番外編:俺のとある一日
領主が変わったエル=ネリウス辺境領では、人員整理に重なって急に魔物の数が増えてきた。ただでさえ少ない人手が魔物の対処に割かれ、王都からの応援が来た今でも、しばらくは多忙な日々が続くことは間違いない。
どうしても一人あたりの仕事量が増えている。その中でも特に多くの仕事を抱えている俺は、今日も書類の山に囲まれていた。
いくつかの書類に目を通し、気になる項目に指摘内容を書き込み、計算して、署名したら部下に振り分けてゆく。
そうでないものは自らの手で次の決裁者に届けに行くため、いくつかの書類の束を抱えて部屋を出た。
届けに行く先は、俺よりも遥かに仕事量の少ない男だ。それでもこいつが、俺の次の決裁者だ。要するに上司だ。
扉を叩くと、苦手意識のある金髪が扉を開けた。
「……お疲れ様です」
「いらっしゃい。お茶を用意して待っていたよ」
俺にソファを勧め、とぽとぽとのんきな音を立てながらカップに茶を注ぐこの男の名はジェレミー・ネル。前エル=ネリウス辺境伯の長男で、この領地を継ぎ、辺境伯になるはずだった男だ。
父親の不祥事で領地を奪われ、名も失ったが、なんだかんだでこの地に一番詳しく、王子には必要な男だった。
だから王宮で死にかけて少し回復した頃、第四王子ともにこの地へ戻り、部下として働いている。病気がちなのは相変わらずだから、毎日体調と相談しつつ。
ちなみに『ネル』という名前は第四王子がつけた。元がエル=ネリウスだからネル、という直球すぎる名だ。
そんなジェレミーは今日、体調も機嫌もいいらしい。大の大人が顔を緩ませっぱなしで、少々気色悪い。
「ついに異母弟が、僕のことを『兄上』と呼んでくれてね」
「何も聞いてないんだが?」
再三言うが、こちとら仕事が忙しい。さっさと決裁をもらい、ついでに不明点のすり合わせをして、更に言えばいつもの胃薬を受け取ってから執務室に戻りたいのだが。
ニヤニヤしたジェレミーは茶菓子まで出して、勝手に長話の構えだ。止めてくれ。
「ほら、僕って異母弟にとっては意地悪な異母兄だったわけだから。いつか兄と呼んでほしいとは思ってたけど、叶う日が来るとも思っていなかったわけだよ」
こいつも色々大変だったことは、聞いてもないのに聞かされて知っている。
曰く、まだ一人っ子だった頃に急にやって来た少年が弟だと知って嬉しかった。しかし『半分血がつながっていない』ことを理由に、仲良くすることを許されなかった。
両親に冷たくされる異母弟が不憫で気にかけたが、自分がそうすることで異母弟が母に罵倒されることを知ってわざと冷たく、特に両親が見ている前では意地悪に振る舞うようにした。そうすれば母は満足し、しばし異母弟への興味を失った。
やがて実弟が生まれ、異母弟は遠い王都へ追いやられた。別れの一言すら伝えられなかった。
こんな異母兄、間違いなく好かれていない。もしかしたら恨まれているかも。
その予想は当たっていた。約二十年ぶりに会った異母弟――ロベルトは、ジェレミーが異母兄だと知っていながら、どこまでも他人行儀を貫いたという。
それは再会し、奇しくも同僚となってからの三年ずっと続いていたが、つい最近、王都から応援が到着したのと同時に変わったらしい。
城壁の何倍も分厚かった壁がそこの壁くらいの薄さになったと、よく分からない喜び方をしている。
「嬉しいなぁ。このまま病気も治りそう」
「んなわけあるか」
とは言うものの『病は気から』という異国の言葉もあるのだと、俺は知っている。こいつには言わないけど。
なんだかんだ、この上司には世話になっている。王子が重用するだけあって領地のことに詳しいし、病身である自分の体調を整えるために学んだ薬学のおかげで俺の胃も助かっている。
こいつの入れる茶にも、一緒に出される茶菓子にも、疲労回復や気分爽快に安眠効果だの、何かしらの効能がある。仕事で忙しくして寝食を疎かにする俺のために、こうやって引き止めて休ませていることを知っている。
それでも素直に「良かったな」の一言も言ってやれない。
「君もそろそろ、少し休んだら? 女神が来てるから、もうひとりくらいは救ってくれるかも」
「馬鹿馬鹿しい。あんた、浮かれすぎてるんじゃないか」
「そうかな」
俺はその後もこいつのくだらない話に付き合わされた挙げ句、胃薬はもらえずに部屋を出た。代りに押し付けられたのは、ジェレミーの決裁印が押された書類に、小さな箱。ご丁寧にリボンまでかけられたこれの中身は、チョコレートボンボンが三つらしい。
だから聞いてないし、そもそも何なんだこのチャラついた手土産は。
「今来てる応援部隊の隊長殿は、甘いものに目がないらしい」
「聞いてないって何度も言わせるな」
この世で何より不要な情報だ。
*
ジェレミーの部屋から執務室に戻ると、部屋の前に誰かが立っていた。今まさに扉を叩こうとしていたそいつの顔を見て、思わず足が止まる。
エル=ネリウス辺境領に来たことは知っていた。でも、俺の執務室にわざわざ足を運ぶなんてこと、あるはずがない。一緒にいるのはグラン男爵だ。あれがついていながら、城内で迷って適当な部屋に道を訪ねようとした、なんてこともあり得ない。
緑頭の女は俺に気がついて、ほんの少しだけ、笑った。
「ジュードさん」
忘れもしない。
あの日俺は、彼女に魔法薬を嗅がせて、抗魔法石で拘束して、首に刃物を当てて……言わなくてもいいのに、わざわざ傷つけるようなことを言った。
「……カリン、さん」
「ご無沙汰してます」
なぜ、ここに来たんだ。彼女がストウナー男爵で、応援としてエル=ネリウス辺境領に派遣されてくることは知っていた。でも、顔を合わせることはないと思っていた。
俺には謝る資格すらない。だから前辺境伯らと一緒に罰してほしかったのに、第四王子やこいつの口添えのせいでろくな罰は与えられなかった。
今後一切、王都への立ち入りを禁ず、だけだ。俺は地方出身だぞ。王都に行けなくても、そこまで困ることはない。
そればかりか、あの筋肉王子が「俺の元で馬車馬のように働くのがお前の罰だ!」などとでかい声で言うから、俺は今や生まれ故郷の、エル=ネリウス辺境伯の城で働く上級文官のひとりだ。
きちんと法で裁いてくれないせいで、俺はいつまでもあの日に、この女に縛られている。罪の意識が消えなくて、逃げるように仕事に打ち込んだ。それを心配したジェレミーに茶や菓子や軽食を食わせられ、聞いてもない話を延々と聞かせられた。うんざりだ。
「ジュードさん、お元気そうでよかった」
「カリンにはあれが元気そうに見える?」
「まぁ、お疲れの様子ではありますね」
俺の胃痛の原因の主な原因、グラン男爵がうるさい。
カリンさんは俺が助けてくれた、なんて言ったらしいが。とんだお人好しで嫌になる。
あの治癒魔法士みたいに俺を疑うこともなく王都の案内をしようとするし、のこのこ人気のないところに誘い出されるし、俺が文官だと思って媒体から手を離すし。
今日はのんきに挨拶なんてして、あまつさえ俺に向かって微笑んでいる。俺に何をされたのか、もっとよく思い出してみろ。
(くそ……)
三年ぶりに見たカリンさんは最後に見たときより少し大人びて、ずっときれいになっている。元から俺にどうにかできる人じゃなかったと、見せつけられたようだった。
簡単に落とせるだなんて思っていたあの頃が恥ずかしくて、それをごまかすように、手に持っていた小さな箱を彼女に押し付けた。
「なんですか? これ」
「し、知らない」
いや、知ってる。チョコレートボンボン、三つ入りだ。応援隊の隊長カリン・ストウナー男爵は甘いものに目がないらしいとは、くそ、あいつこのために俺にチャラついた箱を持たせたのか。自分ばっかり胸のつかえが下りてスッキリしたからって。
「たまたま持ってたので、い、いらないなら捨ててください」
よく考えれば、チョコレートを持っていてよかったのかもしれない。突然カリンさんと再会しても、話すことなどない。チョコレートのおかげで適当な間は保てた、だからさっさと執務室に入って、鍵を締めて、仕事に没頭しようと足を踏み出した、その時。
「あっ!」
ずっとカリンさんの側にいたグラン男爵が、彼女の手からチョコレートの箱を受け取った。まるで荷物持ちでもするかのように。
そう思って見ていると、グラン男爵は流れるような手の動きでリボンをほどき、箱を開け。そして中に入っていたチョコレートボンボン三つを取り出して、全てを一度に口に放り込んだ。
あっという間のことだった。これには俺も、カリンさんも驚いた。
「チョ、チョコレート! ルブ、なんてことを!」
カリンさんに詰め寄られたグラン男爵はしばらくの咀嚼の後、悪びれず言った。
「私がこれよりもっと高級なチョコレートを何個でも買ってあげる」
「そういう問題じゃないって分かってますよね。前から思っていましたけど、時々大人げないことするのはどうしてですか?」
「どうしてって……知りたい?」
「しっ、あ、あとで、お聞かせいただきましょう」
喜んで、と言ってグラン男爵はカリンさんの腰に手を回した。カリンさんはまんざらでもない様子だ。
そのまま二人は俺に背を向け、廊下を歩いて角を曲がって行った。ずっと腰に手を添えたまま。
グラン男爵は角を曲がる瞬間、勝ち誇ったような顔をこちらに向けてきた。
俺は一体、何を見せられたんだ……?
エル=ネリウス辺境領に来てからというもの、手負いの獣か何かと同類になっていたグラン男爵には胃を痛めつけられていた俺だった。だけどもしかしたら、もう胃薬はいらないのかもしれない。
なんとなく、そう思った。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!




