欲望は飼い馴らしてこそ
デキる奴とデキない奴の違いって、何だと思う?
最近、ふと気づいたことなんだが……デキる・デキないの差は、きっと“欲望の扱い方”だ。
デキない奴は何かと欲望に流される。
流されたらアウトな境界線まで、平気でズルズル越えてしまう。
デキる奴は、仲間内では平然と欲望を晒しながら、その実ちゃんと境界を見極めている。
越えてはいけないラインの手前で、巧みに欲望をコントロールする。
――どうやったらそんな真似ができるのかって?
そんなの、俺の方が教えて欲しい。
だが、やり方を知る方法ならある。
デキる奴を観察して、その極意を盗めばいいんだ。
たとえばデキる奴ってのは、口では「勉強ダルい」「やりたくねー」とか言いながら、きっちり点数取って成績をキープしている。
むしろあの「勉強なんてやってられるか」言動は、ライバルを油断させるための“見せかけ”だったりしないか?
周りが勉強をサボって点を落とせば、自分は労せず順位をキープできる――子供でも分かる単純なカラクリだ。
その裏で奴らがどれほどの学習に励んでいるのか、俺たちは知らない。
それは決して“見せてはもらえない”モノだろう。
だって油断させる・させない以前に『コツコツ努力して成績アップしました』よりも『大した努力もしてないのに、気づいたら成績上位なんだが』をやりたい――そういう見栄って、誰にでもあるだろう?
ラクをしたいって欲は、きっとデキる・デキないの差を生む一番厄介な欲望だ。
キリスト教の“七つの大罪”に“怠惰”の罪があるくらい、大昔から人の足を引っ張ってきた欲望だ。
世の詐欺師が「ラクして稼げる」で人を釣りがちなのも、そういうことなんだろうな。
俺だって、勉強しなきゃいけないことくらい分かってる。
宿題や課題を適当に済ませちゃいけないことも、進路についてもっと真剣に考えなきゃいけないことも。
だけど、それが全然楽しくないから――それどころか苦行でしかないから、気づけば手を止め思考を止めて、全然別のことをやりだしてしまう。
デキる奴らは、このズルズル嵌りがちな罠を、どうやって回避しているんだ?
デキる奴の中には、そもそも勉強が苦ではない――どころか、テストさえゲーム感覚で楽しめてしまう“理解不能な天才”がいる。
ソイツらにとって学びはむしろ“ご褒美”なのだ。
どういう思考回路を持てばその嗜好に至れるのか――理解できない俺は所詮凡人なのだろう。
幼児時代、恐竜や特殊車両の名前をアホほど言えたように、数学の公式や英単語をアホほど好きになれたら良かったのに。
逆にいつしか苦手意識ばかり刷り込まれて、教科書や問題集に拒否反応が出るほどだ。
知識欲が“人生に役立つもの”じゃなく“覚えても何の得も無いモノ”に向かうのって、何だか損な気がしてしまう。
“趣味:勉強”な天才は何の参考にもならないが、勉強が好きでもないのに成績の良い奴からなら、何かしら学べるはずだ。
――そう思って探ってみるものの、奴らは「成績の上がるコツ?むしろコッチが知りてーわ」「勉強なんてマジやってないから」と言うばかりで、なかなかシッポを掴ませない。
何気ない世間話を装って、かろうじて聞き出せたのは、どうやら奴らは勉強を“習慣化”しているらしい、ということだった。
毎日しなければならないことでも、それが習慣になってしまえば、苦にならないし、意識すらしない。
例えば、朝の洗顔や夜の歯磨きを、今さら苦に思ってる奴なんていないだろう。
それと同じで、勉強も『もはや無意識にこなせてしまう』レベルの“習慣”にしてしまえば良いらしい。
だが、それを知って俺はすぐに悟った。
――凡人は、その“習慣づけ”をするまでに心が折れるんだよな……と。
テストで良い点を取りたいなら、勉強すれば良い――そんなの、誰だって分かっている。
なのにそれができないのは、「勉強したい」という欲がまるで湧かないからだ。
むしろ「サボりたい」「遊びたい」欲の方が断然強い。
今サボればマズいことになると知っているのに、目先の欲に流されてしまう。
そこで流されずに“数日後の結果のための努力”を選べるかどうかが、デキる・デキないの分かれ目なのだ。
そう考えると、学校で勉強より何より真っ先に教えるべきなのって“欲望のコントロールの仕方”なんじゃないのか?
……とは思ったものの、そもそもそんな“コントロール法”があるのかどうかも知らないし、それを授業されたところで、退屈過ぎて頭に入ってくれないかも知れない。
デキる奴らは、教えられてもいない欲望の制御を、どうやって実行しているんだ?
よくよく観察してみると、デキる奴らには、ある共通点が存在する。
それはズバリ“将来設計”だ。
将来就きたい職業や、行きたい学校、卒業後の進路――程度は違えど、ハッキリしたビジョンを持っている奴らは既にいる。
さらにはその“目標”のために“今”何をするべきか――それがしっかり見えているのだ。
やりたい・やりたくないじゃなく、必要だからやる――そもそもスタートラインの考え方からして違うのだ。
そう考えてみると、俺という人間には、人生の目標も将来のビジョンもまるで無い。
働かなきゃ生きていけないことは分かるが、自分に何が向いているのかもまだよく分かっていない。
おまけに現代は、ちょっと以前の“人気の職業”が、あっと言う間に“時代遅れ”になって“食えなくなる”時代だ。
何を目指せば食いっぱぐれず安泰に生きていけるのか……むしろ真面目に教えて欲しい。
遠い未来など見えない俺たちだからこそ、きっと目先のことばかりに囚われ、目の前の欲ばかり追いかける。
サボりたい、美味い物をたらふく食いたい、エロいことがしたい、気に食わない奴を排除したい、他人が俺より優れているなんて許せない、何もかも俺の物にしたい、俺が世界最強で最高じゃなきゃ嫌だ――中世の人間は、よくもまぁ“七つの大罪”なんて概念を見つけたもんだよな。
怠惰、暴食、色欲、憤怒、嫉妬、強欲、傲慢――人間が囚われる欲望なんて、何百年経っても変わらない。
そしてそれが“罪”に繋がるモノだということも、何百年もの昔にとっくに看破されていたんだ。
罪だ罪だと言われながらも、人間がその七つを棄てられずに来た理由が、俺には分かる。
生きるために必要だからだ。
休むことを知らずに働き続ければ、過労で死ぬ。
食べることを止めれば、飢えて死ぬ。
繁殖が行われなければ、人類が滅ぶ。
怒りの感情が無ければ、逆境に立ち向かえない。
競争心が無ければ、向上は見込めない。
この世の何も欲しくなくなったら、生きる意欲が失くなる。
自信や自己肯定を失くしてしまえば、心が死ぬ。
七つの大罪は、裏返せば人間の生存本能。
適量なら人生を祐け、度が過ぎれば破滅させる――そういうシロモノなのだ。
本能に従うのは気持ちイイ。本能に逆らうのは辛い。
だから世の中、欲望を肯定したがる奴が多いんだろうな。
欲が由来の犯罪さえ庇う人間がいる理由は、それを悪と断罪すると、自分の欲まで否定されそうで気持ち悪いからだろう。
問題は欲望の有無じゃなく、程度の問題なのにな。
身の内に巣食う欲望を、上手く宥めて制御したいのに、この世は何かと誘惑が多い。
広告もSNSも製造業者も、無責任に欲望を煽ってくる。
欲をくすぐれば商売になるって、皆分かってるんだよな。
その結果、誰かの欲が暴走して破滅しようがお構い無し――多少の規制はあるんだろうが、結局は「暴走する方が悪い」の自己責任論で終わりだよな。
まんまとノせられる俺たちも悪いんだろうが……あざとい罠が多過ぎて、文句の一つも言いたくなる。
どうすれば欲望に流されずに済むのか――その答えは、未だに見えない。
だけど何となく、気づいたことはある。
きっと、自分の内に潜む獣の本能を知ることが、第一歩なんだ。
獣を野放しにしておかず、人間の理性で飼い馴らす。
――そうしないと、いつか身の内から獣に喰われてしまうから。
世の中むしろ“欲望自慢”の方が多くて、少しでも禁欲的な素振りを見せると煙たがられる有様だ。
欲を抑えるスキルが無きゃ“暴走・破滅待った無し”なのに、無責任な話だよな。
欲望野放しで安泰に生きられると思うほど、俺は能天気じゃない。
デキる・デキないで言うなら、デキる人間の側になりたい。
だから、俺は想像する。
身の内の凶暴な欲望を、見事に飼い馴らして不敵に笑う――そんな“デキる俺”を、願望する。
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