第5部分 意味ある死
第5部分 意味ある死
やっぱやめた。
社会保障の件はまだ調査が足りないし、書き方によっては正真正銘の地雷になるかも知れない。もし炎上するにしても、ただ炎上するだけでは意味がない。逆に、そこに意味を見い出せるのならば叩かれようが炎上しようが、笑って切腹できるというものである… いや、できんか。
ちなみに、この小説の題である「頼む、死なせてくれ」には2つの意味を持たせてあるのにお気付きだろうと思う。
1つには、たとえばサティが自身に物理的心理的事情によって死にたくなり、死神様に訴える声として「頼む、死なせてくれ」。
もうひとつは少々ひねくれて… もう死んでくれた方が世のためヒトのためによさそうだけど、なかなか死んでくれないケースだ。仮想の話として、憎まれ口ばかり叩いたり、一切感謝の気持ちが伝わってこなかったり、飯を食わせてくれないと文句を言ったり、アタシの財布を盗んだでしょと冤罪を被せてきたり… 介護に疲れた方々がその対象に向かって密かに願うであろう… 祈りの声だ。
当面は最初の方の意味でイッテみようと思ってはいるが…
意味ある死… とかカッコ付けてみても、生物学的には「死は死」であってそこに特別な意味はない。
たとえ凡人であっても、いや凡人であるがゆえに
「笑って死にたい」
「畳の上で死にたい」
「苦しまずにポックリと死にたい」
「病院ではなく、自分の家で看取られて死にたい」
「思い残すことなく死にたい」
そんな願いを持つのが人情というものである。おそらく皆様もそういう中の1人だろうし、だからその気持ちも痛いほどにわかるはずだ。
ここでは「自分の死によって、人を助けたり、世の役に立ちたい」というケースを取り上げてみようかと思っている。その根底にあるのは仲間を想う精神と自己犠牲の精神と、そして少しは承認要求と名誉欲もあるように思えるが、どのみち凡人にはとても真似できない崇高な行動であると言えよう。
例としては
①堤や橋、城の石垣等の建設の際の人柱
②城攻めや合戦時の一番槍的行動(最前線で槍を振るい、最初に相手を倒した名誉の者)
③太平洋戦争中の無数の無名の兵士たちの行動や特別攻撃隊または類似の部隊、沖縄戦の海軍の太田少将など
⑤姥捨て伝説や子を想う母(父)性愛
⑥即身成仏や補陀落渡海、三浦綾子の「塩狩峠」に見られるような宗教理念的行動
自分の僅かな知識の中でも特に印象に残るケースを挙げてみたい。
①は必ずしも自発的行動ではなく、たまたまの巡り合わせや狙われて強要された場合もあるようだ。
例えば… ある川が荒れ、水害が酷くて仕方ない。何度堤を直しても毎年毎年決壊してしまう。
あるいは城を築くことになったが石垣に特定の部分が積んでも積んでも崩れてしまう。
やむなくそこの主だった者が集まり会合を開く。
「これはもう、人柱に頼るしかあるまい」
「仕方あるめぇ」
「しかし、それは…」
「だが他に方法はあるのか?」
「んだ」
「んだ」
「他にないんだよ、方法が」
「…」
「で、だれにする? どうやって選ぶ?」
たとえばたまたま集落を訪れていた客人とか、アイツを埋めちまえみたいなノリで容赦も否応もなく埋められる… もうこれは天災、いや人災としか言いようがない
ある橋ではたまたまその場を100番目に通りかかったのが坊さんだった。呼び止めて事情を話すと、
「よろしい… これも何かの巡りあわせでしょう」
と逍遥として承諾する。
これは宗教的悟りの世界であり、世のためヒトのため、つまり⑥のケースに該当するのだろう。
②はたしかに勇敢で御国のためにはよろしいかと思うが、どちらかというと世のためヒトのためというより個人的名誉とか勲章とか功績とか立身出世とかの意味合いが強いように思えるので割愛させていただこう。
③も②的な意味合いが強い。例えば勇ましく命を捨てる行動が戦前なら修身の教科書に載って全国の少年少女に膾炙されるかも知れないし、現世でも勇士として称揚されたり階級が上がったり、場合によっては金鵄勲章の対象になって一生生活に困らなかったり… ここには自己犠牲というよりもっと生々しく蠢くものが見える。
「テンノーヘイカ バンザイ」
と叫ぶのにもそういった算盤を弾いた者もいたはずだ。題名は忘れてしまったが、ある本の中の軍医の述懐が面白かった。
「ヘイタイさんは負傷するとテンノーヘイカ バンザイって確かに叫ぶけどね… 本人はケガして悲愴な気持ちで叫ぶんだろうけどね、だいだいは軍医の眼から見たらカスリ傷に近い、本当に死にそうな重症患者は叫ぶどころかうめき声も出ないもんさ」
ただ… こんな話もたくさん落ちている。
たしかマレーシア上陸戦の話だった。輸送船から上陸用舟艇に乗り移り、これから敵地に砂浜に向かうときだ。兵隊数十人を乗せた舟艇は弾丸雨飛の中を進む。敵弾に当たらないようにと兵隊はなるべく身を伏せている。しかし船を操縦する船舶工兵隊の者は別だ。しっかり前を見て障害物を避けながら上陸適地まで送り届けねばならない。
3回目の往復のとき、操縦員が倒れグラリと舟艇が揺れた。
「おい、大丈夫か」
「失礼しました… かすっただけです、大丈夫です」
操縦員は立ち上がり、仕事を続けた。
やがて上陸適地に到着し、上陸する者が舟艇を降りる頃、操縦員がやにわに倒れた。それに気付いた者が良く見ると胸に大きな穴があき、生きているはずのないような身体であったとか…
塹壕戦になって、ある兵隊が銃で撃たれてケガをした。右手を失い腹にも深い傷を負ってうめいている。そこへ敵から手榴弾が投げ込まれてきた、あと数秒で爆発し、おそらくは数人が死傷するだろう。狭い壕の中、もう立ち上がって逃げる時間はない… 絶対絶命のそのとき、かのケガ人が手榴弾目掛けて這い寄り、身体をその上に載せた。
Bang!
仲間は暖かく赤い飛沫を浴びたが、ほぼ無傷だった…
こういった「ONE FOR ALL」の精神が私には感動的だった。
こういった個々の武勇にもなかなかに心を打つものがある。しかし皆さまもその立場になればついつい演じてしまえる行動じゃないかとも思えてしまうのだ、いまとなっては。
そんなサティが常々感じ入り、また皆様に紹介してみたいのは、沖縄戦の太田実少将(死後に中将)のエピソードである。
沖縄戦では、海軍の沖縄根拠地隊司令官としておよそ1万人を率いて沖縄本島小禄半島での対米戦を指揮した。陸軍の首里から摩文仁への撤退に際し重火器を破壊して南部への移動を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を誤解していたことがわかり、再び小禄へ引き返したが、すでに重火器はなく、今後闘う手段は限られていた。
6月2日、「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。従える状況ではなかったのだろう。
沖縄での海軍部隊の戦いぶりは以下に示すように、米国公刊戦史があたかも褒めたたえているかのような見事なものであったという。
「小禄半島における十日間は、訓練も装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念で、兵員が地下陣地の機関銃を抱き、敵軍に最大の損害を与えるために喜んで死に赴くという、日本兵の戦闘だった」
この太田少将は昭和20年6月13日に豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決したというから、この出来事はその1週間前のことになる。
おそらく自分たちの戦いと糧食確保と戦死戦病と会議と情報と対策と… 寝る暇さえないほどの状況の中で、太田少将は海軍次官(海軍大臣直属のいわばナンバー2)に宛ててこんな電文を送っている。ただし読みづらいので、カタカナをひらがなに直してある。また□は不明な文字であり、一部の文字を現代仮名遣いにあらためてある。
昭和20年6月6日 20時16分
発 沖縄根拠地隊司令官 ← 太田少将のこと
宛 海軍次官 ← 多田武雄中将のこと
左の電□□次官に御通報方取計を得度
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信力なく32軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付本職県知事の依頼を受けたるに非されども現状を看過するに忍びず之に代って緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき
然れども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難尚砲爆撃のがれ□中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり
而も若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり
所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思は(わ)れず
更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり
是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々(ただただ)日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂に□□□□与え□ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形□一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支うるのみと謂う
沖縄県民斯く戦えり
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを
文頭とラストの部分だけは現代文風に記しておこう。
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう計らって下さい。
沖縄県民については関しては、本来県知事から報告されるべきですが、県にも第32軍(沖縄守備軍)司令部にもまた通信の余力がないと認められます。県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状を見過ごすことができないので、代わって緊急に私からお知らせいたします。
(以下沖縄県民の戦闘や軍への協力の例がいくつか記述されている)
軍が沖縄に来て以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなくこの戦闘の最期を迎えました。
沖縄の戦争はひどいものです。一本の木や草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけとのこと。
沖縄県民はこのように戦いました。
沖縄県民に対して後世特別のご高配をして下さいますように。
この期に及んでこういう配慮ができる方… もはや神レベルの崇高さだと私には思えてしまう。
サティも死ぬ前にはひとつくらい、こんなスゴイことをしてみたいものだが…
所詮は月とスッポンか… もちろんサティがスッポンの方だけど、このくらい意味がある死を迎えられるなら、それがいつであっても後悔はしないと思う。
たとえ今であったとしても…