表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/47

44

 レストランから新宿駅までの短い距離ではあったが、私たちは同じ傘の下で歩いた。サカナの赤い傘。傘を持ったのはもちろん私だ。


「まさか東京に来て傘を借りることになるなんて……ほんとにすみません」

「いえ、そんな、遠田さんが謝るようなことじゃないです。それより、パスタ、美味しかったですか?」

「はい、もちろん。雰囲気もいい店だったし」

「……なら、よかったです」


 傘の紅色がサカナの横顔を赤く染める。雨と排気ガスの臭いに混じって、ときどき微かに甘い香りが漂ってきた。サカナのコートと私のジャケットが何度か触れ合った。それぐらいに近かった。密である。

 この状態は、もしかして、いわゆる相合傘というやつだろうか? カップル達がよくやっている、あの……。

 努めて平静を装いながらも、私は今の自分が置かれている状況にとても困惑していた。女性と相合傘をするなんて、いや、こんな至近距離に並んで歩くことすら、私の人生には無縁なものだと思っていたのだ。それが、何度も通話してきたとはいえ実質初対面の女性と、こうして……。


「遠田さん、傘に入れてます?」

「え? あ、はい。大丈夫です」

「本当ですか? そちらの肩、少し濡れてますよ」

「あっ……」


 サカナの言う通り、傘を持っていない方のジャケットの左肩から左腕にかけて、たしかにしっとりと濡れていた。傘が小さいわけではない。私が少し彼女と距離を置いているからだ。


「風邪ひいたら大変だから、濡れないように、ちゃんと傘に入ってください」

「は、はい……」


 私は言われた通り、少し彼女に身を寄せた。私の右腕と彼女の左肩は、コートとジャケット越しではあるがほぼずっと接している。急激に高鳴り始めた心臓の鼓動が、ここから彼女に伝わってしまいそうだ。

 私はさりげなく周囲を見渡した。繁華街が近いせいもあるのか、若いカップルと思しき男女の姿も散見される。今の私たちは、客観的にどう見えるだろうか……。



!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 新宿駅に着いた私たちは、そこから中央線で神田駅に向かい、そこで山手線に乗り換えて、上野駅に到着した。もちろんサカナのエスコートだ。新宿から直接山手線に乗るよりこちらの方が早く着くらしい。もし私一人だったら迷わず山手線に乗っていただろう。そもそもどこで何に乗り換えた方が早い、という発想が私にはない。地元では新幹線か青い森鉄道の二択しかないからである。

 新宿駅同様、上野駅も巨大で迷路のように複雑だったが、サカナの案内のおかげで迷わずに済んだ。目的の国立西洋美術館は、上野駅に隣接する上野公園内にあるらしい。駅から出た私たちは、また一つの傘の下に寄り添うように並んで歩いた。

 駅を出たところで最初に目に飛び込んできたのは、上に皿が乗った秤のような独特な形状の建物。サカナによると、これは都の文化会館なのだそうだ。この秤でコロナ禍の中での文化の重要性を量れるだろうか、としょうもない想像をした。


「遠田さん、そういえば、今日お帰りは何時ですか? 明日もお仕事?」

「ええ、明日は朝から仕事ですね。今日一日休みを取った分、明日は通しです。だから少し早めに……六時台の指定席を取ってます」

「六時か……それで、青森には何時に着くんです?」

「大体三時間だから、地元に着くのは九時ぐらいですかね。一応、八時台に東京発の新幹線が最終なんですけど、それだと家に着く頃には日付が変わっちゃいますから」


 七時台にも東北新幹線の下りはあるのだが、それは私の地元の駅を素通りして新青森まで行ってしまう。両親には佐々木と一緒に遊ぶとだけ伝えているので、深夜に帰宅して怪しまれるようなことは避けたい。そう考えると、条件的には六時台の下り新幹線がベストな選択肢だったのだ。


「そっか……六時。じゃあ、あんまりのんびりはできないか……」


 サカナはスマートフォンで時刻を確認しながら呟いた。おそらく、もう午後二時は過ぎているはずである。国立西洋美術館では現在特別展が開催中で、混雑を避けるため日時指定のチケットが販売されており、そのチケットをサカナが取ってくれていたとのこと。何から何まで、本当に申し訳なく感じる。

 国立西洋美術館はこの秤のような文化会館の奥にあるらしい。私たちは雨に濡れたコンクリートの地面を歩いた。思えば、今日東京に着いてからこれほど空が広く見渡せたことはない。もっと天気が良ければ、清々しい秋晴れの東京の空を見られたのかもしれない。


「遠田さん、絵画はお好きですか?」

「……正直、あまり詳しくはないですが、興味はあります。サカナさんは詳しいんですか?」

「いえ、詳しいってほどでは……。良し悪しもよくわからないけど、でも、絵を見るのは好きです。遠田さんの地元にも美術館はあります?」

「ありますけど……まあ、ちょっと雰囲気が違うし、絵はそれほど多くないですね」


 などと話しながら歩くうちに、件の国立西洋美術館が見えてきた。

 先程の文化会館とは違い、正面から見る限りはモダンながらも落ち着いた雰囲気の、無難な四角形の建築である。二階へ繋がる階段が玄関の手前にせり出している点が少々変わっているぐらいか。これが著名な建築家ル・コルビュジェが設計し世界遺産に指定されている建物だと知ったのは、地元に帰ってネットで調べてからのことだった。向かって左手が庭になっており、建物の正面や庭にいくつかオブジェや彫刻が立っているのが見える。この雨の中でも、美術館の方向へ歩く人の列はそれなりに多い。

 サカナが言った。


「どうします? チケットの時間まではまだ少しありますし、先に外の方から見ていきましょうか」

「あ、はい。そうします」


 私たちは建物周辺や前庭の彫刻をゆっくりと見て回った。中でも有名な作品といえば、オーギュスト・ロダンの『地獄の門』と、『考える人』か。特に『考える人』のほうは子供の頃からテレビや写真で何度も見てきたので、実物を目にしたときの感慨はひとしおだった。考える人は雨にも負けずに思索に耽っていた。


「遠田さんも、小説を書いてるときとか、こんな風に考え込んだりするんですか?」

「私ですか? うーん、いや、どうだろう……自分ではわからないけど、でも、もしかしたらこんな感じかもしれない」

「へぇ……実際に小説を書いているところ、ちょっと、見てみたいです」

「え、書いてるところをですか?」


 私は意味もなく辺りを見回した。小説を書けるような環境はどこにもない。いや、まさかここで書いてみせろというわけではないのか、とすぐに気付く。


「私はそういう、自分で創作とか全然できないから、どんな人がどんな風に書いてるのか、すごく興味が湧きます」

「全然面白くはないと思いますよ。普通に、部屋でパソコンのキーボード叩いてるだけなので……それに、今は私も長いこと小説を書けていないし。こんな状態じゃ物書きを名乗るのもおこがましい」

「きっとまた書けますよ。近いうちに必ず。そのヒントになるようなものが、何かここにあればいいんですけど」


 屋外の展示物を一通り見終えた私たちは、入口の前で少し並んでから館内へと移動した。

 平日のはずなのに、館内は田舎の現代美術館しか知らない私には想像もつかなかったほど混雑していた。特別展は指定されたチケットを持った限られた人数しか入場できないが、常設の展示物を見に来た客が結構いるようだ。


「思ったより混んでますね……やっぱりもうすぐ休館になっちゃうからかな」


 とサカナも漏らした。

 入口でサーモグラフィの体温測定や手指の消毒を済ませて企画展の会場に入ると、会場内は外とはうってかわって人の密度が低かった。時間指定チケットによる人数制限が有効に作用しているのだろう。これなら東京都知事に怒られることもないはずだ。

 展示されていた作品は肖像画や宗教画の割合が高かったが、風景画も何点か見られた。ポスターにもなっていたゴッホのひまわりをはじめとして、絵画に疎い私でも名前を知っているモネやルノアールの作品もあった。


「何か、いいと思った絵、ありました?」


 とサカナが尋ねる。美術館なのであまり大きな声で話すことはできない。小声で、しかもマスクをした状態で伝わらなければならないので、相合傘の時よりも距離はさらに接近している。

 率直に言うと、私はどの絵も上手いとは思うものの、それ以上に特別な感想を持てないでいた。絵の見方がわからないのである。


「ええ……どれも、綺麗だと思います」

「私、絵の良し悪しはよくわからないんですけど、でも、この画家がどんなことを想いながらこの絵を描いたのかって、考えながら見るのが好きなんです。有名な画家の絵でも、そうじゃないものでも」

「……なるほど」


 画家の心情なんて今まで一度も考えたことがなかった。いや小説であっても、私はどちらかといえば授業やテストで出題される『作者が伝えたかったテーマ』というようなものが苦手だったのだ。絵画には解説も後書きもないので、作者の意図を推察するのは小説よりも難しく感じるが、サカナの言葉を意識して、私も今ちょうど目の前にある絵を見てみることにした。

 鬱蒼とした森の中に佇む記念碑の絵である。上部にわずかに空は見えるものの、曇っていて絵全体の配色も暗い。記念碑の両側には男の胸像が向かい合って建てられている。だがこの風景画の中で一際目を引くのは、記念碑の前でこちらを振り返る一頭の牡鹿だ。牡鹿はどのような意図を以って描かれたのだろうか。空がやや青みがかっていることを除けば、全体の配色は黒と茶褐色、灰色という感じで、色褪せてセピア色になった昔のモノクロ写真のようなトーンである。絵の題名は『コルオートン・ホールのレイノルズ記念碑』。作者名はジョン・コンスタブルと記されている。

 ここで見た絵の中でも何故か特に印象に残る作品だと思う。陰鬱。静謐。雰囲気を表す形容詞はいくつか思い浮かぶものの、作者の心情はさっぱりわからない。


「何だか……優しい絵ですね、これ」


 サカナが言った。


「優しい……?」


 私は思わず聞き返した。私が受けた印象は、どちらかといえば優しさの対極にある、冷たさというか、うら寂しさのようなものだったからだ。

 彼女は続けた。


「一見しんみりとした絵に見えますけど、この穏やかな目をした牡鹿が、風景に意味を持たせているというか……静かな森との調和を感じる、って言ったらいいのかな……」

「調和か……なるほど」

「そう考えると、もしかしたらこの牡鹿は、作者自身を投影したものなのかもしれませんね」


 サカナが述べた解釈は、私には一生持ち得ない感性によるものだと感じた。絵だけに限らない。小説にも同じことが言えるかもしれない。このように作品を鑑賞するのかと、今更ながら彼女に教えられた気がした。



!i!i!i!i!i!i!i!i



 それから私は、一つ一つの作品をじっくり時間をかけて鑑賞するようになった。とはいえ、見方を変えたからといって突然何か新しい知見が得られるようになるわけでもない。理解できたものも、理解できなかったものもある。それでも、今はとにかくこの絵をできる限り目に焼き付けておいて、感じたことを覚えておこうと思った。その記憶が、いつか私の創作の糧になるかもしれない。少なくとも、そうなる予感はあった。

 特別展を見終えた後は、常設展の絵画や彫刻も一通り見て回った。今日一日だけで一生分の芸術作品に触れたと言っても過言ではない。本館の一階に戻って来たところで、サカナが言った。


「少し、喉渇いてませんか?」


 たしかに私も少し喉の渇きを覚えていた。作品の鑑賞中は当然ながら飲食不可だったからである。私たちは、美術館内にあるカフェで少し休憩していくことにした。カフェと名乗る割にはかなりメニューが豊富で、カフェよりレストランと名乗る方が相応しいかもしれない。まだ腹は減っていなかったので、私も彼女も紅茶だけ注文した。

 マスクをあごまで下げ、運ばれてきた紅茶を飲みながら、彼女は言った。


「どうでした? 何か、インスピレーションを刺激する作品、ありましたか?」


 私は答えた。


「はい。まだ、具体的にどう、とは言えませんが、今はとても、何かが書けそうな予感がしてます」

「本当に? それならよかった。遠田さんの次の作品、私はずっと待ってますから」


 彼女はそう言うと、壁一面ガラス張りになったその向こうに広がる中庭の風景へ視線を転じる。さっきの私の返答は、半分本音で、半分は嘘だった。今、この美術館の中で最も美しく、何よりも創作意欲をかき立てるのは、絵画でも彫刻でもなく、目の前にいる一人の女性の横顔だったからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ