第一章「魔王に殴られるだけの簡単な仕事」その7
「ほげぇっ!?」
エディスの接近を妨害するかのように、強烈な衝撃が俺の側頭部を襲った。
「え、え、え?」
何が起こったのやら。
エディスとエストナが唖然とする中、俺はルゼがスリッパを持っていることに気がつく。
どうやらスリッパで叩かれたようだ。
「ルゼ?」
「いえ、変態を叩いただけです」
「へ、変態って――」
「私はサバカンさんの頭を撫でようとしただけだもん」
ふくれっ面を見せるエディスには罪はないだろうし、俺だって無罪放免のはずだ。
だがしかし、ルゼは罪人を見るような目つきをこちらへと投げかけて来る。
「では、この発情期――ではなく、ド変態がこれ以上の長居は迷惑になりますので、これにて失礼いたします」
「誰が変態だっつーの。失礼しました……」
「またね~」
ルゼに腕を強引に引っ張られながらも、家の外へ連れ出される。
「いや、叩くことはないんじゃない?」
「鼻の下が伸びておりました」
「え!?」
「冗談です」
冷たい瞳と冷や水のような言葉を浴びせられ、力なく睨み返すことしかできなかった。
「それで、他の魔王の所にも行くのか?」
「いえ。私はエディスについて更なる調査をいたしますので、先にあなたはミセリアートを戻ってください。翌日に迎えに参りますので」
「戻れ、と言われましてもね。生憎、辻馬車も通っていないんですけれども」
皮肉交じりにそう言うと、ルゼが静かにかぶりを振る。
「私がお送りします」
「そうか。じゃあ、頼む」
仕方なくその場で四つん這いになる。
情けない格好だが、この居心地の悪い魔界からとっとと抜け出したくて仕方なかった。
「何をやっているんです?」
「いや、だって、ミセリアートに戻るんだろ?」
「ミセリアートに戻る際には別の辺獄神法を使うので、残念ながらあなたを蹴る必要はないのです」
「そ、それを早く言ってくれよ!」
今の俺の顔はリンゴのように真っ赤になっていることだろう。
急いでその場で直立してルゼを見据える。
「てっきり、臀部を蹴られるのが好きなのかと」
「勘弁してくれ……」
がくりと項垂れていると、ルゼが何かを口早に唱えている。
俺をミセリアートへ戻す術なのだろう。
「ホイサッ!」
妙な掛け声と共に俺の身体は光に包まれる。
春の斜陽のごとき暖かみに微睡みながらもこれから何が起こるかについて考える。
ふと、足元の地面が妙に柔らかくなっていることに気が付く。
これはどういうことだ、と思わずそこから逃げ出そうとするも、その瞬間だった。
「えっ――!?」
俺は、空を飛んだ。
正確に言えば、唐突に空中に投げ出された、といったところか。
もっと正確に言うと、柔らかくなった地面がバネ仕掛けのカラクリのように反発し、まるで弩で放たれた矢のように上空へ弾き飛ばした、のだろう。
どんよりとした雲を突き抜けていると、血のように走る稲光に網膜を焼く。
恐怖と混乱のあまり、俺は叫んでいた。
月も星もない、何の面白みもない真っ暗な空に、俺の悲鳴だけが伸びる。
どこまでもどこまでも伸びる悲鳴を耳にしていると、やがて意識が遠くなっていくことに気がついた。
まったく、なんて無様な死に方なんだ。
諦めて目を閉じようとすると、ふと両足が何かに着地した。
恐る恐る目を開くと、いつの間にやら見慣れた街並みが広がっていた。
既に時刻は夕方となっており、徐々に濃くなるであろう薄闇が一日の終わりを淡々と物語っている。
「帰って、来られたんだな……」
そう呟いてから、俺はその場にへたり込んでしまう。
周囲には家路へ急ぐ者達がいたものの、そんなことを気にする気力は俺にはなかった。
やがて、正気に戻りその場で立ち上がるも、まだ長い夢でも見ていたかのような、そんな不安な心境だった。
それでも、人間の帰巣本能というのは恐ろしいもので、いつしか俺は停泊していた宿へと戻っていた。
中心部にある宿で、安いだけが取り柄で、出てくる食事もそれ相応の内容だ。
贅沢をする趣味はないが、せめてもう少しマシな食事はしたいものだ。
食堂にて出されたぬるい麦と豆のスープと、泥臭さの残る芋と人参の炒め物、味も見た目も何かもが安っぽい黒パンを胃へと流し込んでから、部屋へと戻る。
スプリングの利いていないベッドに力なく横たっていると、あっという間に眠気が襲ってくる。
大方、今日起きたことなんざすっかり忘れたような間抜け寝顔をしているのだろう。
わずかながら残った意識の中で俺は考える。
魔王判定士の助手――。
サバカンという名前――。
結局、俺は喜劇の中の主人公という宿命なのだろうか。
自嘲の声を上げる前に意識が一気に滑り落ち、そのまま奈落へと落ちていく――。
第一章 完 二章へ続く
第一章はこれにて終了です。
次回、第二章「魔王に喧嘩を売るだけの楽な仕事」が始まります。
一章と比べて戦う要素がやたらと増えますのでお楽しみに。