第9部分 意味ある死5
第9部分 意味ある死5
「塩狩峠」の例は軽率だったかもしれない。迂闊に書くとネタバレになってしまう。
だから先を見通して書けと…
おっと逆にテキトーに勢いだけで書きなぐっていることがバレてしまいました。 トホホホホ…
まあ、仕方ない、これも運命じゃ…
場所は北海道、世は明治後期…だったかの実話が元になっている。熱心なクリスチャンで鉄道職員だった主人公が自身の結納のために札幌に向かう途中で塩狩峠を通りかかると、たまたま乗っていた列車最後尾の客車の連結器が外れてしまう。機関車はどんどん行く。このままでは最後尾の客車は傾斜に従って落ちるように暴走し、やがて脱線横転して多数の死傷者を出すだろう。
このとき主人公がとった行動は… という話だ。
ちなみに本人一人だけなら、その場で降りれば助かれたはずだし、小説の中でも降りた設定になっている。ああ、いま検索したら結果まで載ってます。興味があったら調べてください。
そんな、ここまで引っ張っておいて、と文句が出そうですね。
じゃぁ… ネタバレがイヤな方は次の「部分」までトバしてください。
客車に付いているはずのブレーキがどうだったとかまで細かく書いてあったはずだけど、読んだのがもう二十年以上も前のこと。細かいことはもはや忘れて果ててしまいましたが…
そう、主人公はとっさに線路と車輪の間に身を置く… つまり自分の身体をブレーキ代わりにして…、要するに「自ら飛び込んで轢かれて」客車の暴走を止めたワケだ。
その数瞬の間に、どんなことを考えたのだろう。
今から会って結納を交わすはずの婚約者。親戚や兄弟(いたっけかな? あやふやで済みません)、職場の同僚や知人、そして増えてきたクリスチャンの仲間たち…
それとも「偶然同じ客車に乗り合わせただけの人々」の命と人生だったのか…
サティの身に置き換えて考えたとき、同様な鉄道会社勤務であったとしてもこの決断はできない。
「みんな、とにかく窓か扉から飛び降りて! 早く!」と叫ぶと思う。
理由1 今客車はほとんど停止している、これから速度がつくところだ。いまなら飛び降りても、子供を投げてもせいぜい打撲で済むだろう。あとの決断は運を天(か神)に任せるべきだ。それでもサティは客車に絶対付いてるはずののブレーキを最後まで操作するだろう。それが責任感であると思う。しかし飛び込みはしない。ああ、情緒不安定な今ならもしかしてやるかもしれないけど… いや、やっぱやらないだろうな…
理由2 自分の身を挺しても、本当に客車を停止させられるかはわからない。自ら犠牲になり、痛くて辛い思いして轢断されたあげく下り坂で客車が暴走したら、自分の死はまさに犬死だ。
理由3 自分の死によって見ず知らずの人を助ける行為はたまらなく美しい。しかし待っている婚約者はどうなるのだ。そこんとこ考えたのか? 婚約者だけにガマンを強いているのではないか? そりゃ主人公が「天国」に行けることは神が保証してくれているんだけどさ、クリスチャンだから。
そうひねくれて考えると、戦国~江戸時代、明治初期に至るまでの「潜伏キリシタン」や「かくれキリシタン」の「殉教」と重なるものがある。つまり死ぬことによって「天国」に行けるという目的が達成できることになるからだ。
実は昔から疑問だったのでついでに書いてしまおう。キリスト様にしろマリア様にしろ足で踏むのはどうせ本物ではなく、たかが絵であり像である。十字なんて、交差点でいくらでも踏んでいる。
百歩譲ってキリスト様は奇跡を起こした聖人であったとしても、なんでその母マリア様まで信仰の対象になるのだろう? 父無し子を身籠って聖母になるならば、世の女性の数割は聖母になって… ああ堕ろしちゃったらなれないか…。それに産んでもなれないね、普通なら…
子が大統領にでもなったとしても、聖母にはなれないのは確実だ。
(注:堕胎自体を責めてるワケではありません。)
ん?
これって純粋な信教なのだろうか?
もしかして本当は営利目的なんじゃないか?
遠慮なく言うとこの本自体が布教活動、つまり広告塔なんじゃないか… と疑心が起きてしまう。著者の三浦さん、どうなんですか?
だからイヤなんだよ、宗教って… たとえ何教であったとしても。
そして結局のところはカネなのかな、と思ってしまう。富士近辺にむらがり建つ多くの宗教施設の立派なこと。あのカネの源は、結局は純真は信者のフトコロなんだからさ。
ただし他人の信心にケチをつけるつもりではないので、そこんとこはよろしくです。あくまでもサティの疑問なんです。
ん? 悪魔でも…? ヘンなとこで洒落を思いつくなよ…
あれ、書いてるうちに「意味ある死」はどこかに消えてしまったようです。原稿は酔っぱらって書いてはいけない、と言うことですね。先を見通して計画的に書け… と。
皆様見逃してくださいませ。
もうダメだ、眠い… おやすみなさい。