰めるのが上手い。その場で折れなかったのは、大したものだ」

「お褒めに預かり恐縮です」

「皮肉じゃない。本心だ」


 アレクサンダーが立ち上がり、窓際に歩いた。

 夜景が、彼の横顔を照らしている。


「モローは必ず、また仕掛けてくる。今度は、もっと直接的な方法で」

「……脅迫、ですか」

「あるいは、懐柔。金か、地位か、あるいは——」


 彼が振り向いた。


「君の大切なものを、人質に取るかもしれない」

「大切なもの……」

「日本に、祖父がいるだろう」


 心臓が凍りついた。


「結城誠一郎。伝説のギャンブラー。君が最も大切にしている人だ」

「どうして、それを——」

「調べた。君のことを、全て」


 アレクサンダーが、真っ直ぐに私を見つめた。


「敵対する可能性のある相手は、徹底的に調べる。それが俺のやり方だ」

「……なるほど」

「怒っているか?」

「いいえ」


 私は首を振った。

 怒りよりも、納得が勝った。彼は、生き残るために必要なことをしているだけだ。敵の情報を集めるのと同じように、味方の情報も集める。合理的な判断だ。


「祖父には、連絡を入れておきます。気をつけるように」

「それがいい。必要なら、こちらで護衛を手配する」

「……そこまでしていただく必要は」

「君が安心して戦えるなら、安い投資だ」


 アレクサンダーが、淡々と言った。

 でも、その目には——なんだろう。温かい、と言うには硬いけど、冷たくはない。不思議な光が宿っていた。


「君は、俺の切り札だ。最高のコンディションで、トーナメントに臨んでもらいたい」

「……ありがとうございます」

「礼には及ばない。さあ——」


 彼がテーブルに戻り、カードを手に取った。


「訓練を続けよう。今夜は、三時まで付き合ってもらう」

「了解です」


 私も席についた。


 カードが配られ、ゲームが始まる。

 彼の青灰色の瞳と、私の漆黒の瞳が交差する。


 この一週間で、何度この光景を繰り返しただろう。

 毎晩、毎晩、向かい合って、カードを交わして、心理を読み合って。


(不思議だな)


 こんなに長い時間、一人の人間と向き合ったのは初めてだった。翔太とは、こんな風に過ごしたことがない。彼はいつも自分の話ばかりで、私のことなんて見ていなかった。


 でも、アレクサンダーは違う。

 彼は、私を見ている。私の全てを、見抜こうとしている。


 それは、恐ろしくもあり——心地よくもあった。


「何を考えている」


 アレクサンダーの声で、我に返った。


「いえ……何でもありません」

「嘘だな」


 彼が、かすかに笑った。


「君の目が、少し揺らいだ。今、何か考えていただろう」

「……相変わらず、鋭いですね」

「君ほどじゃない」


 カードが、テーブルに置かれた。


「集中しろ。今夜の勝負は、まだ始まったばかりだ」

「はい」


 私は、目の前のゲームに意識を戻した。

 余計な感情は、後だ。今は、勝つことだけを考える。


 でも——心のどこかで、小さな炎が灯ったのを感じた。


 それが何なのか、今はまだわからないけれど。



◇◇◇



 トーナメントまで、あと一週間。


「凛、今夜は出勤しなくていい」


 アレクサンダーの言葉に、私は目を丸くした。


「……どういう意味ですか」

「今日から本番まで、君はディーラーの仕事から離れる。トーナメントの準備に専念しろ」

「でも、そんな急に——」

「支配人には話を通してある。休暇扱いだ」


 彼が、書類を差し出した。受け取ると、そこには私の「有給休暇届」が既に承認されていた。


(勝手に決めないでほしいんだけど……)


 とは思ったものの、反論はしなかった。正直、助かる部分もあった。ディーラーの仕事をしながらの訓練は、体力的にかなりキツかったのだ。


「それと、今日から住む場所も変わる」

「は?」

「安全のためだ。モローが何を仕掛けてくるかわからない。君のアパートは、監視されている可能性がある」

「……どこに住めと?」

「俺の家だ」


 今度こそ、声が出なかった。


「誤解するな。別棟がある。そこを使え」

「いや、でも——」

「マルコも住んでいる。何かあればすぐに対応できる」


 アレクサンダーが、淡々と説明した。

 合理的だ。確かに、一人暮らしのアパートより安全だろう。でも——


「あの、普通に考えて、独身男性の家に女性が住むのは——」

「世間体を気にしている場合か?」

「気にします」

「命より大事か?」

「それは……」


 言い返せなかった。


「今日の午後、マルコが荷物を取りに行く。必要なものをリストアップしておけ」

「…………はい」


 強引だ。傲慢だ。自分勝手だ。

 でも——全部、私のためを思ってのことなのもわかる。だから、余計にタチが悪い。


(本当に、ずるい人……)


 心の中で呟きながら、私は諦めてリストを書き始めた。



◇◇◇



 アレクサンダーの家——というより、屋敷だった。

 ラスベガス郊外にある白亜の豪邸。広大な庭園。プール。テニスコート。まるで映画のセットのようだ。


「ようこそ、凛」


 マルコが、陽気に出迎えてくれた。


「こっちだ。君の部屋は、別棟の二階。オーシャンビュー……じゃなくてデザートビューだけど、悪くないぞ」

「ありがとう」

「緊張してる?」

「……少し」

「大丈夫。ボスは見かけによらず紳士だからな。夜這いなんてしないさ」

「そういう心配はしてない」

「本当に?」


 マルコがニヤニヤしている。からかわれているのはわかっているけど、上手い返しが思いつかない。


「マルコ」


 背後から、冷たい声が響いた。


「余計なことを言うな」

「へいへい、ボス」


 アレクサンダーが現れた。カジュアルな服装——ジーンズに白いシャツ——は初めて見る。仕事モードとは違う、少しだけ柔らかい雰囲気。


(……似合ってる)


 余計なことを考えた。


「部屋の案内は俺がする。マルコ、君は荷物を運んでおけ」

「了解」


 マルコがウィンクして去っていった。意味深な目つきはやめてほしい。


「こっちだ」


 アレクサンダーに導かれ、別棟へと向かった。


 途中、庭園を抜ける。手入れの行き届いた芝生、色とりどりの花々、中央には噴水。美しいけど、どこか寂しい印象を受けた。


「一人で住むには、広すぎますね」


 思わず口に出た言葉に、アレクサンダーが足を止めた。


「……ああ。父が建てた家だ。あの人は、大家族で暮らすことを夢見ていた」

「……」

「結局、叶わなかったが」


 彼の声が、少しだけ沈んだ。

 私は何も言えなかった。何を言っても、軽薄になる気がした。


「着いた」


 別棟は、本棟より小さいものの、それでも十分な広さがあった。二階建て、おそらく四部屋以上。


「二階の奥が君の部屋だ。バス・トイレ付き。何か必要なものがあれば言ってくれ」

「……ありがとうございます」

「それと——」


 アレクサンダーが振り向いた。


「今夜、ディナーを一緒にどうだ」


 予想外の提案に、目を瞬かせた。


「訓練も兼ねて。食事をしながら、相手の心理を読む練習をする」

「……なるほど」

「嫌か?」

「いいえ。喜んで」


 私の返事に、彼の表情が少しだけ緩んだ。


「では、七時に本棟のダイニングで。ドレスコードはスマートカジュアルで構わない」

「わかりました」


 彼が去っていくのを見送りながら、私は胸の鼓動が少し速くなっているのに気づいた。


(訓練よ。ただの訓練)


 自分に言い聞かせる。でも、どこかワクワクしているのは否定できなかった。



◇◇◇



 七時。本棟のダイニング。


 私は、持ってきた中で一番マシなワンピースを着て現れた。黒のシンプルなAライン。髪はいつものシニヨンを下ろして、軽くウェーブをつけている。


「来たか」


 アレクサンダーが、既にテーブルについていた。

 黒のニットに、グレーのスラックス。カジュアルなのに、やはりどこか気品がある。この人は何を着ても絵になるのだろう。


「座って」


 向かい合って座ると、ワインが注がれた。深い赤色。香りからして、高級品だとわかる。


「今夜のメニューは、コース料理だ。シェフが腕を振るってくれた」

「シェフがいるんですか」

「週に三回だけ来てもらっている。普段は外食か、マルコの手料理だ」

「マルコさん、料理もできるんですね」

「イタリア系だからな。パスタだけは、プロ級だ」


 前菜が運ばれてきた。サーモンのマリネと、彩り豊かな野菜。見た目も味も、完璧だった。


「美味しい……」

「良かった」


 アレクサンダーが、グラスを傾けた。


「さて、訓練を始めよう」

「はい」

「今夜は、質問に答える形式だ。俺が質問し、君が答える。嘘をついても構わない」

「嘘を?」

「ああ。俺が見抜けるか、試させてもらう」


 なるほど。逆パターンの訓練か。


「いいですよ。どうぞ」

「では、最初の質問」


 彼の青灰色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。


「君は今、幸せか?」


 不意を突かれた。

 もっと軽い質問を予想していた。好きな食べ物とか、趣味とか。


「……幸せ、ですか」

「ああ。正直に答えてくれ」


 しばらく考えた。幸せとは何だろう。五年前の私は、幸せだと思っていた。婚約者がいて、親友がいて、未来が約束されていると信じていた。

 でも、それは全部嘘だった。


「今は……わかりません」


 正直に答えた。


「でも、不幸ではないです。今の私は、五年前より強い。それだけは、確かです」

「……なるほど」

「嘘、見抜けましたか?」

「嘘じゃなかった」


 アレクサンダーが、小さく笑った。


「君は、正直だな。ポーカーには向いてないんじゃないか」

「失礼な。私だって嘘くらいつけます」

「そうか? では、次の質問」


 彼が身を乗り出した。


「俺のことを、どう思っている?」


 また、不意を突かれた。

 今度は、すぐに答えられなかった。


「どう、とは……」

「信用しているか。利用しているだけか。あるいは——」

「あるいは?」

「それ以外の感情があるか」


 心臓が跳ねた。

 彼の目が、私の奥を覗き込んでいる。


「……利用、だけではないです」

「それは?」

「信用は、しています。あなたは、約束を守る人だと思う」

「それだけか?」

「…………」


 答えられなかった。

 それ以外に、何かあるのかと問われれば——わからない。わからないのだ、自分でも。


「難しい質問ですね」


 逃げるように言った。


「もう少し、時間をください。答えが見つかったら、お伝えします」

「……いいだろう」


 アレクサンダーが、グラスを傾けた。その表情は読めない。満足なのか、不満なのか。


「俺からも、一つ言っておくことがある」

「何ですか」

「俺は——」


 彼が言葉を切った。何かを言いかけて、やめたように見えた。


「いや、今はいい。トーナメントが終わってから、話そう」

「……気になりますね」

「そうか?」

「ええ。とても」


 私の言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。そして——初めて見る、柔らかい笑みを浮かべた。


「君は、時々、俺を驚かせるな」

「お互い様では?」

「違いない」


 ワインを飲み干し、彼が立ち上がった。


「今夜は、これで終わりにしよう。明日から、本格的な訓練に入る。早めに休んでくれ」

「わかりました」

「おやすみ、凛」

「おやすみなさい、アレクサンダー」


 名前を呼んだのは、初めてだった。

 彼が少し驚いた顔をして、それからまた笑った。


「アレックス、でいい」

「……アレックス」

「ああ。そっちの方が、しっくりくる」


 彼が去っていく背中を見送りながら、私は胸に手を当てた。

 心臓が、まだ少し速く打っている。


(これは……何なの)


 わからない。でも、不快じゃない。

 むしろ——温かい。


 夜空を見上げた。ラスベガスの星は、あまり見えない。でも、確かにそこにある。


 明日から、最後の一週間が始まる。

 勝負の時は、近い。



◇◇◇



 トーナメント当日。


 会場は、モローが所有する「モロー・カジノ」の地下。表向きは存在しない、招待制のみの秘密の空間。


「緊張しているか?」


 アレックスの声に、私は首を振った。


「いいえ。むしろ、楽しみです」

「……相変わらず、肝が据わっているな」

「お褒めに預かり光栄です」


 三週間の訓練を経て、私は変わった。

 封印していた才能は完全に目覚め、かつてないほど研ぎ澄まされている。今の私なら、誰にでも勝てる——そんな自信が、体の奥から湧き上がっていた。


「参加者は十二名。招待制で、全員が腕利きのギャンブラーだ」


 アレックスが、リストを見せた。

 知らない名前ばかり。でも、一つだけ見覚えがある。


「柏木翔太……参加するんですね」

「ああ。モローの後ろ盾で、特別枠だ。腕は大したことない。早々に脱落するだろう」

「そうですか」


 正直、どうでもよかった。翔太は、もう私の敵ではない。本当の敵は——


「ヴィクター・モローも、参加する」


 アレックスの声が、低くなった。


「優勝候補だ。奴は、ただの悪党じゃない。ギャンブラーとしても、一流だ」

「知っています」

「勝てるか?」

「勝ちます」


 断言した。

 アレックスが、私の目を見つめた。数秒の沈黙。そして——


「信じている」


 短い言葉だった。でも、その重みは十分に伝わった。


「ありがとう。行ってきます」


 私は、会場へと歩き出した。



◇◇◇



 地下会場は、まるで異世界だった。

 煌びやかなシャンデリア。高級な調度品。そして、中央に鎮座する大きなポーカーテーブル。


 参加者が、続々と集まっている。国籍も年齢も様々。でも、全員に共通しているのは——「勝負師の目」だ。


「おや、結城凛さん」


 聞き覚えのある声に振り向くと、モローが立っていた。白いタキシード。胸にはルビーのブローチ。完璧な「主催者」の出で立ち。


「来てくれて嬉しいよ。期待しているからね」

「恐縮です」

「翔太から聞いたよ。君の一族のこと。『幻のギャンブラー』の末裔がこのテーブルに着くとは、歴史的な夜だ」


 モローが、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔の裏に、何が隠されているのかはわからない。


「健闘を祈るよ。もっとも——」


 彼が、声を落とした。


「優勝するのは、私だがね」

「どうでしょうね」


 私は、微笑み返した。


「やってみないと、わかりませんよ」


 モローの目が、一瞬だけ鋭くなった。でも、すぐにまた穏やかな笑顔に戻った。


「……面白い女だ。君のような人間は、好きだよ」

「光栄です」


 彼が去っていくのを見送りながら、私は内心で呟いた。


(好きとか嫌いとか、どうでもいい。私はあなたを、叩き潰しに来たのよ)



◇◇◇



 ゲームが始まった。


 テキサスホールデム。長丁場のトーナメント形式。最後まで生き残った者が、優勝となる。


 最初の数ラウンドは、様子見だった。他の参加者の癖を観察し、パターンを分析する。

 私の得意分野だ。


 三時間後。参加者は十二名から六名に減っていた。


 残っているのは——私、モロー、翔太、そして三人の外国人ギャンブラー。


「やるじゃないか、凛」


 翔太が、嫌味ったらしく言った。


「まさか、ここまで残るとはな」

「お褒めに預かり光栄」

「褒めてねえよ。運がいいだけだ」

「そうかもしれませんね」


 私は涼しい顔で答えた。内心では、彼のチップの山を眺めていた。


(残り少ない。あと二、三ラウンドで脱落するわね)


 予想通り、翔太は次のラウンドで大きく賭けて——負けた。

 フルハウスを自信満々に見せたら、相手はフォーカード。基本中の基本のミス。


「くそっ……!」


 翔太が、テーブルを叩いた。


「イカサマだ! こんなの、ありえない!」

「柏木さん、落ち着いて」


 ディーラーが冷静に制止した。


「カードは全て、正規の手順で——」

「うるさい! こんな——」

「翔太」


 モローの声が、静かに響いた。


「みっともない真似はよせ。負けは負けだ」

「しかし——」

「退場しろ。これ以上、恥を晒すな」


 冷たい声だった。使い捨ての駒を見る目だった。

 翔太の顔が、真っ青になった。


「ま、待ってくれ、モローさん。俺はまだ——」

「もういい。用済みだ」


 モローが、手を振った。すると、スーツの男たちが翔太を取り囲んだ。


「おい、何だよ、これ——」

「君には、まだ『返済』が残っている。私の資金を、いくら使い込んだと思っている?」

「そ、それは……」

「後で、ゆっくり話し合おう。連れていけ」


 翔太が、引きずられるように連行されていった。


「待って、翔太!」


 ギャラリー席から、美咲の悲鳴が聞こえた。

 でも、誰も彼女を相手にしない。翔太が消えた瞬間、彼女の存在価値もなくなったのだ。


(因果応報、ね)


 冷たいようだけど、同情する気にはなれなかった。自分で蒔いた種だ。自分で刈り取るしかない。


「さて」


 モローが、私を見た。


「邪魔者はいなくなった。これからが、本番だね」

「そうですね」


 私は、カードを手に取った。



◇◇◇



 さらに二時間後。


 参加者は、二人だけになっていた。

 私と、ヴィクター・モロー。


「素晴らしい」


 モローが、感嘆の声を上げた。


「予想以上だよ、結城凛。いや——『幻のギャンブラー』の末裔」

「ありがとうございます」

「最後の勝負だ。全てを賭けよう」


 彼の目が、ギラリと光った。


「このトーナメントの賞金だけじゃない。私の全てを賭けてもいい。その代わり、君も——」

「何を賭けろと?」

「君自身を」


 モローが、身を乗り出した。


「私の下で働け。君の才能は、この程度の場所に埋もれさせるには惜しい。私と組めば、世界中のカジノを支配できる」

「お断りします」

「即答か。考えもしないのか?」

「考える必要がありません」


 私は、真っ直ぐに彼を見つめた。


「私は、自分の意思で生きると決めました。誰かの道具になるつもりはない」

「……なるほど」


 モローの目が、冷たくなった。


「ならば、勝負で決めよう。君が勝てば、好きにしろ。だが、私が勝てば——」

「勝ちます」


 断言した。


「私が、勝ちます」


 カードが配られた。

 最後の勝負が、始まった。



◇◇◇



 私の手札——ハートのエースと、スペードのエース。

 ポケットエース。最強のスターティングハンド。


(来た)


 心臓が高鳴る。でも、顔には出さない。これが、最後の勝負だ。


 フロップが開かれた。

 ハートのキング、ダイヤのキング、クラブの10。


 私の手札と合わせると、ツーペア——エースとキング。強い手だ。


「チェック」


 モローが、様子見に入った。


「ベット」


 私は、強気に出た。


「コール」


 彼が応じる。


 ターン。スペードの3が開かれた。

 状況は変わらない。


「チェック」

「ベット」

「コール」


 同じやり取りが繰り返される。

 お互いに、相手の出方を窺っている。


 リバー。最後の一枚。

 ——ハートのエース。


 私のツーペアが、フルハウスに変わった。エースのスリーカードと、キングのペア。


(これは……勝った)


 確信した。フルハウスは、非常に強い手だ。これに勝てるのは、フォーカードかストレートフラッシュくらい。

 でも——


「オールイン」


 モローが、全てのチップを押し出した。


 その目が、私を見つめている。自信に満ちた、獲物を仕留める直前の猛禽の目。


(……何かある)


 直感が警鐘を鳴らす。この男は、ブラフでオールインするタイプじゃない。何か、確信を持っているはず。


 テーブルのカードを見る。

 ハートのキング、ダイヤのキング、クラブの10、スペードの3、ハートのエース。


 彼が持っている可能性のある最強の手は——


(キングのフォーカード……!)


 あり得る。もし彼がキングのペアを持っていたら、フォーカードが成立する。それなら、私のフルハウスは負ける。


 彼の顔を見た。

 完璧なポーカーフェイス。何も読み取れない。


 でも——


 ほんの一瞬。本当に微かな、瞬きの乱れ。

 それを、私は見逃さなかった。


(嘘だ)


 確信した。彼はブラフをしている。キングのペアは、持っていない。


 なぜわかるのか。理屈じゃない。三週間、アレックスと毎晩向き合ってきた。何百回、何千回と、相手の目を見てきた。

 その経験が、今、答えを教えてくれる。


「コール」


 私は、全てのチップを押し出した。


「ショウダウン」


 二人同時に、手札を開く。


 私——ハートのエースと、スペードのエース。フルハウス。

 彼——スペードのキングと、クラブのクイーン。ツーペア。


 沈黙が、会場を包んだ。


「……私の、勝ちですね」


 静かに、そう言った。


 モローの顔が、初めて歪んだ。驚愕、怒り、そして——恐怖。


「馬鹿な……どうして……」

「どうして、でしょうね」


 私は立ち上がった。


「でも、一つだけ言えることがあります」

「何だ……」

「賭けの勝敗は、カードが配られた瞬間に決まるんじゃない」


 彼を、真っ直ぐに見下ろした。


「自分を信じた瞬間に、決まるのよ」


 ギャラリーが、一斉に湧いた。



◇◇◇



 トーナメント終了後。


 モローは、その場で警察に逮捕された。資金洗浄、詐欺、脅迫——数え切れないほどの罪状が、一気に明るみに出たのだ。


 アレックスが、全てを準備していた。証拠を集め、関係機関に根回しし、この瞬間を待っていた。


「おつかれさま」


 会場の外で、彼が待っていた。


「見ていたよ。最後の勝負」

「どうでした?」

「——完璧だった」


 彼が、微笑んだ。今まで見た中で、一番穏やかな笑顔だった。


「君のおかげで、父の仇を取れた。ありがとう」

「私も、自分の復讐を果たせました。おあいこです」

「そうか」


 沈黙が流れた。

 でも、不快な沈黙じゃない。むしろ、心地いい。


「凛」

「はい」

「前に、言いかけたことがある」

「……覚えています」

「今、言ってもいいか」

「どうぞ」


 アレックスが、一歩近づいた。

 ラスベガスの夜風が、二人の間を吹き抜ける。


「俺は、君を道具として使うつもりだった」

「知っています」

「でも、今は違う」


 彼の手が、私の手を取った。大きくて、温かい手。


「君と一緒に、この先も——」

「アレックス」


 私は、彼の言葉を遮った。


「私にも、言いたいことがあります」

「……何だ」

「前に聞かれました。あなたのことを、どう思っているか」

「ああ」

「答えが、見つかりました」


 彼の青灰色の瞳を、真っ直ぐに見つめた。


「あなたは、私を見てくれた。私の才能を、私の強さを、私の弱さを。全部、受け止めてくれた」

「……」

「初めてです。こんな風に、誰かに向き合ってもらったのは」


 胸が熱くなる。でも、今度は逃げない。


「だから——もし、あなたさえよければ」

「凛」

「私も、あなたと一緒に——」


 言葉は、最後まで言えなかった。


 彼の腕が、私を引き寄せた。

 そして——唇が、重なった。


 ラスベガスのネオンが、二人を照らしている。

 長い夜が、ようやく明けようとしていた。



◇◇◇



 後日。


 私は、日本にいた。

 祖父の家——結城家の本宅を、久しぶりに訪れていた。


「おかえり、凛」


 祖父——結城誠一郎が、縁側で出迎えてくれた。

 七十八歳とは思えないほど、背筋がまっすぐだ。「東洋の魔術師」の威厳は、今も健在だった。


「ただいま、おじいちゃん」

「聞いたぞ。モローを倒したそうだな」

「……知ってたの?」

「ギャンブルの世界は狭い。噂はすぐに広まる」


 祖父が、穏やかに笑った。


「よくやった。誇りに思うぞ」

「……ありがとう」


 胸が熱くなった。ずっと、この言葉を待っていた気がする。


「それで、隣にいるのは誰だ」


 祖父の視線が、私の後ろに向いた。

 アレックスが、緊張した面持ちで立っている。


「アレクサンダー・クロウと申します。凛さんとお付き合いさせていただいております」

「ほう」


 祖父の目が、鋭くなった。品定めするような視線。


「ギャンブルは、できるのか」

「……はい。父から叩き込まれました」

「ならば、一局付き合え」

「え?」

「凛の伴侶として認めるかどうか、その腕で決める」


 祖父が、どこからともなくカードを取り出した。


「おじいちゃん、ちょっと待って——」

「いや、受けて立ちます」


 アレックスが、真剣な顔で答えた。


「俺の本気を、見てください」

「面白い」


 祖父が、ニヤリと笑った。


 私はため息をついた。

 この二人、似た者同士かもしれない。


 でも——悪くない。

 いや、むしろ、最高だ。


 窓の外を見た。春の陽射しが、桜の花びらを照らしている。

 左手首の痣が、ほんのりと温かかった。


「さあ、勝負だ」


 祖父の声が響く。


 新しい物語が、始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ