7話
しばらく順調だった訓練は、ある時から不調に変わった。
「カリン嬢、五段!」
「はい! あ、ロベルト卿もっと左……っ」
四段目までは上手く跳べていたように見えたが、最後の五段目が駄目だった。
ロベルトは防御壁改め防御板から足を踏み外し、地面に落下した。それなりに高い位置から落ちたものの、空中で体勢を立て直し着地する。
彼なら高い位置から落ちても大丈夫だと分かっていても、カリンは息が止まる思いで駆けつけた。
「申し訳ありません、卿。防御板を出すのが少し遅かったのかもしれません」
「いや、私もまだ身体で覚えきれていなかったみたいだ」
それより、と言いながら、ロベルトは横目で岩人形を見た。
訓練場のいたるところに設置されている岩人形には、固定式と可動式のものがある。この訓練には前回から、魔力で動く可動式を使用し始めた。まるで意思を持ったようにロベルトを襲っていた岩人形は、指示を出していない今はただの岩として鎮座している。
「実戦に近くなるとやっぱり難しいな。向こうも動いてるわけだから」
「そうですね……」
固定式で上手くいっていたものが、可動式岩人形を使い始めてからはこの調子だ。
足場となる防御板を出している間に相手も動いているから、ロベルトもそれに合わせて動いてしまう。ロベルトの動きに合わせてカリンが位置を微調整できればいいものの、そこまでの連携はまだまだ難しい。
カリンが勝手に防御板を出しても、高すぎたり低すぎたりすれば体勢が崩れてしまうので、一段ごとの幅や高さは決めた通りに出さなければいけなかった。それすら難しいのだから、とっさの判断で微調整などまだまだ無理だ。
「カリン嬢。思ったんだが……」
「何でしょうか、ロベルト卿」
どうしたら改善できるものかと立ったまま考えていたが、少ししてロベルトが何かを思いついたらしい。カリンより高い位置にある顔を見上げてみると、ロベルトは周囲を見渡していた。
この訓練は非公式だが各所の許可を取り付けた上で、堂々と訓練場を使っている。だからアニエスがそうだったように、多くの人がこの訓練のことを知っている。
第四王子の護衛であるロベルトに遠慮しているのかおおっぴらに見学しているような人間はいないが、どこかの窓や物陰から遠巻きにこちらを見ているのだろう。
同じように周囲を見渡してみても、カリンの目には誰一人見受けられなかった。そして、しばらく前後左右を確認していたロベルトはカリンに視線を戻し、妙に真面目くさった顔で言った。
「互いの呼び名が長すぎるのではないだろうか」
「それは……」
ロベルト卿にカリン嬢。名前自体は長くないが、敬称を付けているので長いと言われたらそんな気がした。
「そうかもしれないですね」
「だろう? だから」
「名前を呼ばず要件だけ、ということですね」
そもそも名前を呼ばない。確かに、これなら指示の時間短縮になる。なぜこんな簡単なことに気が付かなかったのだろうかと大いに納得しているカリンの横で、ロベルトが慌てて否定した。
「名前は呼ばないと。今は私たち二人だからそれでいいと思うかもしれないけど、実戦では味方が複数人いることもあるだろう?」
「あ、確かに……」
ロベルトの言う通りだった。実戦での曖昧さは命取りになる。
呼び名が長い、けれど名は呼ばなければいけない。残る選択肢はと考えて、今度はカリンが慌てた。
「よ、呼び捨てなんてできません」
「やってみる価値はあるよ」
「ですが、さすがに……」
百歩譲って、ロベルトがカリンを呼び捨てにすることは構わない。けれどその逆は大問題だ。
相手は高位貴族の子息で、王族を守る近衛騎士で、社交界の青薔薇だ。対するカリンは平凡な庶民で、生まれ持った身分はもちろん、畑違いとは言え職場での地位にも雲泥の差がある。
そんなカリンがロベルトと定期的に顔を合わせているだけでも珍しいことなのに、呼び捨てになどしたらどうなるか。面倒事しか想像できなくて、カリンはげんなりした。
「訓練のためだ」
そう言われると弱い。中途半端なままでいるよりも、可能性に賭けたいという気持ちはカリンにもある。
そんなカリンの胸中を知ってか知らずか、ロベルトは続けた。
「人前で堂々とするにはさすがに障りがあるから、呼び捨てにするのは二人だけの時にしよう」
「で、でも」
「そのまま呼ぶことに抵抗があるなら、私のことはルブ、と。ロベルトより短くていい」
それはまさか、ロベルトの愛称ではなかろうか。カリンの中ではロベルトの呼び捨てに更なる抵抗が生まれた。
「ほら、呼んでみて」
「ロベルト卿がわたしを呼び捨てにするだけではだめでしょうか?」
「だめだよ。それじゃ意味がない」
(確かに、確かにそうかもしれないけど!)
いきなりこんなのは無理だ。呼び捨てをすっ飛ばして、愛称呼びしろだなんて絶対に無理。しかし、これも訓練の一部だと思えば、上手く連携が取れるようになるのなら。
カリンの中で、大きな葛藤が生まれる。
「……っ、っう……うう……」
「ルブ」
「ル……ル……」
未だかつて、人の名前を呼ぶことにここまで抵抗を感じたことはなかった。カリンは半ばやけくそ気味に叫ぶ。
「訓練のためですから! 成果が出なければ呼び名は元に戻します!」
「きっと期待に答えてみせるよ」
「絶対ですよ。わたしもがんばりますから、改めてよろしくお願いします……ルブ」
「……」
カリンがやっとの思いで名前を呼んだと言うのに、返事がない。ロベルトは口元を手で抑えて固まっていた。
「あの、そんなに嫌でしたか?」
「まさか」
口元から手を離したロベルトはぎこちない顔で笑っていた。愛称呼びが嫌ではないというのなら、その顔を何だと思えばいいのだろうかとカリンは心配になった。
「こちらこそ改めてよろしく、カリン」
「はい」
気を取り直したように言いながら差し出された手は、握手を求めるものだ。その手を握り返すと、手袋越しでも熱かった。ふと見てみると、ロベルトの頬が少し赤いように見えた。
暑い季節になってきた。日中上がった気温は日が落ちてもなかなか下がらず、寝苦しい夜が今年もやってくるのだろう。そんな中でロベルトは近衛騎士の制服をきっちりと着込み、手袋までしている。当然暑いはずなので、顔が火照ってくるのも無理はない。
「涼しくなる魔法、使いますか?」
「頼むよ……」
この提案に、ロベルトは間髪入れず頷いたのだった。




