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紅茶を飲み終えて美術館を出たとき、時刻は既に午後五時半を過ぎていた。美術館の館内に入ったのは三時過ぎなので、たっぷり二時間以上は鑑賞できた計算になる。
絵画や彫刻を見ながら感想を述べあうことは、小説について語るのとはまた違った意味で有意義だったし、互いに理解を深められた。小説に関して私には自分なりにこだわりがあるが、それ以外の芸術作品は何もわからない。だからこそ、フラットな視点で話すことができたと思う。
新幹線の切符は六時二十分東京駅発の指定席をとっていたが、上野駅からでも新幹線に乗れるのにこれから東京駅に戻るのは二度手間ではないか、とのサカナの意見を容れて、上野駅で切符を買い直すことにした。やや強まり始めた雨の中、美術館から駅までの短い道のりを、また一つだけの傘を差して歩く。美術館に向かっていたときよりもさらに、彼女との距離は狭まっていた。これぐらいの至近距離なら濃厚接触にあたるのだろうか。
サカナが言った。
「台風、今日直撃しなくてよかったですね」
現在日本列島には台風14号が接近しており、明日には関東も大荒れの天気になると予想されている。つまり今日がギリギリのタイミングだったのだ。
「ほんとに、最近ずっと毎日ヒヤヒヤしながら天気予報見てました」
「私もですよ~。お互いに都合が合うタイミングなんて、次はいつになるか。コロナもどうなるかわからないですからね」
「そうですね。まあ青森は僻地の田舎だからそんなに人数は出ないでしょうけど、東京で流行ったら大変だ」
「このまま完全に収束してほしいですけど、どうかなぁ……」
そんな話をしながら、私は数日前に佐々木に言われた言葉を思い出していた。
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「いいか和幸、可愛くて性格もいい子は絶対競争率が高い。だから、会ってみていい感じだと思ったら、絶対ちゃんとコクってこいよ」
「コク……って、初対面だぞ」
「たしかに会うのは初対面かもしんないけど、もう半年以上もLINEとか、通話もしてるんだべ?」
「まあ、そうだけど」
「それで二人きりで会うことオッケーしてくれたんなら、そりゃもう初対面じゃないって。世の中こんな状態だし、お前も相手も仕事があるんなら、次会えるのがいつになるかわかんねーだろ。返事を急かすのはいかんと思うけど、お前の気持ちは伝えといた方がいい」
「っつってもな……」
「好きなんだべ? その子のこと。お前がそうやってグダグダ言っとるうちに、相手に彼氏ができたらどうよ? 絶対後悔すんだろーが」
「……それは……」
「んだべ? 別に、上手くやろうと思わんでいいから、お前なりに正直に気持ちを伝えてこい。思い残すことがないようにな」
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「遠田さん? どうしました?」
サカナが私の顔を覗き込んでいる。考え事に熱中するあまり周りが全く見えなくなっていたらしい。気付けば上野駅の公園口のピロティの下まで戻ってきていた。なのに私が傘を差したままだから、心配して声をかけてくれた、という状況のようだ。
「どこか、体調でもお悪いですか?」
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけで」
私は傘をたたんで彼女に手渡しながら答えた。
「そう? よかった。みどりの窓口は、たしか一階だったはず。新幹線の改札のそばにあったと思います。お時間、まだ大丈夫ですよね?」
「ええ、はい。まだ余裕あります」
「じゃあ、ゆっくり行きましょうか」
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ゆっくりとは言っても、駅の構内にはさすがにこれといって見るべきものもなく、私はサカナの案内でほぼストレートにみどりの窓口まで辿り着き、切符を買い直した。上りの車内は朝早かったこともあり多少空いていたが、下りは指定席が数席しか残っていなかった。平日の夕方である。これも『Go To トラベル』の影響だろうか。
諸々の手続きを済ませて新幹線のりかえ口に着いたときには、午後五時五十分を少し過ぎていた。改札は目の前だ。あの改札の向こうに青森がある。
「もう、ホームに行かれますか?」
サカナが尋ねる。その声色が幾分寂しそうに聞こえたのは、私の気のせいだろうか。私は答えた。
「……いえ、まだ、もう少し。でもサカナさんは? もう帰られますか?」
「じゃあ、私ももう少し待ちます。ちゃんと見送らせてください」
近くに椅子など休める場所が見当たらなかったので、私たちは近くの柱に寄りかかって話すことにした。
「あっという間でしたね、一日」
とサカナが言う。私は素直に答えた。
「本当に、一瞬でした」
「天気が良かったら、上野動物園の方に足を延ばしてもよかったんですけど……」
「動物園か……それもいいですね。地元にはないし」
「そうなんですか? じゃあ、次の機会には是非」
次の機会――その一言がやけに耳に残った。それは単に、次に東京に来た時には、という意味か、それとも次に二人で会う時には、という意味か、どちらなのだろう。だが直接問いただす勇気はなく、そこで会話が途切れてしまった。話したいことはもっとあったはずなのだ。このままじゃまずい、何か話さなければと思っていると、サカナがまた話を切り出した。
「楽しかったですか? 今日」
「はい、もちろん。サカナさんは?」
「私もです。しばらくどこにも遊びに行けない日が続いてましたし……今でもまだ注意は必要ですけど、美術館に行ったのも久しぶりだし、楽しかった」
「あんな有名な画家の作品はネットかテレビでしか見たことなかったので、貴重な経験をさせてもらいました。今なら、何かいい小説が書けるような気がします」
「本当ですか?」
サカナは大袈裟に思えるぐらい目を輝かせたので、私は慌てて付け加えた。
「……まあ、気がするだけですけど」
「気がするだけでもすごいですよ。私は絵を見ても本を読んでも自分で書こうなんて思えないもの。首を長くして待ってますね、遠田さんの新作」
彼女はそう言って目を細める。そこで、また会話が途切れた。
今度は先程よりずっと長い沈黙が続く。タイムリミットは刻一刻と近づいている。時刻はもう六時を回ってしまった。私からも何か話題を振るべきだ、と頭では理解していた。しかし、この時の私の頭の中は、彼女に今の私の気持ちをどのように伝えるべきかでいっぱいだった。
絶対コクってこい、と佐々木は言った。コクる、とはつまり、好意を伝えて、交際を申し込むという意味か。そんな大それたことを、今残された数分間で言葉にまとめて伝えるのは難しい。だが、ここで好意を伝えずに青森に帰ったら後悔しそうな予感は確かにあった。
そう、好意だ。気持ちだけでも伝えてこいと佐々木は言った。しかし何の脈絡もなく? そういうのって、もうちょっと雰囲気のいい場所を選んでやるものではないのか。ここはムードもへったくれもない新幹線のりかえ口の改札の前。発車時刻が近づくにつれて、周りには新幹線を待つ客や、その見送りと思しき人の姿で慌ただしくなってきた。もう早めに改札をくぐっていく者もいる。人目にもつくし、好意を伝えるシチュエーションに相応しいかと問われたら完全にノーである。かといって場所を移動するにも時間がなさすぎる。
「会ってみたい、って言われたとき、すごく驚いたけど、嬉しかったです」
サカナが唐突に呟いた。たしかに会いたいと言ったのは私の方だ。
「あ、はい……つい、口をついて出てしまったというか……やっぱり驚かれますよね」
サカナは小さく頷く。
「あのタイミングでそんなこと言われるなんて、思ってもみなかったですし……でも、遠田さんが会いたいって言ってくれなかったら、こうして会うこともなかったかもしれない。私なんかに会うために、青森からわざわざ東京まで……」
「私なんか、じゃないですよ。サカナさんは、私にとっては……」
「会ってみて、ガッカリしたでしょう? 自撮りみたいにライトもないし、加工もできないし……自撮りの若い女の子を期待して来たのにって」
「そんな、まさか!」
私は即座に否定した。それは自分でも驚くほどの声量で、改札へ向かう人の流れからの視線が一瞬だけ私たちに向けられ、過ぎていった。
彼女の自撮りから、同年代か年下というイメージを持っていたのは事実だし、実際に会ってみてどう見ても年上ということには少なからず驚かされた。だが年増だとは微塵も思わない。むしろ彼女の穏やかな声と、柔らかい物腰、包み込むような優しさは、自撮りの中のサカナより、目の前にいる彼女の実像と合致しているとも言える。
そして、加工がなくても、マスクがなくても、彼女は美しい。落胆なんてしようがないじゃないか。
「サカナさんは、とても、綺麗だ」
傘の下よりも近い距離で、彼女は戸惑い気味に一度私から目を逸らし、また私の顔を見上げた。私は何を言っているんだろう。顔がやけに熱く感じる。まるで体中の血液が顔面に集まっているみたいだ。周りの人波が改札に向かって一斉に動き出す。発車時刻が近づいてきたのだ。
サカナは一心に私を見つめている。
雑念がふっと消えて。
今、この瞬間を逃したら、一生伝えられない、と思った。
「私は、貴女のことが好きです」
ホームの方向から何かのアナウンスの音声が聞こえ、周囲が俄かに慌ただしくなる。新幹線の到着が近いのだろう。
サカナの両目は赤く潤み、その涙を隠すように、彼女は目を伏せる。そして、消え入りそうな声で言った。
「……ごめんなさい。私には……私には、夫がいるんです」
私の頭の中は真っ白になった。何も考えられない。可愛くて性格もいい子は絶対競争率が高い、という佐々木の言葉が一度だけ脳内に響く。
そうだったのか。
当たり前じゃないか。
サカナはもう一度私の顔を見上げた。彼女の右目から頬にかけて一筋の涙が流れる。どうして彼女が泣いているのか、と思ううちに、左目からも涙の筋が頬を滑り落ちた。
サカナは手早くマスクを外す。投げ捨てられたマスクがひらりとどこかへ飛んで行き、そして、彼女は丁寧な仕草で私のマスクをも外した。彼女の涙に濡れた瞳が、赤く染まった鼻先が近づいてくる。
サカナはおもむろに目を閉じ、直後、唇に柔らかく温かいものが触れた。
その後のことはよく覚えていない。気付けば私は自分の部屋で、起動したばかりのノートパソコンの前に座っていた。両親にバレないよう、土産物の類も一切買ってこなかった。
きっと、これまでの出来事はすべて、夢だったのだ。




