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 令和三年の正月を、私は数年ぶりに都内の自分の実家で迎えた。


 夫の不倫が発覚したのは、去年の十一月のことだった。きっかけは幸絵ちゃんからの情報。十月の中旬頃、彼女がためらいがちに、夫によく似た人物と若い女が腕を組んでホテルに入るところを見た、と話してくれたのだ。その日はたしかに夫の帰りが遅い日だった。とはいえ、幸絵ちゃんは夫とは一度会っただけだし、他人の空似という可能性も大いにある。まさかとは思いつつも、その後は夫の言動に注意を払うようになった。

 夫のスーツに女ものの香水の匂いがついていることは以前から時々あったけれど、それは接待のためにその種の店に行ったからだ、と説明されていた。どこか腑に落ちないものを感じつつも、そういう付き合いも営業の仕事なのかと理解しようと努めていたのだが――。幸絵ちゃんからそんな話を聞かされると、にわかに不信感が首をもたげてくる。


 事態が急展開したのは十一月に入ってから。夫によく似た人物をまた見かけたという幸絵ちゃんが、今度はその姿をスマートフォンのカメラに収めていたのだ。

 そこに写っていたのは間違いなく夫だった。画像の中の夫は、スーツ姿の若い女と楽しそうに腕を組んでいる。私にはもう何年も見せていない表情だ。画像を見た瞬間、夫に対するあらゆる感情が一気に冷めてゆくのを自覚した。


 一般的に男の浮気はバレやすいと言われているのに、気付けなかった自分が悔しい。今にして思えば怪しい言動はいくつかあったのだが、私に対してこんな酷い仕打ちをしておきながら他の女には甘い声で囁いているなんて考えたくもなかったし、心の底ではまだ彼のことを信じていたのだと思う。だからこそ、落胆を通り越してただただ虚しかった。

 夫に面と向かって浮気してるでしょ、などと言っても素直に認めるわけがない。直ちに問い詰めたりはせず、私はもう少し証拠を集めることにした。身の回りにはさすがに気を付けているのか、髪の毛や口紅などの決定的な物証は見当たらなかった。

 しかし、スマートフォンの中は全くと言っていいほどノーガードだった。今時のスマートフォンなので当然ロックはかかっているのだが、幸い、生体認証でもパターンでもなく四桁の暗証番号を入力する設定。暗証番号があるからと油断していたのだろうか。仕事上の機密事項もあるからスマホは絶対に見るなと言われ、私がその言いつけを律義に守っていたせいもあるかもしれない。

 深夜、夫が眠った隙を見計らって、ダメ元で手当たり次第に数字を入力してみたところ、意外にも二日目でロックを解除することができた。暗証番号に設定されていた数字は『0105』。これは私や夫の誕生日でも結婚記念日でもなく、不倫相手の誕生日であることが後に判明する。

 不倫相手は職場の直属の部下らしかった。写真で見る限りでは、小悪魔っぽいというのか、私とは違うタイプの気が強そうな女。男好きのする顔立ちで、この女と『残業』をしていたのかと思うと怒りで(はらわた)が煮えくり返るようだ。

 スマートフォンの中には、夫と若い女のLINEの会話や、思わず目を覆いたくなるような画像など、ありとあらゆる不倫の証拠が残っていた。だが、呆れはしたものの、不思議と怒りは湧いてこなかった。夫への愛情が完全に消え失せているからだろうか。それに、私にも遠田さんとの関係があったので、夫を一方的に責める資格はないと感じていた。


 数日後、私は彼の不倫の証拠と共に、夫に離婚話を切り出した。

 青痣の一つや二つでは済まないだろうと覚悟していたけれど、夫は手を上げるどころか、意外にも怒り出さなかった。不倫の事実も認めた。そして、離婚は思いとどまってくれと、涙を流し、床に額を擦り付けるようにして懇願したのだ。

 色々な思い出が甦ってくる。夫婦として何年も一緒に過ごしてきて、ひどい暴力も振るわれたけれど、最初の数年は幸せだった。もちろん情も湧く。声を枯らして謝り続ける彼の姿を哀れだとは思ったが、それでも決心は変わらなかった。私は、二人で暮らしたマンションを出て、実家に帰って来た。


 結局夫は離婚には応じず、現在離婚調停中。私たちには子供がいない。不倫とDVだから慰謝料を請求することもできたが、一刻も早く縁を切りたかったのでやめた。だから、あとは夫の気持ちの問題だけ。きっと時間が解決してくれるだろう。

 表向きには優しい夫を演じていた彼が、不倫だけならまだしも日常的にDVを行っていたと知って、私の両親は驚愕していた。まさかあの人に限って、と。しかし実家で生活するようになってからは、私をまるで子供の頃のように労わってくれた。職場から遠くなったので通勤は少し不便になったものの、暴力に怯えることなく暮らせることがこんなに幸せだったのか、と改めて実感する。一日三食、おいしい食事がたくさん用意されているので、ちょっとスカートがきつくなってきたのが最近の悩みだ。


 このところ、ふとした時によく遠田さんのことを考える。

 あの日以来、彼とは全く連絡をとっていない。遠田さんからも、LINEも通話も届いていない。告白して断られたのだから当然だと思う。しかも実は相手が人妻だったという衝撃の事実と共に。すべては私の罪だ。こうなることを薄々予期していながら、自分が既婚者であることをずっと隠していたのだから。

 でも。

 実際に遠田さんに会ってみて、十歳も年下とは思えないほど穏やかな人柄に惹かれたのは事実だった。こんな人が恋人だったらとも思った。だから、別れ際に感情が昂ってしまい、衝動的にマスクを外していたのだ。大勢の人の目がある中であんな行為に走ってしまうなんて、誰よりも私自身が驚いた。でも、もし私が独身だったら、迷うことなくあの場で遠田さんの告白を受け入れていたと思う。

 そう、もし独身だったら。あるいは、遠田さんが会いに来るよりもう少しだけ早く夫の不倫を知っていたら。時計の針を巻き戻すことはできない。たらればは禁物。それでも、あとほんの少しすべての歯車が嚙み合っていたら、と考えるのはいけないことだろうか。そして、私が既婚者であることは過去形になりつつあるけれど、遠田さんへの想いは、まだ過去形ではない。


 このコロナ禍が完全に収束したら、私は青森に行ってみようと思っている。目的はもちろん遠田さんに会うこと。その頃にはきっと、離婚調停も済んで、私は淋しいバツイチの三十路女になっているはず。

 彼は私に会ってくれるだろうか。若い男の子は移り気だから、もしかしたらもう私に対する興味を失ってしまっているかもしれない。それでも私は会いに行くつもりだ。あの日伝えきれなかった想いを伝えるために。

 そして、彼が書くであろう新しい小説に、誰よりも早く、誰よりも近くで、心からの感想を届けるために。

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