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 仕事を終えて帰宅し、自分の部屋に戻った私は、急激な疲労に襲われて文字通り膝から崩れ落ちた。


 師走の中旬。年の瀬が近付き、恐るべき忘年会シーズンに足を踏み入れつつある。

 佐々木と悪態をつき合った後にぞろぞろと襲来したのが、まさに忘年会帰りの団体客だった。総勢七名もの酔っ払い。飲食店には様々な客がやって来るが、酔っ払いほど厄介なものはない。年末年始が地獄になるのは、単に客の数が増えるという理由だけでなく、酔っ払いの比率が大幅に上がることも一因に挙げられる。

 お客様は神様という言葉を本気で信奉している飲食店員はまさか居るまいが、正体をなくした酔っ払いは最早人間ですらなく、害獣か妖怪の域である。そもそも客を有り難がるのは店の経営者だけだが、酔っ払いが集団で来店するとそれだけで萎えてくるのだ。


 酔っ払いが迷惑な理由を挙げだすとキリがないが、まず注文段階でのトラブルが起きやすい。注文が決まるまでに時間がかかるだけならまだいい方だ。意識が定まらず記憶が混濁しているので、自分が注文したメニューを覚えていないし、注文していないものが届かないなどと宣うことも珍しくない。炊き出しのボランティアじゃあるまいし、注文されてもいないものを求められても困る。

 さらに、酔っ払いは高確率でテーブルを汚す。酔っ払いの集団が帰った後のテーブルは、何をどう食べたらこんなに汚せるのか疑問を抱かざるを得ないような惨状を呈していることが多い。食べ残し、飲み残しが多い点も特徴の一つだ。特にビールの飲み残しの多さは顕著で、酷いケースでは注文したものの半分も飲んでいなかったりする。わざわざ注文したものを何故こんなに残して帰るのか、飲酒の習慣がない私には全く理解できない行動である。

 そして、田舎は車社会なので、飲食後のタクシーや運転代行の手配が必要になることが多いのだが、これがまた面倒だ。今日日(きょうび)スマホも携帯電話も持っていない人はさほど居るまいし、自分で電話してくれてもいいのだが、そんな客は極めて稀で、大抵はこちらに手配を求めてくる。

 私の職場は基本的に二人シフトで回しているので、一人がタクシーや代行の電話に取られてしまうと、単純に人手が半減する。しかも、忘年会シーズンともなればタクシーも代行もなかなかつかまらない。デブの酔っ払いはさらにラーメン以外にもチャーハン等のサイドメニューを大量に注文することが多い。そうして手間取っている間に次の団体客が押し寄せるのだ。


 思い出したらまた余計に疲れが押し寄せて来た。今日は一文字も書けないかもしれないな、と思いつつ、私は習慣としてノートパソコンの電源を入れた。

 とりあえずワープロソフトを起動し、キーボードに指を置いてはみたが、やはり執筆する気が起きない。頭がぼうっとして、一言も言葉が浮かんでこないのだ。年末年始の無間地獄と比べれば今日の混み具合はまだマイルドな方だと言えるが、やはり泥酔した客の相手は心身共に堪える。

 だが――私は淡い期待と共にブラウザを立ち上げ、『小説を書こう!』のマイページを開いた。


『新着メッセージが1件あります』


 以前は珍しかったその表記に、私の心は躍り、その一瞬で疲れが吹っ飛んだような気さえした。運営からの警告ではない。出版社からのオファーでもなく、おそらく感想通知ですらないそのメッセージを、私は光の速さでクリックした。

 ブラウザの読み込み時間の数秒すら待ち遠しい。

 メッセージの差出人は、あのサカナというユーザーだった。


 『福笑い』に感想を貰ってから数日。彼女とのメッセージの交換は未だに続いている。最初は諸星亘の作品に関するものだったが、そこから話題は他の好きな作家、文学作品へと広がった。

 彼女が読むのはやはり女性作家の作品が多いが、一般的に文豪と呼ばれる作家の作品や一時代前の作品にもある程度通じているようだ。身の周りに本の話ができる相手がいない私にとって、サカナとの対話はとても有意義なものだった。


 この街に書店と呼べる店は一つしかない。それも規模は小さく、その狭い店舗スペースの半分ほどは文房具に占められている。市内のイオンのテナントに入っている書店の方が、新品、中古合わせて取り扱っている書籍の数は多いかもしれない。その店に不満があるわけではないが、イオンのテナントが市内で最大の書店という状況はあまりにも寂しい。

 それでも私が子供の頃には市内にいくつか書店があったのだが、数年の間に次々と廃業してしまった。ネット通販の発達によって都会でも大規模な書店の閉鎖が相次いでいるらしいが、こんな田舎ではそもそも本を読む習慣を持つ人間を探すことすら難しい。そういえば市内には映画館も存在しない。市の中心部には一応現代美術館があり、メインストリートの周辺に奇怪なオブジェも並んでいるが、それを以って現状の市の文化レベルを誇ることはできないだろう。


 閑話休題、サカナからのメッセージである。

 今回はどんな話題だろうか。胸を弾ませながらメッセージを開き、その本文を読んで、思わず画面を二度見してしまった。


『このサイトのメッセージ、なんか使いにくいですよね。LINEとかで話しませんか?』


 ……LINE?

 マジで?

 私は我が目を疑った。たしかに『小説を書こう!』のメッセージ機能は極めて簡素で、使い勝手も決して良いとは言えない。サイトを開かなければ連絡が取れない点も、SNSが発達した現代の連絡手段としては不便である。

 しかし、だからといって、いきなりLINEで繋がろうとしてくるだろうか。これだけ毎日のようにメッセージを送り合っていれば、いきなりというわけでもないのか?

 困惑と同時に、また別の可能性が頭をよぎる。すなわち、出会い系等の業者や、詐欺、アカウントの乗っ取りなど悪意あるものの可能性である。例えば、喜び勇んでLINEを交換し、メッセージに誘導されてリンク先をタップすると、スマートフォンがハックされ――といったような、フィッシング詐欺やアカウントの乗っ取りによる被害はここ最近急増しているらしい。

 だが、と私は再び考え直す。相手に明確な目的があるのなら、こうしてメッセージの交換に何日も費やしたりせず、より速やかにLINEに誘導しようとするのではないか。向こうが業者なら暇ではない。なるべく効率よくターゲットを集めようとするはずだ。私一人を騙すために、わざわざ諸星亘や文学の情報を集めたりはしないだろう。サカナは諸星のかなり初期の作品についても知っている。私が諸星の名を出したからといって、多少調べたぐらいでここまで詳しい知識を得ることはできないはずだ。


 それに、そもそもサカナは自分の素性を全く明かしていない。文面から私が勝手に同年代の女性だと推測しているだけで、実際は中年のオヤジかもしれないし、年金暮らしの老人かもしれない。手っ取り早く私を釣りだければ、自分が若い女性であることをもっとアピールしてくるはずである。

 ということは、信じてもいいのだろうか。


 私はスマホを手に取り、LINEのアプリを起動した。


 親しい友人を持たない私にとって、LINEは仕事の連絡のためのツールでしかない。用途は店長やバイトとグループトークで連絡をとる、それだけ。一応佐々木とも連絡先を交換しているが、LINEを送ってきたことはまずないし、こちらから送る用事もない。佐々木が店に来ている時は奴のスマホからLINEの通知音が頻繁に聞こえるので、佐々木はかなりLINEを活用しているようだが、店に来れば大体いつでも直接会って話せる私に対してLINEを送る必要もないのだろう。佐々木が店に来て話す内容も、わざわざ連絡をとって話すまでもない至極どうでもいい話ばかりだ。

 ちなみに私の両親も一応スマホを持ってはいるが、電話としての機能以外はほとんど利用していないようだ。まあ私も業務連絡のLINE以外は暇つぶしに無課金でソシャゲをする程度なので、あまり偉そうなことは言えないが。


 サカナに自分のLINEのアカウントを伝える決心がついたところで、一つ問題が発生した。

 LINEの自分の連絡先を、見ず知らずの他人に教えるにはどうしたらよいかわからなかったのだ。

 佐々木の場合は電話帳から自動で同期された。職場関係はQRコードを使って登録した。しかし、電話番号を知らず、会ったこともない相手とLINEをするには……?

 せめて『小説を書こう!』のメッセージに画像を添付する機能があればQRコードを貼り付けることができたかもしれないが、あいにくそんな便利な機能はない。サカナは何かいい方法を知っているはずだが、彼女に尋ねるのはなんとなく恥ずかしかった。


 こんなときに役に立つのがインターネットである。

 私の親の世代では数十万もする百科事典を買っても手に入れられなかった膨大な量の情報が、今ではブラウザに数文字打ち込むだけで無料で得られるのだから便利なものだ。また、電化製品やアプリケーションのマニュアルは得てしてわかりづらいものだが、ネットで検索すればそれをよりわかりやすく噛み砕いて紹介しているページを見つけられる。

 私はブラウザに素早く『LINE アカウント』と入力し、目当ての情報を検索した。どうやら自分のIDを直接伝えれば、直接の接点がない相手ともLINEができるらしい。アカウントを作った時に自分でIDを設定したはずなのだが、普段目にする機会は全くないので、IDなんかすっかり忘れていた。

 私は手順が丁寧に解説されたサイトを見ながら自分のIDを確認し、サカナ宛ての返信のメッセージに打ち込んだ。

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