17話
それからまた数日後、食堂で魚の小骨を取っていたカリンの正面に、同じ魚料理をトレイに乗せたアニエスが座った。短く祈りを捧げてからムニエルにナイフを入れる。
「相変わらずみたいね」
「ですね」
アニエスに胸の内を明かしてから、カリンの心は軽くなった。アニエスはカリンのことを否定しなかったし、これといった助言もしなかった。ただ話を聞いて寄り添っただけだったが、カリンにはそれで十分だった。
とは言え、問題は何も解決していない。ロベルトは相変わらず手紙を寄越し、魔法士の塔にも足繁く通っている。カリンたちはずっと注目の的だった。
ラビにも「そろそろどうにかしろ」と言われているのだが、どうしたらいいのか分からなかった。
「ねえ、前のお礼とは言わないけど、この後ちょっと手伝ってくれない? 資料探しが終わらなくて」
どうやら今日はそのつもりで声をかけてきたらしい。基本的に、アニエスは用事のある時しかカリンに話しかけてこない。
あの夜は話を聞いてもらっただけでなく、翌日の朝食と職場への送迎までと、至れり尽くせりだった。資料探しくらい、お安い御用だ。
「もちろんです」
「ありがとう。食べ終わったら第三資料室に行きましょ」
今日は書類仕事も順調に進んでいるため、多少は時間に余裕がある。昼食を食べ終えた二人は食後のお茶を一杯飲んでから、資料室に向かった。
聞くところによると、アニエスが探す資料は多岐に渡るようだ。一人で全て探すには確かに少々骨が折れるだろう。
「塔の決算報告書は確か、第二資料室の方でしたよね。ちょっと行ってきます」
「あ、そうだったわね。いいわ、わたくしが行ってくるから、あなたはこっちをお願い」
「分かりました」
そう言って、アニエスは小走りで資料室から出て行った。カリンが目録を手に第三資料室の混沌とした棚を見上げていると、先程出て行ったばかりのアニエスが扉の向こうから顔だけ出した。
「カリンさん」
「アニエスさん? 忘れ物でも?」
「あの……実はこの資料探し、第四王子殿下からのご命令なの」
「第四王子殿下ですか?」
第四王子が一介の魔法士であるアニエスに頼みごととは。なぜ今それを言うのだろうかと考えているうちに、アニエスはまた訳の分からないことを言った。
「わたくしと、ええと、他にも二人が扉の前で控えてるから、心配しないでいいわ。もし何かあれば必ず助けるから」
「どういう意味ですか、それ……」
カリンが最後まで言い切る前に、アニエスは扉の向こうに消えた。入れ替わるように現れた人物を見て、カリンは口を閉じた。
「……こんな真似をしてすまない。殿下とアニエス嬢に協力してもらったんだ」
部屋に入ってきたのは、ロベルトだった。資料室の扉を後ろ手に閉めながら申し訳なさそうにしている。ロベルトは事もあろうに、アニエスだけでなく王子にまで協力を取り付け、カリンをここに誘導したのだ。
カリンは間髪入れず背後にある窓を開け、窓枠に足をかけた。
「ごめん、本当にごめん! 足を下ろして、ここ十階だから!」
ここは魔法士の塔である。塔と呼ばれるだけあって細長く、十階ともなれば地面は遥か彼方の下にある。
しかしカリンは魔法士だ。媒体の剣も常に腰にある。空を自由に飛ぶことのできる魔法士は非常に稀有だが、死なないように着地するくらいならばどうにでもできる。
「頼む、聞いてくれ。廊下にはアニエス嬢もいるし、殿下とレイモンド……もうひとりの近衛騎士もいる。何かあれば物理的に私を止められるから。止められるけど、君に何かしようなんて思ってないから」
ロベルトに何かされるかもしれないなんて、実のところカリンだって思っていない。そう頭では分かっているつもりなのに、どうしても体が強ばる。
――ロベルト卿があなたに初めて声をかけた時って、その胸の大きさなんて知らなかったでしょ? 寸胴のもっさり女だったでしょ?
――あなたの巨乳が目当てだった訳ではない、ってことよね。
アニエスの言う通りだ。ロベルトはカリンの胸の大きさなんて知らなかった。無視されているのに何度も謝りに来るし、今だって資料室の扉は完全に閉められてはいない。きっとこちらの会話は、扉の前に控えているというアニエスたちに筒抜けのはずだ。きっと、誠実な人なのだ。
カリンはなんとか、窓枠にかけていた足を下ろした。油をさし忘れた機械と同じ動きだったが、ロベルトはほっとしたように息を吐いた。そして、深々と頭を下げた。
「どうか、謝罪させてほしい。初対面のようなものなのに急に夜に誘ったことも、君に会う口実が欲しくて訓練を持ち出したことも。裏切るような真似をして、本当にすまなかった」
「……」
「恥ずかしながら、あの時の私はあれ以外にどう声をかけたらいいか知らなくて、それであんなことを」
「……」
「でもカリンのことが好きで、何とか親しくなりたくて……」
「……顔を上げてください、ルブ」
「……!」
カリンがロベルトに話しかけたのは、あの訓練の日以来初めてだった。
「わたしも無視して、ごめんなさい」
「カリン……」
カリンの言葉を受けてぱっと顔を上げたロベルトが、金の毛並みの大型犬に見える。身体の動きに合わせて揺れる金髪がしっぽのようだ。
「君が謝ることなんて何もない。全部私が悪かったんだ」
「では、お互い様ですね」
カリンは少々盲目だった。
ロベルトがあの時の男子生徒と同じではないことは、カリンにも分かっていた。訓練だって本当の理由がどうであれ、ふたりとも本気だった。
「喧嘩両成敗、ということでどうでしょうか」
要は――カリンには仲直りのきっかけが分からなかったのだった。




