1話
「カリン嬢、少しいいかな」
魔法士の塔の一角。先日の遠征の後処理のせいか人気がまばらな回廊で、カリンは声をかけられて足を止めた。
「ええと……ロベルト卿?」
振り向くと後ろには、近衛騎士のロベルト・エル=ネリウスが立っていた。
面した中庭からの日差しを受けて、金髪が輝いている。宝石のような青い瞳と美貌をもってして『青薔薇の騎士』と呼ばれることもあるロベルトは、呼び止めたカリンに言った。
「カリン嬢。今夜、君と共に空の星を眺めたいんだ……どうかな?」
途端、元々表情の乏しいカリンから残された僅かな表情も失われた。
「あ、この言い回しだとカリン嬢には伝わらないね。意味は」
「知ってます」
貴族特有の上品な言い回しを、あけすけな庶民向けに翻訳される前に、カリンは相手の言葉を遮った。白昼堂々、明るい日の差す回廊のど真ん中、みなまで言うことではない。
『あなたと共に夜の星を眺めたい』というのは、貴族の間で夜の誘いとして使われる言葉だ。何がどうしてそう言われるようになったのか知りたくもないが、男女どちらが使っても問題ない慣用句であるということは知っている。
要は、ロベルトはカリンを性交に誘っている。
「知ってますが、お断りします。今後は業務上必要な時以外、話しかけないでください」
カリンが一気に言うと、ロベルトは目を見張った。
平民であるカリンが貴族特有の言い回しの意味を知っている、その意味に驚いたか。それとも、青薔薇の騎士などと気障ったらしい名で呼ばれる男が、平民ごときに断られたことに驚いたか。
いずれにしても、カリンの知ったことではない。
「それでは」
ロベルトの返事を待たず雑に会釈して、カリンはその場を立ち去った。
見目のいい男の笑顔と、驚いて見開かれる青い目がまぶたの裏に張り付いたようだった。いささか乱暴に歩きながら、カリンは自身が所属する第九研究室まで戻る。
(平民にまで手を出そうとするなんて……噂以上に節操なしなの?)
あの男の噂は平民のカリンの耳にまで届いている。
重要拠点の守護者エル=ネリウス辺境伯の次男であり、第四王子の近衛騎士であるロベルトは、社交界においては非常に人気が高い。
真っ直ぐに伸びた髪は誰もが羨む黄金色、形の良い瞳は透き通った海の色。見栄えがして顔立ちも抜群に良い上に、力のある高位貴族の生まれで王族からの覚えもめでたい。
他の令息が嫉妬もできないほど、令嬢たちの視線を思うがままにしているそうだ。実際のところ、付き合っている相手は複数名いると聞く。
平民にまで手を出すなど、火遊び以外の何物でもない。カリンは貴族の気まぐれに巻き込まれるのはまっぴらごめんだった。
(接点なんてないのに、どうしてわたしなんかに)
カリンがロベルトを初めて見たのは、つい先日の遠征の時だった。
第四王子の護衛として遠征に同行していたのがロベルトだったのだ。お互い、それが初対面だったはずだ。
戦闘中、魔物の攻撃をカリンが食い止めた。後ろにいるはずの第四王子の無事を確かめるために振り返ったら、そこにロベルトがいたのだ。
あれが噂に聞く青薔薇の騎士かと思ったが、それだけだ。彼は王子の護衛なので、王子を見ようと思ったら一緒に視界に入ってくるのだから仕方ない。
剣を構えていたロベルトと、堂々と仁王立ちしている王子の無事を確認した後は、カリンも戦闘に戻った。なので、たったの一言すら言葉を交わしていない。
思い当たる接点と言えばそれだけなのに、どうしてロベルトがカリンに声をかけてきたのか。
苔のような濃い緑のくせ毛に、枯れ草色の目。どれも実際に他人から言われた例えだ。かなり腹が立ったけれど否定はできない、割と的確な表現だと思っている。しかも感情が表情に出にくいので、愛想がないと言われることも多々ある。
そんな華やかさのかけらもないカリンが、青薔薇と例えられるロベルトに目をつけられる理由があるとすれば、立場の弱い平民で、目立たなくて、後腐れもなさそうだと思われたからだろう。もしくはさらしで押さえつけている、大きいばかりの胸が目的か。
明日からはもう少しきつく巻こう。この胸のせいで嫌な思いをしたことはあっても、いい思いをしたことなど一度もない。
(まぁ、もう話しかけてはこないでしょう。ああいう貴族の人たちは自尊心が強いから……逆恨みされないといいけど)
しかしカリンの予想を裏切って、ロベルトは次の日もまた、カリンの目の前に現れたのだった。
*
「やあ、カリン嬢。良い午後だね」
驚くべきか呆れるべきか悩むカリンに向かって、ひょいと片手を上げて気軽に話しかけてくる。
業務上必要な時以外は話しかけるなと昨日言ったばかりなのに、忘れているのだろうか。もしくは、聞こえていなかったのか。少なくとも、逆恨みしている様子ではない。
「……」
無視したかったが、相手の身分や役職を考えるとそうもできない。カリンはロベルトに軽く会釈し、その場を通り過ぎようとした。
「待ってくれ! 昨日はすまなかった! 君に対して非常に失礼なことを言った!」
「わたしに謝罪など結構です」
通り過ぎようとするカリンの背に向けて、謝罪の言葉がかけられる。貴族が平民に向かって謝るとは珍しい。結構ですと言いながらも思わず、カリンの足が止まった。
「今日は業務上の用事があって来たんだ。だから……」
どうやら昨日の話をきちんと覚えていたし、聞こえてもいたらしい。逆を言えば、業務上の理由があれば話しかけてもいいと言ったようなものだった。
下手をしたなとやや後悔しながら、仕方なくカリンはロベルトに向き直った。
「……何でしょうか」
きちんと足を止めて顔を合わせる。ロベルトはあからさまにホッとした表情をして、カリンを見ていた。




