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「あっるぇぇ? 閉まってんじゃん」
「ンだよしけてんなあ」
店の前で悪態をつく酔っ払いの声を背に、私は従業員専用の出入り口から職場を後にした。時刻は0時40分。閉店時間はとうに過ぎている。営業時間は店頭に明記してあるし、閉店後に締め作業と戸締りまで済ませたのだから、文句を言われる筋合いはない。
尤も彼らを一概に責められない事情もある。今年に入って政府が掲げ始めた『働き方改革』というスローガンに関連しているのかどうかはわからないが、私の職場は今年の夏頃から営業時間を短縮し、閉店時間を早めた。元々は毎日深夜2時まで営業していた。早めても0時なのだ。こんな田舎町で深夜まで営業している飲食店は一部のチェーン店か飲み屋ぐらいなものである。私の勤めるラーメン店はその『一部のチェーン店』に含まれる。
つまり、以前の営業時間なら今はまだ店が開いていたわけだ。とはいえ仕事が終われば客は単なる他人だし、わざわざ説明する義理も気力もない。ごくまれに営業時間を過ぎても居座る客がいるが、そういう輩は迷惑なので本当に死んでほしい。こっちは一秒でも早く休みたいのだ。
いそいそと車に乗り込みエンジンをかけた私は、ペダルに足をかける前にスマートフォンを手に取った。LINEはメッセージを受信した際に通知の欄にトークの内容が表示されるため、LINEのアプリを開いて既読を付けずとも誰が何と送ってきたのか知ることができる。休憩時間前に鳴った通知音は、新しくともだちリストに追加されたアカウントがあること、そしてその相手から、
『LINEを教えていただきありがとうございます。サカナです』
というメッセージが届いたことを知らせるものだった。文末には青い魚の絵文字が添えられていた。
相手の名前は『さゆり』と表示されている。別に何を期待していたわけでもないが、相手が同年代の女性ではないかという予想が当たっていて、私は少し安堵した。しかし、彼女の名前を見て、私もLINEのアカウントを本名で登録していたことに今更気付いた。職場のグループトーク以外にほぼ使っていないので、今まで気にする必要もなかったのだ。本名を知られて困ることも今のところはないはずだが、今後は一応留意しておくべきだろう。
それはさておき、問題は何と返事を送るべきかである。
私はおそらく他人との距離感を掴むのが得意ではない。おそらく、という副詞を用いたのは、そもそも私が自分から他人との距離を詰めることがなく、それ故に大きな失敗をしたこともないからである。接近する必要がなければ距離感はどうでもいい。だが、例えば佐々木などが私よりずっと早く、あっという間に佐藤さん達バイトの学生たちと打ち解けているのを見ると、私はやはりそれが苦手なのだと思い知らされる。さらに言えば、私は今まで女性とLINEを含む個人的なメッセージのやり取りをしたことがない。
サイト内でメッセージの交換をしているうちは、私は遠田永久だったし、彼女はサカナだった。作者、読者と立場が明確化されていた。だが少なくともお互いLINEのアカウント名は遠田でもサカナでもない。もちろんLINEをしたからといって直ちに関係性が変わると思っているわけではないが――。
ただ、彼女のメッセージにはサカナですと書いてあるのだし、やはり私もこれまで通り遠田として接するべきか。いや、今回は絵文字がある。『小説を書こう!』のメッセージはテキストのみで絵文字等の機能がなく、使えてもせいぜい顔文字程度のものだった。が、LINEには絵文字やスタンプ、画像や動画と幅広いコミュニケーション手段が用意されている。音声通話やビデオ通話をする機能まであるのだ。もしかしたら今までだって、彼女は文面から受ける印象よりずっとフランクなトーンで接してくれていたのかもしれない。だとしたら、これまでと全く同じ文体で返信すると冷たい印象を与えてしまわないだろうか。そう、この文末の魚の絵文字は、もっと砕けた感じで話そうという彼女からの意思表示である可能性も否定できない。こちらも絵文字で返すべきなのか。絵文字もスタンプも、私は一度も使ったことがないのだが……。
休憩の一時間の間、私は通知のポップアップを眺めながら、どうしたものかと思案していた。既読にはしていない。返答も考えずに既読をつけ、既読無視と思われてしまうのは万が一にも避けたかったからだ。気付けばまかないのラーメンはすっかり伸び切っていた。
一時間かけても返答を決めあぐねた私は、結局既読もつけないまま再び仕事へと戻った。
文章を書くのがこれほど難しく感じられたことは未だかつてない。小説なら、どんなに筆が進まない時でも一時間に一行ぐらいは書けるものである。ラーメンを茹で、接客を行っている最中も、私の頭の中は彼女にどう返信するかでいっぱいだった。
仕事そのものはもう慣れているため、上の空状態の無意識でもミスは滅多にない。仕事中は小説の構想を練っていることが多い。店長やバイトの子には『めっちゃ仕事に集中してる』と評価されるが、実態はその逆である。客の顔などいちいち見ていないので、さっき来た客可愛かったですよね、などと言われても全く記憶に残っておらず、返答に窮してしまう。せいぜい覚えているのは二度と見たくないクソ客の顔ぐらい。忘れたいものほどはっきり記憶してしまう、人間の不思議な性である。
しかし、営業時間が終わり日付が変わっても、私は未だ彼女への返答の内容を決めあぐねていた。家に帰ってから腰を据えてじっくり考えよう、とシフトレバーに手をかけてから、私は気付いてしまった。LINEはメッセージを受信すると通知音が鳴る。そして時刻は0時45分を過ぎたところ。今から帰宅してシャワーを浴びたら、どんなに急いでも1時半は超えてしまうだろう。いかに今年の冬が暖冬といっても、真冬の道路をかっ飛ばすのは危険を伴う。
夜中まで毎日のように働いていると感覚が麻痺してくるが、1時半といえば大抵の人が寝ている時間帯である。今夜は金曜の夜、明日が休日ならば夜更かししている人もいるかもしれないが、現に私がそうであるように、土日も仕事という人も少なくないだろう。私の職場は正午開店なので準備等を含めても10時ぐらいまでに家を出ればいいが、世間一般の職業の出社時間はもう少し早い。あまり夜遅くに返信して、休んでいる最中に通知音を鳴らしてしまっては迷惑なのではないか。或いは、私と同年代ならば大学生の可能性もある。大学生は基本的に夜型の人種と聞くが、彼女はどうだろう。
いや、相手の生活パターンがわからない以上、やはりとんでもない深夜に送るのは極力控えておくべきかもしれない。では明日の朝にするか? 朝は私の頭が回っていない。私は基本的に夜型人間なのだ。仕事の休み時間は気分が落ち着かない。となると、今夜のうちに返信しておいたほうがいいという結論に行きつく。タイミングは今ならまだギリギリセーフか?
私はポケットからスマートフォンを取り出し、まずサカナ――『さゆり』とのトーク画面を開き、メッセージに既読をつけた。さて何と入力すべきか。まさか彼女がこのトーク画面をずっと監視しているわけはないと思うが、既読をつけたらなるべく早く返信するべきだろう。最初の一言だから、とりあえず無難に返したほうがいいか。私はまず、
『こちらこそありがとうございます。遠田永久です。』
と入力した。まだ送信はしていない。問題は、文末に絵文字を入れるべきかどうかである。
職場のグループトークでは学生たちが時折絵文字やスタンプを使っているが、正社員の立場として見れば軽い印象は否めない。まあ彼らはアルバイトなので、店長もいちいちそんなところに目くじらを立てたりはしないし、私もいちいち気にはしない。しかし、例えば小説の一文の中に絵文字を見つけたら、それは日本語に対する冒涜だと感じてしまうだろう。つまり絵文字はあまり好きではない。
ただ、職場のグループトークという場面で目にするから軽く感じられるのであって、通常の個人間のコミュニケーションでは、むしろそれが普通なのかもしれない。この辺りの塩梅が私にはわからないのだ。
そもそも、絵文字とはどれぐらい種類があるものなのだろうか。そういう視点からバイトたちのLINEを観察したことはないが、グループトークで目にしただけでもかなり色々な種類があったような気がする。彼女はサカナだから魚の絵文字を使ったのであって、私が同じ絵文字で返すのはおかしい。ここはやはり、こちらも何か自分に関連した絵文字を付けて返すべきなのだろうか。
私は文字の入力画面から記号、絵文字の欄を初めてタップした。
そこには予想以上に数多くの絵文字が用意されていた。項目だけでも、『人と表情』、『自然と動物』、『食べ物と飲み物』などなど、挙げきれないほどの種類がある。ざっと一通り調べてみると、彼女が使った魚の絵文字は『食べ物と飲み物』ではなく『自然と動物』の項目の中にあった。
では私は何を使うべきだろう。『人と表情』は……私はよく仏頂面と言われるので似合わないだろう。『自然と動物』は、私自身が極端なインドア派なうえ動物を飼ったこともないのでダメだ。『旅行と場所』、『遊び』も同様。『記号』と『旗』にもめぼしいものはなかった。『物と道具』の中には本を示す絵文字がいくつかあったが、読書家だから本というのも、選択肢の一つではあるが些か安直すぎるかもしれない。残る項目は一つ。私は『食べ物と飲み物』の項目をタップした。
真っ先に目に留まったのは、ラーメンの絵文字である。ラーメン関連では他にもなるとを示す絵文字があったが、私の職場ではなるとを取り扱っていない。それ以外では、わが県の名産である林檎の絵文字ぐらいか。しかし名産だから林檎というのも芸がない気がする。
候補は本かラーメンの二つに絞られたが、私はここではたと気が付いた。それは本の絵文字が横書きの本であることだ。Web小説はHTMLやブラウザの都合上基本的に横書きになっているが、書籍化された小説は原則的に縦書き。つまり、この絵文字の本は小説ではないことになる。
そうなると、残る選択肢は一つしかない。私はサカナへの返信の文末に、ラーメンの絵文字を添えた。