終わりの始まり
目が覚めたら、視界いっぱいに夜空が映っていた。
立ち上がろうとしたが、身体中が痛くて動けない。どうやら俺は大の字になって倒れているらしい。
何をしていたんだっけ? 記憶を呼び覚ます。最後の記憶は確か―――。
「そうか、気絶したのか……」
思い出した。俺は顔を蹴られて、そのまま倒れた。顔がやけに痛むのがその証拠だ。
暫く仰向けのまま夜空を眺める。星が見える程澄んだ空の綺麗さに、俺は目を細める。眩しい訳でないのに、その輝きを直視できない。
身体の痛みにも慣れてきた。ようやく動けそうだ。
ゆっくりと起き上がる。校舎の窓に顔が映っている。暗くて鮮明には見えがない、鼻の下に血の跡が付いているのが分かる。
「……ひっでぇ顔」
顔を触ると、左頬が腫れているのが分かる。ただでさえ不格好な顔が、余計に変形している。
校舎裏から表に出る。気絶した事で身体が休まったのか、気絶前より足取りは軽やかだった。
「八時半か」
校舎前に設置されている時計は八時半を指している。三時間ほどあそこで伸びていたのか。
「―――」
正門から出る。辺りには誰もいない。振り向くと、真っ暗な校舎が静かに佇んでいる。
夜の小学校は始めて見た。こんな時間に外を出歩く事なんて無かった。
できるだけ人気の少ない道を選びながら歩く。ランドセルを背負った小学生が夜道を歩いていたら間違いなく通報されてしまう。
路地裏で足を止める。誰もいない事を確認し、隠れる様に腰を下ろす。
「はぁ……疲れた」
思わず言葉が漏れる。もう歩くのも億劫な程に疲労が溜まっていた。
―――限界だ。もう何もかもを終わりにしたい。そんな考えだけが頭の中をぐるぐると回る。
本当は、とっくに終わらせたはずだった。俺は高校卒業と共に生きることを止めた。それなのに、どうしてこんな所にいるのだろう。
いじめからも、家族からも解放されたはずなのに、どうして体中が痛み、路地裏に隠れ潜んでいるのだろう。
何をしても上手くいかない人生だったけど、まさか死ぬことすらもまともに出来ないなんて、本当に救いようのない愚図だ。
身体から力が抜ける。動く気力も体力もない。特に意思は既に尽きていた。もうずっと前から無かった。惰性で動いていただけだった。
このまま動かなければ死ねるのか? 何も食わなければ死ねるのか?
―――いや、死ぬことは出来ない。生存本能が邪魔をして、我慢できずにその辺のゴミでも何でも口にしてしまうだろう。
もっと、確実に、死にたい。
餓死よりも、飛び降りよりも確実に、疲労困憊の身体でも死ぬことが出来る方法は―――。
河川敷から見る川はいつも夕陽に照らされていた。だから夜に見る真っ暗な川は、普段見ているものと全く異なる。本当に同じ場所なのか疑わしくなる。
眼下に広がる漆黒の川は、教科書に載っていたブラックホールの様に、どんな物体も飲み込んでしまいそうだ。決して脱出できない重力の檻。
後ろから聞こえる車が行き交う音が、何処か異世界の様に感じる。いや、俺だけが世界から切り離されているのかもしれない。
橋の手すりに立つ。不安定な足場は油断すると落ちてしまいそうだ。慎重にバランスを取って、前を見据える。
永遠と続いている様に見える川に、自分の人生を重ねる。これらか続く暗い道程の具現化に見える。
そう考えると、今まさに、この状況が俺の人生を暗喩している。
真っ暗な道のりで、今にも崩れそうな足場にギリギリで立っている。少しでも力を抜いてしまえば、真っ逆さまに転落する。それこそ、人の道を踏み外す程の転落が。
今ならまだ間に合う。どうせ落ちるなら、着地点は自分で決める。俺の人生で誇れるものがあるとすれば、どんな選択だろうと自分で決めてきた事だ。誰かに言われたからじゃない。自分で選んできた。
俺はまた選択する。何度生まれ変わっても、必ず同じ道を選ぶ。
「―――」
身体の力を抜いて、前のめりに倒れる。全身を包む浮遊感が前回と同じだった。
正直不安はあるが、分の悪い賭けではないと思っている。
この川の水深は知らないが、子供が溺れる程だと聞いている。なら足は付かないはず。小学生が溺れるなら深さは二メートルほどだろうか。
俺は泳げないし、疲労しきった身体ならもがいても直ぐに体力が尽きるだろう。ランドセルは捨ててきたし、そうなれば沈むだけだ。
懸念点は、死んだらどうなるのかということだ。
普通は考えない。幾ら思考を積み重ねても答えはない疑問だからだ。しかし、俺には経験がある。死ぬ経験。死ねない経験。
天国は信じない。地獄ならよし。それ以上に苦しい現実なら、俺にはもうどうする事も出来ない。万策尽きた。
思考は一瞬だった。数秒を待たずして、俺の身体は水面に叩きつけられる。負傷している身体には強烈な一撃だった。
痛みにもがき苦しむ暇もなく、俺の身体は沈んでいった。水底が見えない。噂以上に深い様だ。
息が続かなくなると、身体が勝手に動き、水面を目指して浮上する。こればかりは逆らえない。人間の生存本能は、こんな時ばかり主張してくる。
水面から顔が出る。大きく息を吸うが、身体が思う様に浮かず、再び沈みだす。その度に顔を出しては沈み、出しては沈むを繰り返す。
完全に溺れている。冷たい水は体温を、深い水底は体力を奪う。
徐々に動きが鈍くなる。身体は鉛の様に重く、体力は底を尽き、身体は水底へ吸い込まれて行く。
視界が夜空から月の光も届かない水中へ。段々と暗くなる。それは、失っていく意識と感覚だった。
あぁ、また死ぬ。やっと死ねる。これで終われるはずだ。
前回は裏切られた。それは神か、世界か。何でもいい。今度こそ頼む。
生きる目的も、意味もない俺の人生を、終わりにさせ―――。
「―――!!」
身体を掴まれる。脱力した身体は水面に向かって引っ張られる。
顔が水面から出る。一気に酸素が肺に流れ込んできてむせ返る。脇の下から腕を回され、強引に岸まで連れていかれた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
過呼吸にならない様に規則的に呼吸する。四つん這いで荒い息を吐く。
「全く、君は手がかかるね……」
そう言いながら背中を摩ってくれる。手つきはとても優しく、本当に俺を気遣っているのが伝わってくる。
その思いが、俺には耐えられなかった。
「―――」
「ちょっと、何処に行く気!?」
息が整た所で立ち上がり、歩き去ろうとする俺を、暁夜月が呼び止める。
「―――」
「待ってって!」
無視して歩く俺の腕を掴む。
「流石に止めるよ、今回は」
「―――ほっといてください」
腕を引き剥がそうと力を入れるが、小学生の腕力では振り解けない。仕方なく暁夜月の方を向く。
「僕に用でもあるんですか?」
「ある。大切な要件だ。でも、その前に、言わなきゃいけない事があるよね?」
「……言わなきゃいけない事?」
「ありがとうだよ。そう教えただろ」
真っ直ぐ見つめてくる暁夜月。確かにそうだ。当たり前の常識。でも、今回に限っては違う。
「……余計な事をしやがって」
「え……?」
「余計な事をするな」
驚いた様子の暁夜月。それもそうだろう。溺れている所を助けたのに、感謝どころか余計なお世話と言われるなんて、考えもしない。
「助けなくてよかったのに。……もう少しで死ねたのに」
「―――何を、言ってるの?」
唖然としている暁夜月を無視して、俺は言葉を続ける。
「弱い者に手を差し伸べて満足感が欲しかったのか? 善行している自分に酔いたいのか? どっちでもいい」
言葉が止まらない。決壊したダムの様に、濁流が溢れて止まらない。こうなる前に死にたかったのに。それなのに。
「自己満足なら余所でやれよ。俺を巻き込むな。関わるな。―――どうして上手くいかないんだ」
握りしめた拳から血が滴る。痛みはない。あるのは怒りと―――悔しさだ。
「何も上手く出来ない。成功しない。どうして……どうしてこんなにも能無しなんだ」
どれだけ努力しても、目的の地点まで届かない。何度繰り返しても、最良の結果を得られない。
何も成せず、誰からも見向きもされない。
「クソ……クソ……クソ!! 役立たずが! どうして……どうして!!」
悔やんでも悔やみきれない。失敗続きの人生。成功体験はなく、いつも歯を食いしばっていた。
愚かさに。浅ましさに。愚鈍で醜悪な自分に。
「どうして死なせてくれないんだ! どうして死ねないんだ! 死なせてくれよ!!」
だから死にたかった。もう何もしたくなかった。何かをするたびに自分に失望し、何の成果も得られない事に絶望し、厳しい現実に打ちのめされる。もううんざりだ。
「何の意味もない。無価値で、下らない……こんな人生、終わりたい……」
足から力が抜け、腰が砕けた様に座り込む。もう一歩も動ける気がしなかった。
身体中の力が抜けたのか、涙が流れてくる。涙腺が緩んでいるのだろう。本当なら涙なんて流れるはずはないのだ。
悲しい事なんてない。嬉しい事もない。ただ、自分の醜態に絶望しているだけだ。それなのに、止めどなく涙が流れてくる。
―――なのにどうして。こんなどうしようもない俺を、彼女は抱きしめてくれるのだろう。
「私もね。時々思うんだ。生きてたってしょうがないって」
彼女の口から聞いた事のない声色で、言うはずのない言葉を口にする。
「毎日辛い事ばっかで、全然思い通りにいかなくて、もう、生きてたってしょうがない。私の人生なんて無意味で無価値だって世界から言われてる気がしてさ」
彼女は、暁夜月は常に余裕があって、自信家で、堂々としていた。そんな彼女から聞くはずのない単語の数々。それなのに、違和感なくすんなりと耳に入ってくる。
「でも、だからこそ諦めたくない」
強い意志を感じる言葉だった。
「だって悔しいじゃないか。こっちは必死に生きて、毎日血反吐を吐きながら頑張ってるのに。曖昧な概念に否定されるなんて。何様なんだ。私の人生の価値は私が決める」
抱いている腕に力が入る。彼女の意思が伝わってくる様だった。
「何人にも侵されない、私の価値。それを証明する為にも、生きなきゃいけないんだ」
そうだ。これだ。これが暁夜月なんだ。記憶と違わない。
俺にない強い意志。前を見据えるその瞳に、俺は焦がれていた。
「―――死んだらダメだ。逃げちゃダメだ」
その言葉に、心臓が跳ねる。今一番、言われたくない言葉だった。
「……どうして?」
尋ねる俺は、悪戯をした子供が如く、怯えていた。この時だけは、見た目に違わず歳相応だった。
「逃げるのはね。最後の最後まで足掻いた人だけが許される。成す術がなくて、どうしようもなくなった時に現れる、最後の手段なんだ」
胸が熱くなる。それは怒りでもあり、悲しみでもある。でもそれ以上に、もどかしかった。
俺は何もせずに諦めた訳じゃない。必死にもがいて努力して、辛い日々を耐え抜いてきた。それでも叶えられなかったから、諦めた。もう成す術はないんだ。自殺を選んでしまう程に。
記録としては未来だが、俺の記憶には鮮明に刻まれている。苦悩と挫折の経験。
「君はまだ、出来るよ」
彼女は知らない。だからそんな言葉を口にできる。
「……無理だ」
「出来る」
彼女は知らない。だからどれだけ否定しても、無意味だった。
「どれだけ努力しても、届かなかった。希望はない」
「なら新しい可能性を見出せばいい」
「―――簡単に言うなよ。俺はそんなに器用じゃない」
俺は努力する以外の方法を知らない。自分の為に自分を磨く以外の生き方を知らない。
―――もし、他にやり方があるのなら。
「そうか。じゃあ、こうしようか」
抱擁を止め、俺の肩に手を置いた暁夜月は、真っ直ぐ俺を見据える。
「私が君の人生の価値を決めるよ。だからそれまで死なないでくれ」
その顔は、今まで見たどんな顔より優しくて、お道化ていて、嬉しかった。
初めて、誰かに頼みごとをされた。求められた気がした。
「……本当に、勝手ですね」
そして俺も、何故か笑ってしまった。笑い方なんて、とうに忘れてしまったのに。きっと鏡があったら、酷く醜い笑みを浮かべていたのだろ。
「そうさ。私は我儘なんでね」
二人で笑い合う。初めての経験だ。だからこれが正しい事なのか分からない。他人に自分の人生を握られているなんて、冷静に考えれば震えあがる程恐ろしい。
―――酷い矛盾だ。自分の価値は自分で決めるなんて言っておいて、俺の価値はアンタが決めるのか。本当に我儘なんだな。とても羨ましい。
それは、俺には無い感情だから。
「約束だ。私と君の、ね?」




