素直な気持ちで
「君、名前は何ていうんだい?」
唐突に尋ねられる。そういえば、名乗った事が無かった。俺の記憶では名乗っているが、それは存在しない記録だ。
「―――上原、上原四葉」
「上原四葉。いい名前だね。……そうか、やっぱり」
何か納得する様に頷く。俺には何の事か分からなかったが、どことなく違和感を覚える。
「私は暁夜月。夜に輝く月の様に美しい女性になってほしいって願いが込められているらしい」
少し恥ずかしそうに名前の由来を説明する。
―――聞くのは二回目だ。初めて名乗った時に教えてもらった。当たり前だが、変わらない内容に少し嬉しさを感じる。
「それは……素敵ですね」
だから、あの時言えなかった言葉を口にする。
「お世辞まで言えるのか? 相変わらずませてるねぇ」
照れくさそうにはにかむ。決してお世辞などではないが、そういう事にしておこう。俺も多少は恥ずかしい。
「親御さんに電話しないとね。きっと心配しているよ」
「……」
親御さん。その言葉に肩が跳ねる。そうだ。気絶から目を覚ました時に真っ先に考えるべきだった。
あの時点で既に八時を回っていた。夜になっても子供が帰ってこなかったら、親なら警察に連絡しているだろう。今頃、街中では捜索活動が行われているはずだ。寧ろ、よくここまで誰にも見つからずにこれたものだ。
「―――取りあえず、上原友春くんに連絡するよ」
一瞬、思考が止まった。暁夜月の口から聞き慣れた名前が飛び出した。
「……どうして、兄の事を?」
「やっぱり兄弟だったんだね。と言う事は春花さんも同じか」
再び納得した様子で頷く。成程。そういう事か。違和感の正体はこれか。
「さっき友春くんに会ってね。彼、君を探して走り回っててさ。―――偶然会って私も一緒に探してたって訳」
少し引っかかっていた。どうして彼女が俺を見つけられたのか。警察も発見できなかった人間を、偶々偶然通りかかった人が見つける。そういう事もあるだろうと無理矢理納得していたが、暁夜月も俺を探していたのだ。兄の手引きで。
「最初は雰囲気が似てるなって思ってたけど、名前を聞いて驚いたよ」
はははと笑う。だが、俺の心では喜びとは程遠い感情が渦巻いていた。
「……知ってたんですか。俺の名前」
「まぁ、もしかしたら他人のそら似かも知れないし、それに名前って言うのは、本人が名乗らないと意味ないから」
お道化た様子の暁夜月。俺が聞きたかった回答ではない。でも、彼女にそれを求めるのは無理だ。
彼女は何も知らない。それどころか、この世で俺しか知らない。俺だけの軋轢。
「―――それで納得しますよ」
「物分かりが良くて助かる。でも、それが君の欠点でもあるみたいだけどね」
そう言って俺の頭に手を置く。本当に察しのいい人だ。
今回は、彼女が何を言いたいか分かってしまった。俺も察しが良くなってしまったのもだ。中身と見た目が伴っていない。
「詳しい話はご家族とするんだね。今、友春くんに連絡を―――」
「暁さん」
言い終わる前に会話を遮る。暁夜月が首を傾げてこちらを見る。
少し、ほんの少しだけ、我儘を言う。彼女を見習って、俺も―――。
「頼みたい事が、あるんですが……」
「いらっしゃい。ようこそ我が家へ」
橋からほど近い場所にアパートの一室が、暁夜月の自宅だった。
「お邪魔します」
恐る恐る中に入る。初めて来た。前の記憶では家を教えてもらった事がなかった。
「まずはお風呂に入らないとね」
そう言いながら洗面所に案内される。洗面所に着くや否や、俺の服を脱がそうとする。
「一人で出来ますよ」
「そうかい? それは失礼」
濡れた服を脱ぐ。俺の服を受け取った暁夜月は、そのまま洗濯機に服を入れ、自分も服を脱ぎだした。
「……何してるんですか?」
「え? いや、一緒に洗濯を」
きょとんとした様子で俺の質問に答える。俺は溜息を吐く。
「いきなり目の前で脱がないでください」
「大丈夫。私は気にしない」
「俺が気にしますよ」
「こんな事で動揺していたら、一緒にお風呂に入れないぞ。少年」
にひひと笑う。今、何を言った? まさか一緒に入る予定だったから、服を脱いだのか?
「……俺、外で待ってます」
「待て待て。下着一枚の少年を待機させるなんて出来る訳ないだろ。―――仕方ない。私が待ってるよ」
残念そうに洗面所から出ていく。俺をその姿を見送ってから風呂に入る。
「……全く、こっちの気も知らないで」
湯船につかる前に、鏡に映る自分の身体を見る。
見た目通りの歳なら、高校生の女生とお風呂に入っても不思議ではない。しかし、中身が伴っていない場合、もはや犯罪まであるだろう。それに。
「こんな身体、見せられない……」
痣だらけのお腹を摩る。それ以外も、所々で傷跡が残っている。
彼女に隠す必要ないかも知れない。それでも、まだ見せる勇気が無かった。
素直になるには、もう少し時間が掛かる。
「私の服で悪いね」
用意された服を着てリビングに行くと、マグカップを用意し、お湯を沸かしていた。
「アイスはお茶。ホットはコーヒーとココアがございます」
「……コーヒーで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
恭しく頭を下げ、飲物を入れる。鼻歌交じり手を動かす彼女の姿に、俺は見入っていた。
そのせいだろう。隣に人が現れた事に気が付かなかった。
「……」
「……うわ!! だ、誰?」
「ん? あぁ、あかり。あかりの分のココアもちゃんとあるよ」
あかりと呼ばれた少女は、暁夜月の方を向いて頷く。その後、俺の方を向き直し、話しかけてきた。
「私、暁あかり。あかりでいいわ。……貴方は?」
「……上原四葉。その、お邪魔してます」
ぺこりと頭を下げると、少女も同じく頭を下げる。この子が話に聞いていた、暁夜月の妹か。
歳は俺より二歳下。と言う事は小学三年生か。艶やかで長い黒髪は確かに姉妹なのだと思わせる。
「四葉くん、お姉ちゃんとどういう関係?」
「……え?」
いきなりの質問に、言葉が詰まる。初対面で聞く質問だろうか。
中身が高校生の俺ならいざ知らず、小学生の女子が聞く内容だろうか。俺には小学生女子の普通は分からないが、恋愛関係は男子より目ざといのだろうか。俺と暁夜月に恋愛的要素があると見るのは、漫画の読みすぎだ。高校生と小学生では、歳の差があり過ぎる。
俺と暁夜月の関係。小学生でも分かりやすく答える必要がある。
「……友達だよ。友達」
「友達……」
俺の返答に、余り納得した様子ではない。無難な回答で面白くなかったのだろうか。確かに漫画的な展開を期待するのは当然か。
「お姉ちゃんには手を出さないで」
「……話、聞いてたか?」
睨みを効かせてくる。そういう演出なのだろうか。したかっただけか? どっちでもいいが、誤解を招く言い方は止めて欲しい。
「ほら、出来たよ。楽しそうな話してるね。混ぜて欲しいな~」
にまにまと笑みを浮かべながら話しに入ってくる。するとあかりが一つ溜息を吐く。
「―――冗談よ」
えーと残念がる暁夜月。そっぽを向くあかりに俺も思わず溜息が出る。
小学生だろうと、女性は何を考えているか分からないもんだな。
他人の家で眠るのは初めてだ。友達も恋人もいなかったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、十八歳の精神年齢でも、緊張するものなんだな。
「私のベッドで悪いけど、我慢しておくれ」
そう言い残し、妹の部屋に去っていった。お言葉に甘えて、暁夜月の部屋で就寝し、眠れずに天井の染みを数えている。
いつも通り眠れない。でも、同じではない。普段は眠る事に集中できない。目を閉じると蘇る記憶と未来が、俺を不安と絶望を与える。
でも今は違う。初めての経験で緊張しているだけで、いつものマイナスな思考はない。寧ろ、心地良い緊張と言ってもいい。身体が少し強張っているだけで、慣れれば眠れるだろう。
意識が無くなるその時まで、俺は考える。今日の事。これからの事。
「家に帰りたくない」
我儘を言った。人生初めての我儘だった。
今まで自分の願望を誰かに吐露した事は無い。やりたい事もなかったし、叶えたい願いもなかった。
ただ、今日だけは、抑え込んでいた欲望を聞いてほしかった。人生最後を覚悟した今日だけは。
「……分かった。私に任せなさい」
優しい笑みを浮かべ、俺から離れた位置で電話を掛ける。俺に心配を掛けさせない配慮だろうか。そうなると、通話の相手は絞られる。
「じゃあ、お姉さんの家に行こうか」
数分後、俺の所に戻ってきた暁夜月は俺の手を握って連れて行ったのがここ。そして今に至る。
電話の相手は友春だろう。俺を探すきっかけは友春に会った事らしいし、そうでなくても家族を説得できるのは友春しかいない。アイツが両親や姉妹に上手く都合をつけた結果なのだろう。
「……」
今、この時間がある事には感謝している。しかし、それが兄弟の力の賜物だと思うと、何とも複雑な感情だった。
「結局、何処に行っても纏わりついてくる」
どんなに断ち切りたくても断ち切れない。それが家族の絆であり、呪いでもある。分かっていたはずだ。だから唯一の方法を模索していたんだ。全ての柵から解放される唯一無二の手を。
「―――」
これまでの事。そしてこれからの事。決断しなければならないだろう。
どう生きるか。どう死ぬか。選択肢は二つ。
約束してしまった。死なないと。なら取れる道はただ一つ。
「―――残酷だな。人生は」
翌日、俺と暁夜月は夕日に照らされる道を二人で歩いていた。
一日、暁宅で過ごし、下校した暁夜月に連れられて自宅に帰る事になった。
昨日はよく眠れた。数日、いや、数年の中でも一番熟睡できた。
いやらしい意味ではなく、暁夜月に包まれている感覚が、俺の心を落ち着かせた。彼女が言っていた『誰かと一緒の方が眠れる』というのは本当だった。
疲労はなく、身体は軽い。だが、足取りは重かった。
家に帰れば、この時間は終わってしまう。再び始まる地獄の日々。それを考えると足が震える。
「ねぇ、ちょっと寄り道していかない?」
「……え?」
突然の提案に反応が遅れる。暁夜月はそういうと俺の手を握って強引に歩き出す。
向かった先はいつもの河川敷だった。定位置に腰を下ろして暁夜月は、隣をぽんぽんと叩いて、座れとジェスチャーしている。
「……ありがとうございます」
「うんうん、素直でよろしい」
そう言いながら俺の頭もぽんぽんと叩く。その手を振り払い、そっぽを向く。
俺の様子から察して、気を遣ってくれたのだろか。それとも―――。
「家族、好き?」
「……単刀直入ですね」
またしても突然に本題に入る。成程、そういう意図か。
「回りくどいのは苦手でさ」
「……別に何とも―――」
「思ってない? 本当に?」
暁夜月は俺の言葉を奪う。分かっているなら聞かないでほしい。そういえば、本人が言わないと意味がないってのも、彼女の弁だったか。
「……分からないんですよ。家族ってのが」
「分からない……?」
俺の言葉に疑問符を浮かべる。でも疑問なのは俺の方なのだ。
「血の繋がりですか? 過ごした時間ですか? それとも……」
「―――心、かな。私はそう思ってるよ」
「心……」
実に彼女らしい物言いだった。普通なら恥ずかしくて笑ってしまう言葉でも、暁夜月の口から発せられると凄みがある。彼女にはそんな力がある。
「喜んでいたら嬉しいし、泣いてたら悲しい。喜びも悲しみも分かち合える。心で繋がっている。それが家族だって私は思ってる」
「……それが家族ですか?」
「理想論だけどね」
暁夜月は情けなく笑う。俺はその笑顔に、得体の知れない感情が湧き上がってくる。
「……なら、俺に家族はいません」
心を通わせる関係が家族だというのなら、俺にそんな相手はいない。これまでも、これからも。
「君は前にも『僕は一人』と言っていたね」
そうえば、そんな事を言った気がする。俺の話なんて、わざわざ覚えていたのか。
「両親、嫌いなのかい?」
「……」
「兄弟、嫌いなのかい?」
「……」
「それとも君は―――」
彼女は口にする。全てを見透かしたような瞳を携えて。
「好きだったから嫌いになれない。そういう事かな?」
ずっと一人だった。友達も家族も、俺には無い。……そう言い聞かせてきた。
奥底に隠された記憶。封印した記憶。蓋が開く。開いてしまう。
「昔、ずっと兄の背中を追ってた」
ぽつぽつと喋る。喋ってしまう。
口にしてしまったら、もう誤魔化すことが出来ない。
「頭も良くて、優しくて、正義感があって、困っている人を放って置けない。正義のヒーローみたいに思ってた」
自分の優秀さを鼻にかける事もなく、弱者への救済も忘れない。その背中をいつも羨望の眼差しで見ていた。
「格好いい兄は憧れで、誇らしくて、いつか自分のあんな風になるんだって」
だから必死に努力した。毎日勉強した。運動は苦手だったけど、近所をランニングしていた時期もあった。
少しでも兄の背中に近付きたくて、必死で。必死で……。
「……でも、無理だった。幾ら努力しても、逆立ちしたって届かない。いつも母に叱られて、その度に兄弟達に慰められて、遂には母にも見放された」
俺は友春の様にはなれなかった。六歳離れているのだから、全く同じとはいかない。でも、友春が小学生の頃に出来たいた事を、俺は何一つ出来なかった。中学生になっても、高校生になっても、俺は友春の足元にも及ばなかった。
「兄は特別なんだ。そう言い聞かせていた。でも、兄だけじゃない。姉妹達も、俺なんかとは比べものにならない程優秀で……」
椿は友春以上に頭がよかった。春花は友春と同じか、それ以上に人気者だった。成績優秀で、容姿端麗で、常に人が寄り集まる。そんな人達だった。
「皆、特別だったんだ。平凡なのは俺だけ……いや、それ以下だった」
才ある中で、俺だけが異端だった。俺だけが、何も持たずに生まれてしまった。
「優秀な人達に勉強を教えてもらったのに、成績はせいぜい中の上。運動は出来ないし、友達もいない。顔なんてもってのほかだ。俺だけ親が違うって、親戚が冗談めかして話しているのを何度も聞いた」
その言葉を聞くたびに、胸が締め付けられた。でも、反論の余地がなかった。本当にそうなのでないかとすら、思っていた時期もあった。
「白鳥の群れの中にいるアヒルの子。それが……俺、だったんだ……」
突出した才能もない。人惹きつける魅力もない。愚図で不出来な醜い存在。
生まれてきた事が間違っていた。何の価値もない人間―――。
「―――だから、死にたかった。成程」
「―――」
「兄弟と比べて自分には才能がないから。自分の理想に届かないから、死にたい」
「―――」
「それは―――流石に無理があるよ」
無言の肯定をきっぱりと否定する。
確かに、我ながら無理のある主張だ。そんな事で自殺をする様な理想論者ではない。
もう、誤魔化しは効かない。彼女には見抜かれている。そんな気がする。
「才能がないなんて、判断が早すぎる。君はまだ小学生だろ? これから幾らでも伸びしろはある。そりゃ、優秀な兄弟と同じことを同じ歳で出来ない事もあるだろう。でも、諦めるのは早すぎる」
「―――」
「だからもっと別の、君だけの死ぬ理由が必要だ。それが何なのか。これは私の推測だけどね」
「―――」
「君は、兄弟を嫌いになりたくなかったんじゃないか?」
「―――あぁ」
その言葉は、俺を納得させるのに十分すぎた。
本当は分かっていたはずなのに、改めて言われると、どうしようもなくしっくりくる。
才能がないとか、いじめられているとか。本当はどうでもよかった。
ただ、このままだと、俺は自分を許せなくなってしまう。そうはなりたくなかった。
俺は兄弟が好きだ。―――だから、嫌いになる前に、好きなまま死にたかった。




