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 仕事帰りの電車の中で遠田さんから届いたメッセージを開いた私は、LINEか……と思わず頭を抱えた。しかも、どうやらこれは私が自ら蒔いた種らしいのだ。


 昨夜は職場の同僚たちとの忘年会だった。忘年会といっても、仲の良い同僚二人と、年末だしちょっとした贅沢をしようと、フレンチの店を予約してささやかなパーティを開いただけだ。

 年末近くなると絶対予約取れなくなるからと少し早めの十二月中旬の頭にし、同様の理由で週末も避けて、木曜の夜に予約を入れた。

 食べログの評価を見ながら三人で相談して店を選んだのだが、料理の味は噂に違わぬおいしさ。一人前1万を超えるコースだったが、充分に元は取れたと思う。

 せっかくの機会だからと、少し値の張るワインも注文した。お酒はあまり飲まないしワインも詳しくないけれど、口当たりが何となくまろやかな感じで、酔いの回りもゆっくりだったため、下戸の私でもさらさらとグラス二杯分飲めてしまった。女同士、気の置けない同僚たちと一緒だし、多少羽目を外しても、という思いもあったかもしれない。

 食事を終えて席を立ったときは少し足元がフラついたが、友人たちがケロリとしていたせいか、さほど酔っている感覚はなかった。頭がぼうっとし始めたのは、彼女達と別れて電車に乗り、運よく座席に着いてからのことだ。

 そこから先の記憶は曖昧だが、気付いたら自宅マンションの前にいたので、酔っ払いでも何とか無事に帰ってこられたようだ。最寄り駅から自宅マンションまで徒歩で2,3分の近さだったことも幸いしたかもしれない。外でこんなに酔ったのは初めての経験で、もし財布でも盗まれていたらと思うとゾッとする。幸い今回は何のアクシデントもなかったけれど、今後は気を付けなければ。


 部屋では夫が鬼の形相で待ち構えていた。

 私の帰りが遅かったことに腹を立てたようだ。酔いは一瞬で醒めた。同僚たちとの忘年会の件は事前に伝えておいたはずなのだが、昨夜は虫の居所が悪かったらしい。そして次の瞬間、腹部に鈍い衝撃を受け、ディナーに食べたものの味と臭いが酸味と共にこみ上げてきた。

 それはそれとして。


 今最大の問題は、遠田永久さんからのメッセージだ。

 今日彼から届いたメッセージには、彼のLINEのIDが載せてある。唐突に送ってきたわけではない。メッセージの履歴を見ると、LINEをしようと言い出したのは私の方。送信日時は忘年会を終えてちょうど電車に乗ったぐらいの時間だった。つまり、一番記憶が曖昧な時間帯である。おそらく席に着いてすぐ、習慣でスマホを手に取って『小説を書こう!』のページを開き、ふわふわした頭で返信を送ってしまったのだろう。誤字脱字がなかったのが不思議なぐらいだ。

 それにしても、ネットの知り合いにLINEをしたいと自分から言い出すなんて……。いくら酔っていたとはいえ、大胆すぎやしないか、私。三十年余りの人生の中で、見ず知らずの男性に自分から声をかけたことなど一度もない。少し気になる人がいても、遠目から眺めるか、向こうから声をかけてくるのを待つ人生だった。連絡先の交換なんて自分からは絶対言い出せない。夫と付き合い始めたのも、彼からの猛烈なアプローチがきっかけである。


 たしかに遠田さんとのメッセージのやりとりは楽しい。当初はそんなつもりではなかったが、だんだん楽しくなってきた。見ず知らずの相手といっても、文面からある程度人柄は伝わってくる。純文学系の作品を書いているだけあって、遠田さんは一つ一つの言葉使いが丁寧で落ち着いていて、それは夫にはない魅力だった。遥か昔、高校生のときに初めて付き合った年上の彼氏のような穏やかさが、遠田さんのメッセージの文面から滲み出ている。

 遠田さんも周りに本の話ができる友人がいないらしく、お互いに好きな作家、好きな本の好きなところを伝え合う、それだけで無限に会話が続けられるような気がした。特に彼が興味を持ったのは、やはり諸星亘に関する話題だった。一日一、二通程度のメッセージの交換ではあるけれど、リアルタイムで話ができるツールだったら、もっと話が弾んでいたと思う。例えばLINEのような……。


 そう、LINEだ。

 『小説を書こう!』のメッセージ機能にもどかしさを覚え始めていたのは確かだが、サイト上でメッセージを交換することで、作者と読者という関係と適切な距離を保っていられたのも事実。サイトを離れLINEで繋がると、それはもう個人と個人の関係になってしまう気がする。

 ネット上には性別不詳な人物が多いけれど、創作界隈は特にその傾向が強いように感じる。男のようなペンネームを使う女性作家は多いし、女性的なペンネームを使う男性作家も一定数いるはずだ。どちらともつかない中性的なペンネームもよく見かける。女性だと思っていたら男性作家だった、男性だと思っていたら女性作家だった、という現象はプロの作家でもさほど珍しくはない。女性作家の場合は特に出会い目的のユーザーを遠ざける意図もあるかもしれない。

 だが、遠田さんと何通かメッセージを交換する中で、彼はおそらくペンネームの通り男性だと確信を持っていた。一人称こそ『私』で通していたが、感性や文章の硬さが明らかに男性のそれのように感じられたからだ。

 そして、私には夫がいる。私がまだ独身だったら何も問題はないのだろうが、私は既婚者なのだ。見ず知らずの男性と個人的なLINEをするという行為は、倫理的に問題がある。最近では不倫をした芸能人が、毎日魔女裁判のように晒し上げられている。私が子供の頃はメディアに対して堂々と『不倫は文化』と言い放った俳優がいたが、世間の風潮は確実に変化しているのだ。

 それに、他の男性とLINEをしていると夫に知られてしまったら、今度こそ痣の一つや二つでは済まないかもしれない。


 でも。

 私は再度スマートフォンの画面を見つめる。酔っていたとはいえ、LINEをしたいと言い出したのは私の方なのだ。今更やっぱりやめたいと伝えたら、遠田さんはからかわれたと感じるかもしれないし、今までと同じようにメッセージを返してはくれなくなるはずだ。

 あるいは、夫がいること、自分が既婚者であることを伝えれば、これらの問題は多少緩和されるかもしれない。でも、聞かれたわけでもないのに自分から既婚者とか言い出すのは不自然ではないだろうか。ただLINEを交換しただけで予防線を張るようなことを言ったら、自意識過剰な女だと思われてしまう可能性もある。できればそれは避けたかった。それとなく伝える――そんな器用なことは私にはできない。


 今はまだサイト上のメッセージだけの関係なのだから、ここですっぱり連絡を断ってしまえれば、何の問題もなかったのかもしれない。もしメッセージがしつこく送られてきたとしても、相手のアカウントをブロックしてしまえば完全にシャットアウトできる。『小説を書こう!』のプロフィールには私の個人情報は一切載せていないし、今なら何のリスクもない。本来ならそうするべきなのだろう。


 一番の問題は、私自身が遠田さんとの関係を切りたくないと思っていることだ。

 そして、諸々の事情を抜きにして、純粋に彼とLINEをしてみたいか否かと問われたら、私は迷わず、してみたい、と答える。でも私は既婚者だ。たとえ夫に対する愛情が日に日に薄れているとしても――。


 でも。

 夫との会話の中でこの言葉を使うと、彼は露骨に嫌な顔をする。結論が定まらない会話を、夫は何より嫌うのだ。たしかに仕事など公の場ではあまり選ぶべき言葉ではないかもしれないけれど、普段の日常会話でもきちんと筋道立てた話をしなければならないのだろうか。交際中や結婚して間もない頃は、それでもちゃんと会話が成立していたのに。


 気付けば私は、メッセージに書かれた遠田さんのアカウントのIDを、自分のLINEの友だちリストに登録していた。登録だけして何も送らないというのも変な感じがするし、LINEをしたいと言い出したのはこちらなのだから、まず私から最初の一言を送るべきか。

 友だちリストに新しく追加されたアカウントの名前は『Kazuyuki I』だった。LINEは今や職場や友人との連絡ツールとして欠かせないものになっているので、アカウント名を本名にしている人は多い。おそらく、遠田さんもこれが本名なのだろう。かく言う私も、ネットを通じて知り合った人とLINEをする機会が今までなかったので、アカウントでは本名の下の名前を晒している。その点をすっかり失念していたけれど、遠田さんが本名を隠していないのにこちらが隠すのは何となくフェアではないような気がして、このままでいくことにした。


 さて、最初の一言をどう送るべきか。いくらLINEのお友達になったとはいえ、いきなり馴れ馴れしくなったと受け取られるのは避けたい。しかしあまりにかしこまった感じもどうかと思う。絵文字とか使えば少しくだけた印象になるだろうか。

 拙いタッチタイピングで入力したり消したりを小一時間繰り返した挙げ句、私が送信したのはシンプルで短い一言。文末には魚の絵文字を添えてみた。


「LINEを教えていただきありがとうございます。サカナです」

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